俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

役割

2015-12-11 10:29:16 | Weblog
 役割は相対的なものであり絶対的ではない。最も極端な例は魚の性転換だ。魚の種類によってかなり異なるが、一般にメスばかりを水槽に入れれば1匹がオスに、オスばかりであれば複数がメスに性転換する。これらの魚においては性でさえ相対的に決められる。
 人類の性は遺伝子によって決まるから魚のように性転換することは無いが、環境によって役割が変わる。男役割が重視される社会では女性が男性化し、女役割が重視されれば男性が女性化する。軍人に同性愛者が多いのは女性が少ない社会だからだろう。
 男役割と女役割があることは必ずしも不合理ではない。力が強いほうが重い荷物を持つべきだろうし、平等に働くよりも多く稼げるほうに依存したほうが得だ。たまたま夫婦の特性が通常と逆であれば役割を逆にすれば良い。但し肉体的にはともかく精神的には男のほうが弱いと思う。か弱き男を保護する必要がある。また肉体的にも、動物的能力はともかく寿命や耐性などの植物的能力においては女性のほうが優っていることも認められるべきだろう。強者は強そうに見せる必要は無いが弱者は強そうに見せないと舐められる。このことは動物一般だけではなく人間についても当て嵌まる。
 老々介護において、年齢や性別ではなく、少しでも元気なほうが相手を介護する。弱いという概念も相対的だ。
 特に哺乳類において顕著なことだが、オスは競争的、メスは協調的な性質を持つ。群居動物である人類は元々協調的な動物だ。協調的であることこそ本来の姿なのだが、生存競争を生き抜くためには競争的であることが必要になる。オスとは競争のために作られたサイボーグ戦士なのではないだろうか。
 哺乳類の原型はメスだ。たとえY遺伝子を持っていても胎児の時点で男性ホルモンを大量に吸収しなければ男性の体に変態することはできない。男性ホルモンを受容できないアンドロゲン不応症の人はたとえY遺伝子を持っていても女性の体のままで生まれ成長する。オスとは不自然な動物だ。滑らかにに作られている人体で継ぎ目があるのは頭蓋骨と男性性器だけらしい。
 「夫とは鵜飼の鵜のようなものだ」という意見がある。鵜匠である妻の家畜だ。余り良い役割とは思えない。無理やりオスにされたせいか、男役割が苛酷なせいかは分からないが男の自殺率は女より遥かに高い。日本は「男はつらつ」の社会ではなく「男はつらい」社会だろう。
 専業主婦という立場は夫に依存しているようでありながら、実は金も家庭も支配し、子供まで独占できる優越的な地位なのではないだろうか。妻にとって家庭の外は元々どうでも良い世界であり、夫が外で何をしようと充分な獲物(金)さえ貢がせれば充分だ。多くの女性が専業主婦を志すのは、鵜ではなく鵜匠になりたいからではないだろうか。

