俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

転向者

2015-12-21 10:24:07 | Weblog
 何歳でのことか思い出せないが、トイレで小便をしている夢を見て寝小便をしたことがある。「小便をする夢には気を付けねばならない」と子供心に思ったものだが、これは原因と結果が逆だ。寝小便をしたから小便をする夢を見たのであって夢は原因ではなく結果だ。
 時限爆弾の夢を見ていたら枕元で目覚まし時計が鳴ったという類の経験をした人は少なくなかろう。これは、夢がアラームの鳴る時刻を予知した訳ではない。アラームが鳴った瞬間に「これは時限爆弾だ」と想像して一瞬の内にそれまでの物語が作られる。物語を作るために時間は必要無い。一瞬で長い物語を作ることができる。モーツァルトは一瞬で交響曲を作ったと言われているが、表現するために時間が掛かることであっても想起するためには一瞬で充分だ。所謂ヒラメキは一瞬で全体を思い付く。
 記憶を考えればこのことは明らかだ。10年間のことを思い出すために10年掛かる訳ではない。一瞬の内に10年間のことが思い出される。10年分の物語を作るのもほんの一瞬で充分だ。肉体は時間と空間に制約されるが精神は時間・空間を超越できる。
 意識も無意識も事実を後追いしながらそれ以前の物語までデッチ上げようとする。
 先日、朝日新聞でこんな記事を見付けて大笑いした。敗戦の翌月に退社した記者の回想だ。「戦時中に愛国心を強調した人ほど、戦後は『自分は被害者だ』と言ったり親米派に転じたりした。退社の理由は不信です。」
 戦後、手の平を返して民主主義の信奉者になった人々の正体とはこんなご都合主義者だ。彼らは現在の状況に基づいて幾らでも過去を捏造する。こんな連中が世論を引っ張ったから現代史は歪められた。
 GHQによる占領政策から東京裁判を経てサンフランシスコ平和条約に至る一連の流れの中で現代史は徹底的に歪められた。敗戦国の立場があるから政府はこれらの偽りの歴史に対して正面から批判することはできない。だからこそ民間人が嘘を暴かねばならなかったのだが、GHQのマインドコントロールを受けた文化人が嘘の上塗りをした。恥知らずのご都合主義者こそ現代史を歪めた「戦犯」だ。現代史は徹底的に見直されるべきだ。

マナー

2015-12-21 09:46:28 | Weblog
 社会にはルールとマナーがありこの両者を厳密に区別することは難しいが、混同され勝ちだから敢えて仕分ける。劉邦が布告した「法三章」が最も分かり易いルールだろう。「殺すな、傷付けるな、盗むな」の3つだけを民衆に命じた。法家の思想を重視した始皇帝による圧制によって雁字搦めにされていた秦の民衆はこの法三章を大歓迎した。ルールには民衆を守る側面と民衆を支配する側面の両面がある。
 「子供を大切にしなさい」はルールではなくマナーだ。もしこれがルールになれば大変なことになる。駄々を捏ねる子供を泣かせた母親が犯罪者にされかねない。その一方で児童虐待禁止はルールだ。親孝行もマナーであってルール化は難しい。
 ルールに従えば良いのであれば自動車の自動運転はすぐに実用化できる。ところが右折はルール化できない。対向車の好意に依存することが多いからだ。機械はルールに従うことならできるがマナーを活用できない。マナーを理解するためには機械的ではない高度な知性が必要だ。
 ルールとマナーがグチャグチャにされているからルールがマナー扱いされたりマナーがルール扱いされたりしている。「交通ルールを守りましょう」は変な標語だ。ルールは「守りなさい」だ。ルールを破れば罰される。その逆に「喫煙マナー厳守」もおかしい。法や条例で定められていない行為は本来、拘束できない筈だ。
 差別禁止はルールだ。性や人種などによって差別してはならない。しかしアメリカでは能力による差別(区別)だけは公認されている。能力が足りなければプロスポーツ選手やアーティストになれないように、あらゆる職業において能力が問われる。能力による区別まで差別と見なせば変な形で本音と建前が乖離する。
 誹謗中傷の禁止はルールだ。事実に基づかないことを悪意を持って公言してはならない。昔であれば公言できる場は限られていたからどこかでチェック機能が働いたが、インターネットの普及によって誰でも公言できる社会になってしまった。そのために正当な批判と誹謗中傷を区別できない人まで公言して問題を起こす。身体障害者を撮影して笑いものにしたり企業や個人に対する私怨を並べることなどはルール違反だ。
 その一方でマスコミが勝手に定めた放送禁止用語をまるでルールのように思い込んでいる人がいる。放送禁止用語はルールとマナーが混在しているからこれをルールとして振り回せば言論統制にもなりかねない。「魚屋」や「八百屋」は放送禁止用語だがこれらを日常用語として使う限り差し支えない。
 同性愛者を差別することはルールに背くがマナーを守った上で「同性愛は異常」と主張することは言論の自由だ。これを差別と決め付けて糾弾することには何の正当性も無い。「同性愛は正常」ということが学術的に認められている訳ではないのだから同性愛の肯定を強いることこそ言論弾圧でありルール違反だ。
 電車やエレベータの乗降はマナーだ。乗っている人が降りてから乗ることは誰が考えても理に適っている。しかし乗降客数の少ない駅ではこれが守られていない。トイレやレジでのフォーク並びも合理的な仕組みだがこれもマナーだから強制できない。

