俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

曲解

2014-07-20 10:15:21 | Weblog
 安倍内閣による憲法曲解を憤る人は少なくない。しかしそれ以前から憲法を曲解していた人はそれに憤る資格が無い。1つ穴の貉だからだ。
 では誰が詭弁を弄して憲法を曲解していたか?護憲を標榜する連中だ。彼らは護憲を主張するが憲法を守る気など全く無い。彼らこそ元祖とも言える憲法曲解者だ。
 例えば憲法第89条では「公金は公の支配に属しない教育に対して支出してはならない(一部略)」と定められている。これを第9条に対する安倍内閣と同じように曲解して、私立学校に補助金を支給している。憲法の条文を捻じ曲げて都合の良いように解釈するという意味で彼らは法治主義を否定している。
 私は私学に対する支援は必要と考える。だからこそ憲法改正が必要と考える。誤った憲法を残したままで恣意的な解釈で憲法を骨抜きにすることは法治国家としてあるまじきことだ。
 親権を巡る裁判で、DNA鑑定よりも民法が優先された。100年以上前に定められた法律に従うことを非難する人が少なくないが、法律がそう定めているのだから司法がそれに従うのは当然だ。司法の役割とは国民に法を遵守させることであって社会に迎合することではない。司法は正邪を判定しない。合法・違法を判定することが仕事だ。
 日本では重婚が禁じられているから重婚は犯罪だが、多重婚が認められているイスラム圏であれば合法だ。司法の仕事は倫理を守ることではなく合法・違法の判定だ。
 法律は整合性を持っているから一部を捻じ曲げてしまえばどこかで不都合が生じてしまう。司法の立場としては遵法が最優先であり、この判決に対する不満は司法ではなく時代遅れの法律を見直さない立法府に向けられるべきだろう。
 憲法に妙な規定があるのなら見直すべきであり曲解によって現実と整合させるべきではない。憲法は宗教の教典とは違って見直すことができる。誤った条文であろうとも一語一句変えさせまいとする教条主義者こそ憲法を歪める元凶だ。
 安倍内閣は反面教師として素晴らしい実績を残したと思う。曲解ではなく改正こそ正道だと多くの人が感じたのではないだろうか。
 憲法であれ民法であれ改正されるまでは現在の条文が正義だ。100年以上前の民法であれ70年近く前の憲法であれ悪法も法なのだからこそ、誤った法は改正されるべきだ。曲解によって法を捻じ曲げていれば、いずれ法全体が空文化して酷いことになってしまうだろう。

未知と無知

2014-07-20 09:35:43 | Weblog
 私は未知のことに不安を感じる。集団的自衛権とか気象津波とかいった分からない概念や医療事故などが報じられると自分で調べてそれがどういうことなのか理解しようとする。私は知らないことに対して不安を感じる。
 多くの人はそうではないようだ。未知のことであろうとも調べようとしない。マスコミが報じたことを、たとえそれが誤報であっても鵜呑みする。調べてもどうせ分からないからと専門家任せにしてしまう人も多い。
 私が敢えて調べないのは芸能人のスキャンダルだ。誰と誰が結婚しようが離婚しようが全く関心が無い。それ以前にその芸能人が何者なのかさえ知らない。ところが多くの人はこちらには関心を持って最新情報を求める。
 なぜ人は知らないことに不安を感じないのだろうか。1つは私の芸能人情報のように必要性を感じないからだろう。もう1つは知らないということにさえ気付かず、知らないからこそ安心しているのだろう。これを「無知」と呼んでも良かろう。
 私自身の経験から言えば、知らない間は医療を信じていた。藪医者はともかく、まともな医者であれば病気を治療してくれるものだと思っていた。風邪であれ胃腸障害であれ捻挫であれ、薬を使って治すものだと思っていた。これらがとんでもない大間違いであることを知ってしまった。殆んどの薬には治療効果は無く、不快な症状を緩和するだけの対症療法薬に過ぎないことを知った。実際に治療をするのは体に備わった自然治癒力だった。これは大きなショックだった。今では薬を全く使わない。
 何度も書いたことだが、病気による発熱は症状ではない。体が対病原体の戦闘モードに入ったということだ。発熱には2つの効果がある。1つは高温に弱い病原体の活動を抑えることであり、もう1つは免疫機能を高めることだ。解熱剤で強制的に体温を下げてしまえば病原体を二重に利することになる。こんなことが医療の名の元で行われている。
 昔、水銀や砒素が飲み薬に使われていた時代があった。それを野蛮と笑うことはできない。現代においても薬のつもりで毒物を摂取していることが余りにも多い。