潜在能力

2015-12-11 09:44:51 | Weblog
 先日、危うく死を免れた。やはりと言うか案の定と言うべきか、自転車運転中での事故だ。私の自転車の後輪に横から来た自転車がぶつかった。これが前輪であれば私にも責任があるが、後輪にぶつけられては防ぎようが無い。先方の前方不注意か運転ミスだろう。
 自転車が横からの力に弱いということを改めて思い知らされた。思わぬアクシデントのためにハンドル操作ができなくなり歩道から車道に放り出された。私はいつも歩道の車道側を通っており、これが安全性の向上に繋がっていると考えていたが思わぬ弱点があった。しかしこんな話よりも興味深いのはその時の私に起こった心理現象だ。
 車道に飛び出した私に右から自動車が迫って来た。ここまでは主観的時間が早く動き周囲の動きがゆっくりと見えた。しかし困ったことに運動能力は通常のままだから危機が迫っても早く動ける訳ではない。諦めかけたところから記憶が欠落している。跳ねられそうになっていた筈の車の脇にもたれ掛かっているところからしか記憶がない。これは一体どういうことだろうか。
 死を覚悟した瞬間から意識が抑えられたのだろう。意識的な活動では間に合わない状況で無意識が稼動したと思える。つまり思考ではなく「反射」によって行動したということだ。多分、私は自転車を倒しかなり無理な動作をして歩道側へ逃げたのだろう。もしかしたら人間離れした動作をしたのかも知れない。両手や顔などぶつけた覚えの無い場所に多数の傷があり足首や手首も痛い。どう動いたのかさっぱり分からないがとにかく助かった。
 かなり派手に倒れたらしく「救急車だ」とか「警察を呼べ」という声が聞こえ野次馬も集まったので、私は「大丈夫です」と叫んで大慌てで逃げ去った。
 思い掛けないことによって、意識が飛ぶということを実体験することになった。主観的時間を早めても対処できないほどの緊急事態になれば潜在意識が働いて適切な行動を取らせるのだろう。事故で助かった人は無我夢中という言葉をよく使うがこれと同じものだろうし、火事場の馬鹿力が現れるのもこんな状況においてだろう。
 多分、清原和弘氏だったと思うが「頭部にデッドボールを受けた前後の記憶が無い」と語るプロ野球選手がいた。これは恐怖の記憶が抑圧されたのではなく、危険に際して意識モードから無意識モードに切り替わったから記憶に残っていないのではないだろうか。
 これらの潜在能力は科学的には実証されていない。しかし科学が証明していなくても無視しようとは思わない。科学が解明すべきことはまだまだ沢山ある。私はオカルトを毛嫌いするが、人間の潜在能力の研究が充分に尽くされているとは思えない。大体、キャッチボールで上手く投げる方法でさえ科学的に解明できない。フォームを意識すればするほどギクシャクしたフォームになってしまう。

中立

2015-12-10 10:30:47 | Weblog
 意見において中立などあり得るだろうか。偏向はあり得るが中立などあり得ない。強いて言えば、偏向度が低いということが最も中立に近い。しかしこれは中立ではなく「無立」だろう。
 私自身、中立の記事など書いた覚えが無い。何らかの立場に立脚している。個人の意見が偏っているのは当然だ。偏りの無い意見は内容も無い。
 マスコミの立場は違う。事実を伝える義務がある。もし左右両派がデモをすれば両方を報じるべきであり、片方だけを報じることは情報操作だ。
 政党の代表による政治討論会は無理に中立であろうとして却って不公平になっている。与党2党に対して野党は10党ぐらいあるから対等に発言すれば野党の発言時間が大半を占めることになる。議席数に応じるなどの配慮があるべきだろう。
 新聞各紙が中立を装う必要などあるまい。朝日と毎日が左寄りで読売と産経が右寄りであることなど予め分かっている。読者が自分で補正して読めば済むことだ。
 私はマスコミに中立を求めない。公正さのみを求める。不都合な事実を隠蔽しないことを求める。都合の良い情報なら大きく、都合の悪い情報なら小さく扱っても構わない。隠蔽さえ避けていればそれで充分だ。最悪の偏向は何をどう報じたかではなく、何を報じなかったかだ。報じられなかったことについて庶民は知ることができない。
 中国共産党のやり方は徹底した隠蔽だ。中国国内では天安門事件について調べても何も見つからないそうだ。私は中国共産党に中立であることなど求めないが、事実を隠蔽して「由らしむべし知らしむべからず」とする姿勢には我慢ならない。あの歴史大国が歴史貧国に堕したことに怒りを覚える。
 このことは日本のマスコミについても言える。あれほど地球温暖化については騒いでいるのに「クライメートゲート事件」は無視されている。マスコミがこの事件について報じた例を殆んど知らない。朝日新聞はたった1段のベタ記事で掲載したが余りにも小さい記事だったために切り抜いた記事を紛失してしまった。クライメートゲート事件をグーグルで検索しても「ニュース」のカテゴリーではたった18件しかヒットしない。しかも新聞・テレビは皆無だ。情報操作ではないだろうか。
 あるいは安倍首相を訴えた菅元首相が3日に敗訴したことも殆んど報じられなかった。首相と元首相による原発事故を巡る名誉毀損の裁判なのだから充分に注目に値すると思うのだが、名古屋本社版の朝日新聞では第二社会面のベタ記事扱いだった。