No!

2015-12-19 10:31:22 | Weblog
 No!と言うことは易しい。気に入らないことに対してとりあえず感情的にNo!と言っておけば、理屈は幾らでも後付けできる。
 志摩市の非公認キャラクターになった碧志摩メグが気に入らなければ「若い女性の体を強調して」「女性蔑視」と因縁を付ける。しかし「体を強調しない」絵などそもそも可能なのだろうか。磯着を来た女性を描こうとすれば絶対に「体を強調した」絵になる。それを避けようとすれば10歳未満か70歳以上を選ばねばならなくなる。これでは絵にならない。
 私は同性愛を否定しない。それは趣味の問題であり他人がとやかく言うべき問題ではない。獣姦であれスカトロジーであれ趣味の問題だからそれが好きであることは個人の勝手だ。しかし圧倒的多数の人がそれを嫌うという事実も認められねばならない。
 小学生の時、先生から「他人の嫌がることを進んでしなさい」と教えられて、素直な少年の私は同級生の女の子に青虫を見せるという「他人の嫌がること」をして泣かせてしまったことがある。やはり「他人の嫌がること」をすべきではなかろう。
 同性愛を許容することと同性婚を認めるかどうかは別問題だ。同性婚を認めないことは人権の侵害ではない。なぜなら日本国憲法は第24条で「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」と明記されているからだ。同性婚の是非は人権問題ではなく憲法問題だ。同性婚を認めさせたければ憲法改正を訴えるべきであり、憲法の摘み食いこそ最も悪質な憲法曲解だろう。
 多くの人は論理を積み上げて理性的に考えることなく感情的に判断する。感情的な判断は大半が偏見に基づいている。人がどれほど偏見に凝り固まっているかは、太陽の色を尋ねるだけで分かる。「赤い」とか「真っ赤」とか形容され勝ちだが実際の色はかなり黄色っぽいオレンジ色だ。太陽が赤いなど真っ赤な嘘だ。嘘や偏見を正当化しようとしてもどこかに無理が生じる。
 日本人は寛容だ。もしかしたら世界で最も寛容な民族かも知れない。少なくとも最も身近な3民族(アメリカ人、中国人、韓国人)と比べて寛容であることは確実だろう。我儘な人はこの寛容性に付け込んで我儘を通そうとする。最近は余り使われなくなった言葉だが、モンスターペアレントやモンスターペイシェントが蔓延ったのは、異物を許容し過ぎたことが原因かも知れない。
 香川県では「色白」が差別語扱いされているらしい。「強いコシ 色白太目 まるで妻」という句にクレームが付いたために「うどんかるた」の販売が中断しているとのことだ。過剰反応だろう。
 ジャポニカ学習帳の表紙から昆虫が追放されたのは3年前のことだった。一部の消費者が「気持ちが悪い」と抗議したからだ。ところが今年アンケートをしてみれば圧倒的に昆虫の人気が高いことが分かって昆虫の表紙が復活した。クレイマーをこれ以上のさばらせるべきではなかろう。