リスクとリターン

2014-07-18 10:07:07 | Weblog
 リスクとリターンはリンクしている。ローリスクであればローリターンであり、ハイリスクであればハイリターンだ。ハイリスク・ローリターンであればすぐに淘汰され、ローリスク・ハイリターンなものが可能であれば模倣されて類似品だらけになる。その結果、どれも同程度にローリスク・ローリターンになってしまう。
 原発や超高層ビルのようなハイリスクな物を作るのはそれがハイリターンだからだ。ローリターンであれば誰もそんなものを作らない。ハイリスクであることだけを根拠にしてこれらを否定する人はハイリターンであることを半ば意図的に無視している。
 狂気としか思えないのはノーリスクを求める人だ。ノーリスクであれば当然ノーリターンであるのに、あろうことか彼らはハイリターンを求める。そんなものはあり得ないのだから、結局、彼らは詐欺師の餌食にならざるを得ない。つまりノーリスク・ハイリターンを求めてハイリスク・ノーリターンを得ることになる。インチキダイエット法もその一例だ。
 進学であれ就職であれ結婚であれ、どれもリスクを伴う。リスクを回避した人がリターンを得ることは無い。
 食品添加物を毛嫌いする人は、なぜそれがわざわざ使われているのかを考える必要がある。保存料であれば食中毒というリスクを軽減するからだ。保存料というリスクと食中毒というリスクを秤に掛けて初めてそれの評価が可能になる。私は保存料というリスクは食中毒防止というリターンに充分に見合うと思う。その一方で、着色料については充分にリターンがあるとは思えない。これによってリターンを得るのは食品メーカーだけであり消費者ではない。
 「薬はリスク」そのものだ。薬とは毒物であって、毒を以って毒を制すということが服薬の本質だ。だから治療効果の無い対症療法薬は、我慢可能な限り使わないほうが良い。例えば頭痛薬を飲めば頭痛が緩和されるがこれは治療効果ではなくただ単に感じなくなっているだけだ。症状はそのまま続いている。傷口に対する痛み止めと同等の効果しか持ち得ない。傷口には治療が必要なように二日酔い以外の頭痛であれば真因に対処する必要がある。
 

雑食

2014-07-18 09:36:18 | Weblog
 人類は毒に強いから増殖したのではないだろうか。人類は最も雑食だ。こんなに何でも消化吸収できる動物は他にいない。ユーカリしか食べないコアラや竹しか食べないパンダが絶滅を危惧されているが人類は増え続けている。雑食という生存戦略は強力だ。
 猫や犬は人類の友として肉食から雑食に変わった。「♪お魚くわえたドラ猫追っかけて♪」という主題歌があるように、日本人はサザエさんの影響もあり、猫を魚好きの動物と思っている。しかし猫は水を怖がるので本来、魚を食べない。世界で唯一の例外はイリオモテヤマネコであり浅瀬で魚を獲る。特殊な環境の元で特殊な習性を身に付けたのだろう。
 家畜の食物は人類が操作すれば大きく変化する。草食動物の筈の牛を穀物によって育てたりビールを飲ませたりして脂身の多い肉質に変えることもあるし、かつてはBSE(狂牛病)の原因となった肉骨粉(牛の脳と内臓と骨)まで食べさせていた。それでも大半の家畜やペットはタマネギなどを食べることはできない。薬の動物実験が可能なのは彼らのほうが毒物に敏感だからだ。
 人類の消化器官は異常と思えるほど丈夫で獣も鳥も魚も虫も植物も菌類(キノコなど)もことごとく食べ、更にはミドリムシのような原生動物まで食用にする。今では殆んど無いがかつては人肉まで食べていた。
 人類は最強の雑食動物でありこの特性が思わぬ所で役立つ。酢は人類にとって有益かつ無害だがオニヒトデにとっては猛毒らしい。サンゴを食い荒らすオニヒトデの駆除のために酢が使われている。オニヒトデに酢を少量注射すればすぐに死んでしまうそうだ。死んだオニヒトデは生態系の中で分解されるので環境を悪化させることも無い。ほんの僅か海水が酸っぱくなるかも知れないが、人類は勿論、他の動植物にも殆んど無害だ。もし人類にとって酢が有害であればこんな駆除策は使えないところだ。 