 

禁止

2015-12-10 09:53:10 | Weblog
 マスコミは「これは差別語、あれも差別語」とばかりに放送禁止用語を粗製濫造しているが全く片手落ち(放送禁止用語)としか思えない。民放は今尚平気で「イスラム国」と呼んでいる。エジプト政府が世界中のマスコミに「イスラム国」という呼称を使わないように訴えているが無視されている。
 「イスラム国」ほど偏見を助長する名称は無い。まるでイスラム教が邪教であるかのように思わせる。勿論、国でもない。勝手に詐称しているテロリスト集団を国と呼ぶべきではない。NHKのようにISと呼ぶべきだ。もし国内のテロリスト集団が「正しい仏教」と名乗ったらそのとおりに呼ぶだろうか。アルカイダは「拠点」という意味でタリバンは「学生」という意味らしい。これらは翻訳しないのにIslamic Stateだけを和訳することには悪意さえ感じる。
 障害者に対する過剰な配慮と国内では少数者であるムスリム(イスラム教徒)に対する人権無視は余りにもアンバランスだ。
 「将棋倒し」は放送禁止用語で「玉突き事故」は許容されている。このアンバランスの原因は、将棋連盟は文句を言いビリヤード協会は黙認しているかららしい。要するに文句を言うグループにだけ配慮するということだ。
 これは公園の禁止事項と似ている。住民からのクレームがある度に禁止が増える。「漫才の練習禁止」と表示している呆れた公園もあるそうだ。お役所の事勿れ主義が禁止条項を増加させる。
 ドラマで喫煙するシーンを殆んど見掛けない。そんなシーンを使うと禁煙団体から抗議されるかららしい。
 マスコミが自粛するのは勝手だがこれが困ったことを招く。放送倫理においてお墨付きを得たグループはその基準を普遍倫理として社会に押し付けようとする。同性愛者はネガティブな発言者を吊し上げるし、一部の妊婦が何でもマタハラと因縁を付けるから彼女らと同一視されたくない妊婦がマタニティマークを付けたがらないという奇妙なことまで起こっている。被害者に対する過剰な配慮のために痴漢だけが「推定有罪」という異常なルールになって冤罪の温床になっている。声の大きい人の権利ばかりが拡大する。
 自らを正しいと信じる人は不寛容だ。他人を自分の信条に従わせようとする。こんな連中は気に入らないことを禁止させることに喜びを感じる。させない権利がこんなに拡張したのは、ファッショ的とさえ思える煙草狩りが成功してからではないだろうか。
 志摩市の萌えキャラクターの碧志摩メグが非公認になったことに続いて美濃加茂市では地元の高校を舞台にしたアニメ「のうりん」の良田胡蝶を使ったポスターが撤去された。少女漫画のような可愛い碧志摩メグとは違って美濃加茂市のキャラクターはエロ漫画系の絵でありこちらが否定されるのはある程度やむを得ないと思う。
 なお碧志摩メグの公認撤回について他県の人は知らないと思うので少しだけ書く。志摩市が海女を対象にしたアンケートでは7割が肯定的で反対は3割だったらしいから結果的には少数決だ。企画会社の側が辞退したから非公認になった。我儘な少数者が騒ぎを起こせば事勿れ主義のお役所側が折れるので理不尽な要求が通るという事例が頻発している。クレイマーやモンスターが市民権を得て跋扈する変な社会だ。