男女格差

2015-12-19 09:44:23 | Weblog
 公的年金についての世代間格差はしばしば問題にされるが、男女格差について触れられることは殆んど無い。しかし世代間格差は現状からの推定で将来実際にそうなるかどうかは不確実だが、男女格差は今、実際に生じている格差だ。これが問題視されていないことこそ大問題だろう。最大の原因は寿命の違いだ。
 生命保険であれば男性のほうが掛け金が高くなる。これは同じ保険金を得るためには死に易い男性のほうが多くの掛け金を払わねばならないということであり、確率論で考えても妥当だ。
 しかし公的年金はとんでもない仕組みになっている。毎年の受給額は納付期間や納付額によって決まる。だから受給期間が長いほど得をする仕組みだ。
 ところが平均寿命の男女差は明白だ。2014年のデータでは男性が80.50歳、女性が86.83歳とのことだ。女性のほうが6年以上長寿なのだから受給期間も6年以上長くなる。65歳から受給するとすれば男性は15.5年、女性は21.8年受給することになり、女性の受給期間は男性の1.4倍、つまり受給額も1.4倍になる。
 世代によって異なるが、将来の公的年金の損益分岐点は80歳以上まで生きるかどうかだろう。80歳まで生きればほぼ確実に納付額以上の受給額になり、80歳までに死ねば損をする可能性が高い。ところが2014年のデータに基づく80歳生存率は男性が53.5%、女性が75.3%とのことだ。つまり男性は半分の人しか得をしないが女性は3/4が得をするということだ。これは酷い!
 こんな不公平を解消するために男女の年間受給額に差を付けるべきだろう。受給期間が短い男性の受給額を増やさなければ余りにも不公平だ。
 マスコミはこんな問題提起をしない。女性が差別されているという話には飛び付くが男性に対する差別は無視される。日本の男性は寛大過ぎるようだ。男性は余りにも明確に不公平な制度に対して怒るべきだろう。
 素人でもすぐに気付く矛盾に専門家が気付かない筈が無い。わざと温存されているのだろう。もし制度の見直しをするなら、男性を増額、女性を減額するということになるが、多数派を占める女性の大半が反対するだろう。多数派が得ている特権には手を付けられないことが民主主義の最大の欠点だ。極度に高齢者を優遇する大阪市の「敬老パス」に対して橋下前市長以外は誰も火中の栗を拾おうとはしなかった。正義よりも票集めを重視する政治家ばかりだ。

描写

2015-12-17 10:18:40 | Weblog
 あるがままに描いても似顔絵にはならない。その人の特徴を強調して初めて似顔絵になる。絵にはデフォルメが必要だ。デフォルメによって本物よりも本物らしくなる。
 漫画の場合、世間一般に通用している常識を踏襲せねばならない。あるいは漫画界独特の約束事もある。誰の絵であっても顔は大き目で特に目は大きく描かれる。
 女性を描く場合、バストをどう描くかが漫画家にとって悩みの種だろう。標準的なCカップで書いても「性を強調している」と因縁を付けられかねないからだ。だからと言って全員をAカップに描けばこれも不自然極まりない。
 ウエストやヒップをどう描くべきかも難しい。どう描いても「性を強調している」という批判を免れられない。
 こんな事情があるから性を意識させない漫画を描くためには中年以上の女性と子供しか登場させられないということになってしまう。これでは表現の自由を損なう。
 ヒロインはやはりバストとヒップは大きくウエストは細く描くべきだろう。これは女性読者を主な対象とする少女漫画でも同じことだ。魅力的な女性を描こうとすれば性的魅力を持たせねばならない。これは当然、性を強調した絵になる。
 「ゆるきゃら」と呼ばれるキャラクターが氾濫しているのはこんな事情の裏返しだ。まともな人間をキャラクターにしようとすれば性的魅力を伴わねばならないから、人間離れしたキャラクターに頼らざるを得ない。「くまもん」や「ふなっしー」などのように動物や妖怪しかキャラクターにできない。せっかく世界に誇れる漫画やアニメといったサブカルチャーがありながらこれらを有効に活用できないとは困ったことだ。キャラクターを、性的かどうかでしか評価できない人こそ性意識過剰なのではないだろうか。
 「性の商品化許すまじ」と主張する人々がいずれは美術まで否定するようになるのではないだろうか。女性を描く美術は必ず女性の性的魅力を強調している。彼らの価値観に従うならルノアールもゴヤもダリもあるいは竹久夢二の美人画でさえ総て猥褻物にされてしまう。性的魅力の描写を禁じようとする人々が文化を破壊する。