冷蔵庫

2014-07-17 10:02:48 | Weblog
 未だ梅雨明けしていないが蒸し暑い日が続いている。冷蔵庫のドアを開ければ冷気を感じて涼しい。では開けっ放しにすればどうなるだろうか?室温が上がる。冷蔵庫は庫の外側で発熱することによって冷気を作っている。燃焼が典型だが、エネルギーは総てプラスでありマイナスエネルギーは存在しない。だからエアコンは室外を温めることによって室内を冷やしている。室内の熱を室外に放出しているように錯覚しそうだが、実際には室外を温めることによって冷気を作っている。トータルでは加熱になるのだからヒートアイランド現象の一因ともなっている。
 泳いでいる時に顔を上げれば体は下がる。体が下がれば抵抗が大きくなるのでスピードが落ちる。クロールなら体を回して呼吸をするので余り上下動をしないが平泳ぎであれば上下動になる。ストローク数の少ない北島康介選手がストローク数の多い選手よりも早いのは上下動が少ないからだ。ピッチを上げることがスピードアップに繋がらないのだから平泳ぎは難しい。
 旅客機事故のショッキングな映像が印象に残っている。その旅客機は滑走路ギリギリの高さで海上を飛んでいた。このままでは危ないと判断したのだろうか、その旅客機は空港島の直前で機首を上げた。その瞬間、機体の後部が下がった。下がった後部が岸壁に激突した。
 機首を上げるのが数秒早ければこんな事故にはならなかっただろう。機首を上げれば機体は上昇する。しかし機首を上げた瞬間には機体後部が下がるということに対する理解が不十分だったのか旅客機の長さを過小評価していたのかは分からないが、もし機首を上げなければギリギリで着陸できていたように思えた。「上げる」と「浮かぶ」の違いを実感させられる事故だった。

皮膚癌

2014-07-17 09:34:14 | Weblog
 紫外線を浴びると皮膚癌になるという馬鹿げた情報は一体誰が発信源なのだろうか。日本人の皮膚癌は極めて少ない。国立がん研究センターの「部位別がん死亡率(2012年)」に依ると10万人当たりでの癌死亡者数は男性が378人(0.378%)で女性が255人(0.255%)だ。その内、皮膚癌はそれぞれ1.2人(12人ではない)と1.3人に過ぎない。白人と比べて黄色人種の皮膚癌が少ないことは知っていたが実数を知って改めてその少なさに驚く。
 勿論、このごく少ない皮膚癌の患者は必ずしも紫外線だけが原因ではなかろう。他の癌と同様、複合的な要因によって発症したと考えられる。
 私は多分、日本人平均の数百倍の紫外線を浴び続けている。ここ数年は行っていないが以前は春と秋にはフィリピンに旅行して真っ黒になって帰って来たものだ。しばしば「皮膚癌になる」と脅されたものだが脅した人は皮膚癌が日本人にとっては奇病にも等しいことを知らない。
 日本人女性に、日焼けと汚れを同一視させ、更に皮膚癌の恐怖を植え付けたのは多分化粧品会社であり、その片棒を担いだのはマスコミだ。彼らのプロパガンダによって日焼け止めや美白化粧品が売れただけではなくUVカットの雑貨の市場も拡大した。
 その一方で美白化粧品の薬害による「斑肌」の患者が大勢生まれ、日光浴不足が招くビタミンD欠乏症のくる病の患者も増えている。皮膚癌発症率の高い白人が日光浴の必要性を知っているのに日本人はその必要性を全く知らないし知らせようともしない。稀な病気を針小棒大に騒ぎ立ててその結果として病人を作るなど犯罪にも等しいことだ。
 色白こそ美しいと信じている人の偏見を改めさせる必要など無い。それは個人の趣味の問題だし、どうせ聞く耳も持たない。必要なのは正しい医学知識だ。紫外線と皮膚癌の因果性は不確実だが、カネボウの美白化粧品と斑肌や紫外線不足とくる病の因果性は確実だ。紫外線は怖いと騒ぐばかりではなくその必要性も伝えるべきだろう。