同性愛者

2015-12-08 10:37:00 | Weblog
 フロイトは「生殖に結び付かない性」を倒錯と定義したが、私は性欲は目的論から解放されるべきだと考える。食欲は必ずしも栄養補給を目的としない。カロリーゼロのコンニャクを食べても構わないように、本能が壊れた動物である人類の性欲は自由だ。従って性的マイノリティの権利は守られるべきだ。
 しばしば誤解されるが少数者は必ずしも異常者ではない。正常な少数者もいれば、それどころか中世の西洋の魔女狩りのように少数者のみが正常者であり多数者こそ異常であるということもあり得る。
 性対象の異常として同性愛とロリコンが圧倒的に多い。数の多さだけを見ればロリコンは全体でも多数者であるかも知れない。私のような老人にとって15歳の少女は「ションベン臭いガキ(放送禁止用語)」に過ぎないが、20歳前後の男性であれば性的魅力を感じる人も少なくなかろう。しかしロリコンは市民権を得ていない。それどころか犯罪的とさえ見られている。
 かつてロリコンは市民権を得ていた。1990年頃まで「プチトマト」などの少女ヌード写真集が普通の書店で堂々と売られていた。当時は猥褻とは大人の性器のことであり、陰毛も生え揃っていない少女の性器は猥褻とはされていなかった。だから殆んどの写真で「ワレメ」までしっかりと写っていた。平成11年(1999年)に「児童ポルノ禁止法」が施行されるまでは少女の全裸写真集が流通していた。
 少女の全裸写真が禁じられたのは欧米の圧力に負うところが大きい。成人のポルノが許されているアメリカでも児童ポルノは児童虐待と考えられていた。国内では少女に対する凌辱事件が問題にされた。
 少女との性交はたとえ合意に基づいていても強姦罪が成立する。性意識が未熟なために、お菓子やアニメに釣られるということもあり得るからだ。従来から禁じられていた少女との性交に加えて児童ポルノが禁じられることによって、ロリコンは完全に市民権を失った。
 現在、同性愛は市民権を拡張しつつある。それどころか「同性愛は異常」という発言を吊し上げるまでに増長している。ホモによる痴漢被害の経験のある(「異常者(2)」参照)一市民として、私は「驕る勿れ」と警告する。市民権を剥奪されたロリコンの例もある。毛虫や蛆虫を食べることは個人の自由だが、それを他人に強制する権利など無い。図に乗って権利ばかりを主張していれば思わぬシッペ返しを食らって、ロリコンと同様に異常者に位置付けられる恐れさえある。人がいつまでも寛大であるとは限らない。

言葉狩り

2015-12-08 09:52:18 | Weblog
 来年の干支は猿だ。申年(さるどし)の年賀状は毎回「見ザル、聞カザル、言ワザル」の図柄を使っている。勿論これは逆説であって「見聞を広め、勇気を持って発言したい」という意思表示だ。48年間(5回)変わらずこの新年の挨拶を続けているが、昨今の風潮ではこれは差別的表現に該当しそうだ。「メクラ、ツンボ、オシ(いずれも放送禁止用語)」を愚弄していると解釈できるからだ。
 世知辛い世になったとつくづく思う。子供の頃、私はこう教えられた。「戦前は軍隊が自由な言論を封じていたが、戦後は民主主義の時代だから皆が勇気を持って発言せねばならない。」GHQによる占領政策に感化された教師は言論の自由を熱く語ったものだ。
 しかしアメリカ流の言論の自由は実は二枚舌(多分これも放送禁止用語)だった。人種や宗教についての発言は厳しく規制されており、軽率な発言をすれば社会的地位を失いかねない。
 アメリカは移民の国だ。インディアン(これはアメリカでは差別語に当り「ネイティブアメリカン」と呼ぶことが正しい)以外は総て移民だ。メイフラワー号に乗ってピルグリム・ファザーズが移民したのは1620年だ。何と日本の江戸時代のことだ。そんな新参者がヒスパニック系住民の増加を忌々しく思っているし、中東からの難民の受け入れにも難色を示している。まるで「目糞・耳糞が鼻糞を笑う(放送禁止用語)」を地で行くような話だがWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の本音はガチガチの白人至上主義だ。共和党の大統領候補のトランプ氏の人気が妙に高いのはあの暴言・放言こそWASPの本音でありそれをトランプ氏が代弁しているからだ。
 偽善の民主主義を植え付けられた日本においても本音と建前が乖離する。自由な発言を許さない「道徳的な」人々が言葉狩りを始める。人種や宗教の問題が比較的少ない日本においては些細な差別的表現まで過剰に騒がれる。「ブラインドタッチ」や「片手落ち」や「狂気」などの言葉まで放送禁止用語に指定されている。マスコミが勝手に自粛するだけなら構わないが、放送禁止用語がまるで普遍的基準であるかのように扱われて一般市民の発言まで統制されつつある。
 言論の自由は最早葬られて言葉狩り横行する「物言えば唇寒し秋の空(芭蕉)」の時代へと逆戻りしてしまったように思える。私は民主主義の本質とは異なった意見の共存であり、多数決の乱発や正義の押し付けは最も民主主義に背くことだと考える。日本全体としては寛容な人が増えている中、こんな人々の善意に付け込む不寛容な人々が自分達の偏見を敷衍しようとして吠え続けている。差別反対を隠れ蓑に使った彼らのファッショ的体質を見逃すべきではない。