例外

2015-12-17 09:41:35 | Weblog
 需要と供給のバランスによって価格が決まると多くの人が信じているが理論を過信すべきではない。理論はあくまで仮説に過ぎず現実に基づいて見直す必要がある。このフレームに固執するから、原油価格の下落を原油需要の減少が原因などと間違った分析をする。データで見る限りでは原油需要は決して減少していない。だから需要が減らないのになぜ値崩れが起こっているのかが問われねばならない。
 もし国家財政の9割を原油の輸出に依存している国があれば原油価格が低迷した時にどう対応するだろうか。価格が3割下がれば収入は27%減る。ここで入るを量りて出ずるを制す、の原則に従って財政規模を27%縮小するだろうか。むしろ逆に輸出量を3割増やすことによって財政を維持しようとするのではないだろうか。それぞれの国に特殊事情があるから、価格が下がれば供給が減るという法則は必ずしも正しくない。価格が下がれば供給が増えるというデフレスパイラルの可能性もある。
 日本にも似た実例がある。低金利政策が始まった頃、金利が下がれば貯蓄が減って投資が増えると予想された。ところが実際には貯蓄が激増した。安全な資産運用を図りたい資産家が同等の利息を得ようとして貯蓄を増やしたからだ。
 衣料品業界にはこんな例がある。一部の店が冬物のバーゲンを12月に始めた。当然独り勝ちになった。翌年からは他社も12月からバーゲンを始めて対抗した。これがどんな結果を招いたか?実需期である1・2月にはどの店も欠品だらけになってしまった。需要と供給ではなく過当競争が招いた値崩れだ。
 開かれた社会であれば、価格は需要と供給のバランスによって決まる。しかし個々の社会はかなり閉ざされた社会でありそれぞれが異なった事情を抱えている。マクロばかりを見てミクロを見なければ「森を見て木を見ず」になってしまう。
 私は医学と経済学の学問性をかなり疑っている。仮説が仮説のまま独り歩きをしているからだ。科学であれば例外は徹底的に研究される。もしリンゴが木から落ちなければ大騒動になる。科学には例外を許さないという厳しい学術性がある。ところが医学と経済学は疑似科学だから例外が許容されている。幾ら例外が頻出しても古い理論が見直されずに温存される。偽りの科学を科学と信じることは危険だ。科学を標榜するなら例外を許容すべきではない。例外を放置すれば似非科学やオカルトになる。

ダンス

2015-12-15 10:37:06 | Weblog
 子供の頃、私は踊りが大嫌いだった。私が知っていた踊りとは日本舞踊と盆踊りとフォークダンスだったからだ。準備運動は自分が傷め易い場所を重点的にべきと考えるからラジオ体操も嫌いであり、音楽に合わせて全員が同じ動作をする踊りにも不快感を持っていた。当時は踊る歌手は洋楽系の女性だけであり、男性歌手は直立不動で歌っていたこともこの偏見を助長した。
 この認識を改めさせたのが映画の「ウエストサイド物語(1961)」だった。その驚きは強烈だった。「踊りとはこんなに格好良いのか!」と仰天した。しかし時既に遅し。音楽に合わせて踊ることが全く身に付いていなかったから、踊ろうとしてもまるでタコ踊りのような不細工な動作になってしまう。私は各種楽器やスポーツを割と器用にこなせるほうなのだが踊ることだけは諦めざるを得なかった。
 「ウエストサイド物語」の大ヒットによって、ブロードウェーで公開されていたミュージカルが続々映画化された。「マイ・フェア・レディ(64)」や「サウンド・オブ・ミュージュック(65)」などはアカデミー作品賞を受賞し今も古典的名作として高く評価されている。
 今年の体力調査で女子の体力が2008年の調査開始以来最高になったと11日に発表された。以前から体力低下が問題にされていただけにこれは画期的な出来事だ。ダンスを体育に採り入れている学校での伸びが著しいそうだ。
 ダンスに偏見を持ったばかりに踊れない男になってしまった私からすれば羨ましい限りだ。女子だけではなく、相変わらず体力低下が続く男子も積極的に取り組むべきだろう。ダンスは全身スポーツだ。50m走や投擲などより遥かに有効だろう。競争が中心になり勝ちなスポーツとは違ってダンスの基本は協調だ。スポーツ嫌いな人でもダンスなら楽しく体を動かせる。
 私のような古い世代とは違って現代の男子は踊りに偏見を持っていない。歌手は男性であれ女性であれ、踊れて当たり前だ。踊れない歌手など化石かシーラカンスのようなものだ。女子だけではなく男子も格好良く踊ることに憧れを持っている。
 脳も筋肉も使うことによって発達する。子供の内に基礎体力を育まなければその弊害は一生付き纏う。幼い時の放射線や薬物などの有害物の受容ばかりを騒ぐのではなく、基礎体力や基礎知力の育成にもっと神経質であるべきだろう。
 ダンス教育には問題点もある。それは優劣の差が如実に現れることだ。スピードやキレを練習によって克服することはかなり難しい。しかしこのことは複数のコースを設けることによって解決できるだろう。最低限、激しいダンスと優雅なダンスの2つのコースから選べるようにすれば問題はかなり軽減されるだろう。