不正請求

2014-07-15 10:09:11 | Weblog
 号泣記者会見ですっかり有名になった野々村元県議だが、チケット店で使われた切手代と称する176万円は多分、商品券だったと思う。切手代としておけば政務活動費として請求できる。その商品券で買った物の領収書も政務活動費として認められる。この手口を使えば本来の経費の2倍の額が請求できる。多分、少なからぬ政治家がこの手口を使っているものと思える。
 昔、百貨店で、商品券を商品券で買える時代があった。領収書の品名を「進物品」とすれば交際費として経費で落とせた。これを何度も繰り返せば経費を幾らでも水増しできた。こうやって簡単に帳簿を操作して脱税ができた。
 この商品券で商品券を買うという手口は外にも悪用できた。百貨店の駐車場を使って、毎回商品券で商品券を買っていれば、数千円を寝かせるだけで延々と無料駐車が可能だった。今ではこの手口は使えない。
 アメリカでは医療費の不正請求の取り締まりが強化されている。制裁金と合わせて192億ドルがこの5年間に徴収されたそうだ。
 日本でも医療費の不正請求は日常的に行われている。アメリカほどの巨額にはならないと思うが、これを取り締まることによって収入増と医療費の削減が同時に可能になる。
 脱税を放置したままでの増税は理不尽だ。それは脱税によって不足する税収を善良な納税者に負担させる悪政だ。悪事を放任したままでの増税は全く不合理だ。
 政府はパチンコ税や携帯電話税などを検討しているらしいが、それよりも脱税や不正請求の撲滅に乗り出したほうが良いのではないだろうか。政治家の政務活動費や病院の不正請求を摘発するだけでかなりの収入増が見込める。善良な庶民から取り立てるよりも悪事の退治による増収のほうがずっと国民に歓迎されるだろう。

恐怖

2014-07-15 09:38:55 | Weblog
 論理と心理の両方を睨まねばならない。この二者はしばしば相矛盾する。それは単に知と情という意味ではなく脳構造の進化史に由来する。
 生物の進化は飛躍しない。常に従来の物の延長として進化する。原生動物から爬虫類へと進化した脳はその間、多分一度も作り直されてはいない。重層化することによって機能を高めた。まるでかつて香港にあった九龍城のように基本構造の上に次々に積み重ねられることによって高度化した。脳はパソコンのバージョンアップのように元の機能をそのまま残して新しい機能が付け加えられた。だから先に原始的部分が反応する。爬虫類の脳が反応した後、哺乳類の脳、そしてそれから人類の脳が反応する。最後に反応するのが人類の脳つまり理性だ。人類以前の脳と人類の脳が別々に反応する。これが情と知の違いになる。
 人類以前の脳とは以前から持ち続けて現在も持っている脳だ。それは決して原始的という意味ではなくむしろ動物として基本的かつ根本的なものだ。自己保存欲とか性欲や快・不快原則などの動物として普遍的かつ不可欠な機能だ。
 動物は様々な情動を持つがその中でも最も重要なのは恐怖だ。危険なものを察知して一刻も早く逃げることが生命維持のためには最重要だ。あらゆる知覚は危険察知を目的として発達した。
 人類においても恐怖が最重要だった。猛獣や天災から逃れることが最優先課題だった。ところが猛獣は近辺にはいなくなり台風であれば事前に予測できる。恐怖の対象が実質的に無くなっても恐怖の感情だけが残っている。だから人は必要以上に怖がってしまう。食品添加物や新型インフルエンザに怯えるのは恐怖という情動が強過ぎるからだ。対象を失った情動は暴走する。
 人類には理性が備わっている。強過ぎる恐怖心を克服できるのは人類の脳つまり」理性に依る。恐怖心は動物として必要な情動ではあるが文明社会においてはパニック反応のように最早有害な情動であることが少なくない。犬でさえ訓練すれば雷や花火の音でパニックを起こさなくなる。多分、人類の脳は犬よりも高性能だろう。
 通常、有害な性質は淘汰されるものだが、人類は今尚、進化の途上にある。中国文明でさえ僅か4,000年の歴史しか無い。こんな短い期間では充分に進化しない。最早有害とさえ思える恐怖心が克服されずに温存されている。