脂質

2015-12-06 10:38:15 | Weblog
 兼業として米作りをする給与所得者であれば米を買う必要は無いが、米以外の商品を買わねばならない。人は米のみでは生きられない。
 脂質や蛋白質は現金と同じように汎用性がある。必須脂肪酸や必須アミノ酸という言葉があるように、体を正常な状態に維持するために欠かせない栄養素だ。ところが必須炭水化物という言葉は無い。炭水化物はエネルギー源としてしか使われない。三大栄養素と呼ばれながら炭水化物だけが異色であり全く摂取しなくても栄養障害は起こらない。炭水化物の長所は即効性だ。炭水化物を食べれば速やかにエネルギー源になる。すぐに血糖値を高めることは欠点と考えられ勝ちだが、飢餓状態においては大きな長所だ。
 脂質は1g当り9㎉で蛋白質や炭水化物は4㎉だ。このことから脂質が肥満の原因になると長い間信じられていた。この考え方の根本的な間違いは、カロリーという一元論で捕えていることだ。炭水化物はエネルギー源にしかならないが脂質や蛋白質は他の用途にも使われている。
 仮に脂質と蛋白質の9割が体の維持・向上のために使われているなら熱量に回る脂質は1ℊ当り0.9㎉、蛋白質は0.4㎉となり炭水化物よりも圧倒的に低カロリーの食品になる。アメリカでは低所得者のほうが肥満率が高いと言われている。ロイター通信社の2010年の調査によると、5万$以上の所得者の肥満率は24%で、1.5万$以下の肥満率は35%とのことだ。日本ではこの原因はジャンクフードと伝えられていた。しかし真犯人はジャンクフードではあるまい。ジャンクフードよりも安い食品、つまり麦や米やトウモロコシなどの穀類つまり炭水化物こそ犯人だろう。安い炭水化物を大量に食べればエネルギーとして使い切れないから体脂肪として蓄えられて肥満する。
 最初の寓話に戻るなら、現金は汎用性があるからすぐに使い切るし残っても嵩張らない。しかし米は米としてしか使えず保管のためには広い場所が必要になる。汎用性の高い脂質や蛋白質は現金のようなものであり、炭水化物は米に該当する。つまり脂質や蛋白質は大半が体作りのために使われて、汎用性の無い炭水化物が皮下脂肪として蓄えられるのではないだろうか。
 カロリーという一元論が根本的に間違っている。カロリーという尺度で見れば脂質は高カロリーだが、カロリーとして使われるのが一部に過ぎず大半が身体機能の維持・向上のために使われるのであれば、実質的には低カロリー食になる。
 