寛容

2015-12-15 09:50:26 | Weblog
 フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」だが、この博愛という言葉がよく分からない。広辞苑に拠れば「ひろく平等に愛する」とのことだがピンと来ない。多分アガペーに近い概念だろう。
 歴史的事実は変えられないがフランス革命のスローガンは誤っていたのではないだろうか。むしろ現代フランスの理念が「自由と寛容」と言われているように、「自由・平等・寛容」のほうが良かったのではないだろうか。
 自由と平等は整合しない。自由になれば不平等になるし、平等を強いれば不自由になる。この2つは対立する概念だ。この2つを両立させるためには第三の概念が必要であり、それは「博愛」ではなく「寛容」だろう。必然的に対立する自由と平等を調和させるのが、お互いの違いと多様性を認め合う寛容だ。フランス人は賢明であり、歴史に残る「自由・平等・博愛」よりも「寛容」のほうが重要であることに気付いたからこそ「寛容」が国是とされているのではないだろうか。
 翻って日本を見れば「不寛容」こそ現代のキーワードだろう。日本ほど「させない権利」が横行している国などあるまい。マスコミの放送禁止用語、公園での禁止条項、公認キャラクターの否定、これらは一部の人が文句を言うことによって禁じられている。多数決の手続きさえ踏まえず言った者勝ちだ。新聞が軽減税率の対象にされたのはそうしないと文句を言うからだろう。こんなことになるのは寛容な人々が不寛容な人を許容するからであって、言わば悪貨が良貨を駆逐している状態だ。
 言うまでもないことだが「権利」は明治時代に作られた翻訳語だ。これが同時代に作られた「自由」と混同されて世界でも類を見ない奇妙な術語になっているように思える。権利の語源はrightであり、rightには「正義」という意味がある。しかし日本語の「権利」には「正義」というニュアンスが全く無い。小学生の時、私は「(掃除を)サボる権利がある筈だ」という屁理屈を使って担任の教師を困らせたことがあるが、同様に「犯す権利」や「殺す権利」も一理ありそうにも思える。しかし欧米人にこんなことを言えば忽ち一蹴される。「それはraight(正義)ではない」と。権利を歴史的に考えれば、権力者が「正義」と認めざるを得ないほど正当な要求を意味し、正義を欠いた権利などあり得ない。権利と自由が混同されている。
 権利意識の暴走を招いたのは決して権利偏重の日本国憲法だけが悪い訳ではなく、「権利」という言葉から「正義」という意味を取り除いて誤用し続けていることに根本的な原因があるのではないだろうか。寛容と正義こそ現代日本人が忘れている重要な理念だろう。