共生

2014-07-13 10:07:02 | Weblog
 生物は共生している。動物はミトコンドリアと共生し、植物は葉緑体と共生している。これらは生物本体とは別の遺伝子を持っており太古から共生し続けている。
 ミトコンドリアは酸素をエネルギーに変え、葉緑体は光合成を行う。つまりどちらの共生体も生命維持のための最も重要な役割を担っている。
 牛は自力でセルロースを分解できない。セルロースを分解するのは胃に棲む微生物だ。牛はこの微生物がセルロースから作った蛋白質を消化吸収している。だからこの微生物を殺してしまえば牛はセルロースを分解できなくなって餓死してしまう。他の草食動物も胃や腸に棲む微生物の助けを借りて生きている。
 人間はミトコンドリア以外の微生物とも共生している。O-157のせいですっかり悪玉菌にされてしまった大腸菌だが、大腸菌と共生していなければコンニャクを消化できない。またビタミンKなど多くの栄養素を腸内細菌が合成しているらしい。
 皮膚や胃腸などには常在菌が棲んでいる。殺菌や消毒をすれば常在菌が死ぬので却って悪玉菌が集まり易くなる。これはフセイン政権が倒されたことによって中東諸国に点在していたテロリストが集まったことと非常によく似た構造だ。
 生物が共生していることを忘れて抗菌を奨励することは正しい行為とは思えない。善玉菌や常在菌を殺せば悪玉菌にその座を譲ることになる。
 傷を消毒しないことが新しい医学常識になったが、これは消毒が体細胞を破壊するからだけではなく常在菌を殺してしまうからだ。
 人間は各種発酵菌や善玉菌の恩恵の元で生きている。バイ菌などと決め付けて殺菌・抗菌に励むからアレルギー症状が増えたとも言われている。菌を殺し過ぎれば、胃や腸の微生物を失った草食動物のように絶滅しかねない。共生するミトコンドリアを失えば動物は生きていられないという事実を忘れるべきではない。動物界の根本原理は弱肉強食や優勝劣敗ではなくいかに上手く共生するか、ということだ。

努力

2014-07-13 09:34:13 | Weblog
 私は努力万能主義者でも努力無用論者でもない。能力とは先天性×後天性だと考えている。つまり努力一辺倒でも駄目だが努力を怠ったら才能を発揮できないと考える。
 仮に蛙に言葉を教えようとしても徒労に終わる。蛙には言葉を操る先天的能力が欠けているからだ。また人を犬に育てさせれば彼は二足歩行も言葉も覚えない。教わらなければ身に付かない。能力とは先天性と後天性の相乗効果だ。どちらかがゼロであればその積はゼロになる。
 勉強嫌いな生徒は「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言って自己正当化を図る。とんでもない。社会科を勉強することによって記憶力を高め記憶のテクニックを身に付ける。数学を学ぶことによって論理的思考力を得る。国語を学べば理解力と発言力を修得する。大いに役立つ。
 かつて少年ジャンプは「友情・努力・勝利」を隠れテーマにしていた。最近「努力」が軽んじられていないだろうか。例えば今一番人気のONE PIECEでは「悪魔の実」を食べることによって超能力者になれるという設定になっている。かつての人気漫画の「ドラゴンボール」では死にそうな目に会う度に強くなるという設定だった。努力を積み重ねて能力を高めるというスタンスよりも棚ボタによって超能力を得るというパターンが妙に多いように感じる。努力は格好悪いという風潮があるのではないだろうか。
 古い話だが、高校生の頃、ある二流校の体育祭を見に行って驚いた。長距離走を真面目に走る者が殆んどいなかったからだ。トップを狙う数人以外は明らかにふざけて走っていた。なぜクラスの代表でありながらそんな行動をするのか分からなかった。これは負けると分かっている勝負で一所懸命走るよりも手抜きして惨敗するほうが良いと思っているからだろう。勝つなら努力は格好良く、負けるなら努力は恥ずかしいと考えているのではないだろうか。
 ストレス忌避の風潮と一脈通じるように思える。ストレスを悪と考えるのは正しくない。ストレスが無ければ人は弱体化する。重力というストレスから解放された宇宙飛行士は筋力が極度に低下して歩くことさえできなくなる。適度なストレスを善玉ストレスと呼ぶことさえある。適度なストレスにはトレイニング効果がある。
 やる気や根性に頼るべきとは思わないが、適度な努力は欠かせない。努力蔑視はストレス否定論と同じ間違いを犯している。