2015-12-06 09:52:30 | Weblog
 3日のクローズアップ現代で立花隆氏が「世界中の学者がメクラ同然の状態」と発言して、国谷キャスターが「不適切な表現があった」と謝罪する一幕があった。
 盲は放送禁止用語に指定されている。だから盲判や盲滅法は勿論、「盲蛇に怖じず」も使えない。これらの言葉は盲人(これも放送禁止用語で「視力障害者」と言い換えねばならない)に対する差別語とされている。
 汚い言葉、下品な言葉、差別あるいは誹謗中傷する言葉をテレビから排除することは必要だ。しかし行き過ぎではないだろうか。これではシェークスピアの「ベニスの商人」も放送できない。「恋は盲目(Love is blind)」という名言があるからだ。それとも「恋をすれば視力障害を招く」とでも言い換えるのだろうか。こんなくだらない規制をするより「イスラム国」という善良なムスリム(イスラム教徒)にとって許し難い呼称こそ一刻も早く規制すべきだろう。
 私は「群盲 象をなでる」という言葉が好きなのだが、これも放送禁止用語だ。これを「大勢の視力障害者が象をなでる」と言い換えても駄目だ。この言葉は視覚の重要性を強調するために盲人を引き立て役に使っており、差別という批判を免れ得ない。
 大勢の盲人が象をなでても象の実像は分からない。それぞれが一部に触って「象とは柱だ」「ホースだ」「紐だ」と発言しても全体像は把握できない。距離を取って把握することの必要性を見事に表現している。
 この比喩は現代医学の問題点でもある。部分にばかり拘泥して全体が忘れられている。内科医は多少血圧が高い程度の人にまで降圧剤を処方する。血圧が下がると脳に充分な血液が回らなくなり痴呆症(これも放送禁止用語で正しくは「認知症」)のような症状が現れることがある。内科医は精神異常(これまた放送禁止用語で「精神障害」)だから心療内科へ行けと言う。心療内科医が治療をしようとしてもこれはアクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態だから治療は進まず両方の薬の副作用だけが現れるということになりかねない。こんな馬鹿なことにしないためには専門馬鹿(多分これも放送禁止用語)ではない全体を診る総合医療こそ必要だ。群盲にならないためには全体操を把握せねばならない。
 放送禁止用語のせいで表現が不自由になるだけではない。思考まで制約される。同性愛が異常かどうかは意見が分かれるところだが、放送禁止用語の存在がその是非まで決めてしまう。「同性愛は異常」とツィートしただけで差別主義者の烙印を押される現状こそ異常だ。「差別許すまじ」という信念が言論の自由の妨げになっている。テレビ局が自粛することは彼らの勝手だがその基準を普遍的基準と信じて異なる意見を封じ込めることは言論弾圧であり言葉狩りだ。差別は悪いことだがそれが拡大解釈され過ぎている。
 こんな言論の不自由などご免蒙りたい。今後私は敢えて放送禁止用語を多用したいとさえ考えている。

ストライク

2015-12-04 10:28:09 | Weblog
 かつての電話交換手のように、人間から機械へと移行され得る職業が49%もあるそうだ。店員や事務員や警備員などが挙げられている。しかしそんな仕事よりも是非とも移行して欲しい仕事がある。野球の球審(アンパイア)だ。これほど主観によって周囲を振り回す仕事は無い。是非とも機械化によって正確・公正を実現して欲しい。
 投手にとって最高の球はアウトロー(外角低目)のストライクゾーンを掠める球だ。最も打ちにくく打ってもヒットになりにくいコースだからだ。投手はこのコースに投げるために猛練習を積み重ねる。ところが悪い球審に出会うととんでもない悲劇になってしまう。
 先日のプレミア12の準決勝の韓国戦、則本投手も松井投手も制球に苦しみ逆転負けを喫した。私はテレビを見ていて大いに不満だった。アメリカ人の球審に憎悪に近い感情を覚えた。絶妙なアウトローの球を悉くボールと判定していたからだ。決め球をボールと判定されたら甘い球を投げざるを得なくなる。
 これが野球という競技の最大の欠点だ。投手にとって最高の球が審判の主観によって無価値あるいはマイナス価値にされてしまう。他の種目であれば「チャレンジ」という仕組みがあって映像によって確認できる。多分この仕組みを世界で最初に採り入れたのは日本の大相撲のビデオ判定だろう。野球でもフェアかファールかなら画像で確認できる。しかし悲しいかな、アウトローの絶妙な球がストライクだったかどうかは画像で再確認しても分からない。
 審判の質的向上に期待するしか無いと諦めていたら、やはり同じことを考える人はいるもので、アメリカの独立リーグでテクノロジーを使った判定が今年から実験的に導入されたそうだ。これは3台のカメラを使って軌道を推定するという仕組みであり必ずしも正確ではなかろうが、今後ホームベースから電磁波などを発信して測定すれば正確な判定が可能になる。
 プロ野球の人気が低迷している。しかし今尚高校野球の人気は健在だ。日本人はやはり野球が好きだ。機械化によって判定が正確になれば1球ごとにストレスが溜まるということも無くなる。