2015-12-13 10:33:08 | Weblog
 「最後通牒ゲーム」という心理実験がある。被験者Aが金銭の分配を提案して被験者Bがその提案の諾否を決める。例えば1,000円を二人で分配する場合、Aが500円ずつの分配を提案すればBは承諾するから二人共500円を得る。ところがAが自分に900円、Bに100円と提案すればBは大抵拒絶するそうだ。
 これは不合理な選択だ。Bが100円の報酬を拒絶すれば共倒れになるからだ。損得だけを考えるならAが1,000円対0という提案をしない限り受諾したほうが得だ。たとえ999円対1円であっても、共倒れで0になるよりは1円のほうが得だ。人がこんな反応をするのは「正義」や「公平」を求める意識が働くからだと言われている。
 こんな実験は未だ行われていないが、Aがサイコロを振って決めたらどんな結果になるだろうか。サイコロの目に応じて決めるならたとえ6対1になっても黙って受け入れるのではないだろうか。人は人為に対しては不合理な判断をしても運に対してはそのまま受容するものだ。
 自然が原因であれば人はそれをそのまま受け入れる。ところが人為が加わっていれば合理性を逸脱しても「正義」や公平」に拘る。私は決して死刑制度に反対する訳ではないが、遺族側の「極刑を求める」という姿勢に不快感を覚えることがある。もし犯人を殺せば殺された人が蘇るのであれば是非ともそうすべきだが、そんなことは起こらない。これは金銭の損失を取り返そうとする裁判とは根本的に異なる。憎悪に基づく判断はしばしば誤る。
 あるいは相対的貧困率の話にも疑問を感じる。私は最貧国の中流であるよりも日本の貧乏人でありたい。間違い無くそのほうが健康で文化的な生活ができる。「平等」を優先しようとするから相対的貧困率などといった訳の分からない理屈を振り回す。
 宝くじのような世界一配当率の低いギャンブルが許容されているのは当り外れが運によって決まるからだろう。もし金正恩のような独裁者が当選番号を決めるなら関係者以外は誰も買わないだろう。たとえ不合理であっても運が決めるものであれば許される。もしかしたら卜占で決めたほうが多数決で決めるよりも遺恨を残さないのではないだろうか。小学生の頃はじゃんけんや阿弥陀くじで物事を決めることが多かった。説得力も理解力も乏しかったからこそ運任せを公平と考えたのだろう。下駄を預けて判断を任せることが広く行われているのもこのほうが「怨みっこなし」にできるからではないだろうか。
 アラブ人は「インシャラー」という言葉をよく使う。これはインシュ・アラーであり「アラーの神の意のまま」という意味だが、日常語としては「なんとかなるさ」に近い意味を持つ。人は運に対しては従順だ。

競争

2015-12-13 09:48:31 | Weblog
 動物界には種族外競争(生存競争)と種族内競争(異性による選別)がある。たとえ優れた個体であっても生殖する相手に恵まれなければ子孫を残せず淘汰されてしまう。
 種族外競争と種族内競争は車の両輪のようなものでありバランスが必要だ。歪んだ進化の典型例はクジャクの尾羽であり、種族内競争での最適者が種族外競争での最不適者になっている。種族内競争の鍵を握るのはメスだ。授精だけが役割のオスは選り好みをせず下手な鉄砲を数打ち続けるが、メスは受精だけではなく出産もせねばならないから、受精の時点で上手く選別をしなければ次世代以降の繁殖において不利になる。クジャクのメスはオスの大きな尾羽に性的魅力を感じて受け入れるが、肥大化した尾羽は飛ぶためにも走るためにも邪魔になり、敵から逃げる力を失わせる。オスの巨大な尾羽は繁殖を有利にするだけで生存のためには著しく不利になる。
 群居動物である人類の祖先は多分、木の実を食べ傷を舐め合って暮らしていただろう。そういう環境において他者を思いやる心や慈しむ心が進化した。つまり「優しい心」が種族内競争において有利に働いたと思われる。
 しかし動物は種族内だけでは生きられない。恐ろしい敵もいるし、肉食のためには他の動物を殺すことも必要になる。種族外競争において重要なのは身体能力だ。敵から逃げるのであれ獲物を捕らえるのであれ高い身体能力が欠かせない。しかし身体能力だけでは不十分だ。逃げるためには臆病さが、戦うためには勇敢さが必要だ。臆病さと勇敢さは矛盾する。これを調整するのが見極めだ。強い者に対しては臆病であり、弱い者に対しては勇敢であって初めて生存競争に役立つ。誰にでも勇敢であることは蛮勇に過ぎずこんな性質は真っ先に淘汰される。
 種族内競争によって協調性が高まり、種族外競争によって臆病さと勇敢さが高められた。しかし人類全体が同質化する必要などあるまい。国民皆兵が必要でないように、種族外競争のスペシャリストがいて然るべきだろう。
 これが性別進化を促したと思われる。協調的なメスと競争的なオスへの分化だ。人類のオスとは競争社会対応に特化したサイボーグのようなものではないだろうか。高い身体能力と競争心を植え込まれた戦闘マシーンだ。戦闘マシーンとして作られたからこそ男性の犯罪率は高い。
 人類のオスも本来は協調的な動物だ。仲間内で傷を舐め合っているほうが居心地が良い。しかし戦闘マシーンとしての役割がそれを許容しない。オスは否応なく競争社会放り込まれる。寿命が短く自殺率も高いのは、男役割が苛酷でありかつ矛盾に満ちていることの現れではないだろうか。