異常者(2)

2015-12-04 09:51:36 | Weblog
 「犬は怒るとうなり、嬉しいと尻尾を振る。しかし僕(チェシャ猫)は嬉しいとうなり、怒ると尻尾を振る。だから僕は気違いだ。」(「不思議の国のアリス」より)
 もし犬が正常者であれば猫は異常者だ。勿論これはジョークに過ぎずどちらも正常者だ。むしろワンワンと鳴く猫こそ異常者だろう。
 自分と異なる者を異常者と決め付けるべきではない。異常者とは狂った者のことだ。少数者を異常者と考えることは誤りだ。しかし少数者を異常者と考えることが差別に該当するだろうか。誤りではあるが差別とは思えない。最近妙な言葉狩りが横行しているように思える。「同性愛は異常」とツイートしただけで袋叩きに会うようでは憲法21条が認める言論・表現の自由に背く。
 昔から芸能人は同性愛者が多かった。芸能人との縁が深いマスコミがその価値観を押し付けることこそファッショだろう。マスコミとその同調者による言論弾圧を黙認すべきではない。
 ヘイトスピーチは言論の自由から逸脱する。誹謗中傷をする権利など認められていない。しかし「同性愛は異常」という言葉が差別に当たるなら日本人は「同性愛は正常」としか言えないことになる。これは言論統制だろう。韓国の検察が「帝国の慰安婦」の著者の朴裕河教授を「元慰安婦に対する名誉棄損」で訴えたのと同様、世論に逆らう発言を禁じる言論弾圧だ。あるいはガリレオ・ガリレイの地動説に対する宗教裁判のようにも思える。
 「同性愛者を追放せよ」という発言であれば差別に該当すると思う。しかし「同性愛は異常」というツイートが「(岐阜)県の信用を失墜させて」処分に値するとは思えない。マスコミが勝手に定めた放送禁止用語がいつの間にか日本人全員に対する発言禁止用語に摩り替えられている。マスコミが独自に差別語を指定するのは勝手だが、それによって国民が自由な発言を禁じられるべきではない。
 私は同性愛を異常とは考えないが悪趣味と考える。それは学生時代に不愉快な経験をしたことも一因になっている。
 事情があって雑魚寝をしていた。明け方に誰かが私のパンツの中に手を入れた。驚いて跳び起きたら見知らぬ男が逃げて行った。私は「忌々しいホモ野郎め!」と憤った。私のホモ体験はこの1回だけだが、これ以来、好意を示す男に対して妙な警戒心を持つようになった。
 私は同性愛を否定しない。趣味の多様性を認める。しかしそれはあくまで趣味を共有する仲間内でのみ通用する。異なった趣味の人に強要することはできない。それはお気に入りのゲテ物料理を無理に食べさせようとするようなものだ。趣味の押し付けはできない。
 性対象の倒錯として同性愛と双璧をなすのはロリコンだろう。では「ロリコンは異常」という発言は差別とされるのだろうか。日本において多分ロリコン傾向の人はホモ傾向の人よりもずっと多い。小学生や中学生のアイドルがそれなりの地位を得ていることがその証拠だ。しかしロリコンは市民権を得ていないし与えるべきでもなかろう。ではロリコンは異常者で同性愛者は正常者と誰が決めたのだろうか。フロイトは「生殖に結び付かない性」を倒錯と定義した。これには必ずしも同意できないが一理あると思う。それなのにマスコミは勝手に同性愛を正常と決め付けてそれに背く発言を差別として糾弾する。言論の自由を許さないマスコミ関係者こそ逆差別者だと思う。