ノーベル賞候補作家の旅行記である
この中の“ノモンハンの鉄の墓場”の一節に思った。
村上春樹氏は僕とほぼ同世代、同級生であろう。
敗戦を迎えて約2年後に生まれた僕たち世代の教科書では、みじめな戦争の痛手と戦後民主主義の明るさとが色濃く反映されていたのであろう。
泥沼の戦争へ突き進んでいく大きな契機としての“ノモンハン事件”は、字数は少ないのだが、日本近代史の負の事績として記述されていたように思う。
満州事変などと同様に、正式な宣戦布告がない紛争であったため、事件としての記述が歴史教科書ではなされているのだが、モンゴル側ではハルハ河戦争と記され、1939年に勃発し日本人将兵約2万人が死亡したれっきとした戦争なのである。
村上は自らの小説にノモンハン戦争を登場させた経緯から、取材を通じて此処に旅したものだという。
(僕も村上が旅行した4~5年前の1991年にノモンハンにそう遠くない長春、吉林、大連を旅行したことがある。近いうちにこの旅行記も掲載しよう)
ノモンハンは中国北東部、所謂満州とモンゴルとロシアの境界線上に位置し、長春から北西の方角2000km位にある。村上はノモンハンの最寄りハイラルまで長春、ハルピンを経て列車で入り、ハイラルから250km位をランドクルーザでノモンハンへ行ったとある。
“ ノモンハン戦争で戦った日本軍の兵士の多くははるばるハイラルから完全軍装で、徒歩で国境地域まで約2百50キロ(だいたい東京から浜松までの距離だ)の荒野を行軍してきたとある “
そして季節は村上が旅した同時期で雨期である。風が無いとすさまじい数の蠅、虻、蚊の大群が体中に纏わりつき食いついてくる。雨期とは言え砂漠地域の慢性的な水不足に加えて、小銃、弾薬、食飲料、野営道具等その他を持って、道の無い荒野を東京から浜松までの距離を歩くのである。
ただ単に冒険の旅なのでは無い、戦闘に行くのである。戦場に着いた時には精も根も尽き果てていたのではなかっただろうか? 民間の車両を掻き集めてもとても兵士の輸送に供するだけの数が無いのである。
「**部隊はハイラルから国境地帯まで行軍した」と書かれた資料を読むと”そうなのか!”と、知識として認識するだけだが、実際に現場に来てみると、その行為が意味する現実的なすさまじさを前に唖然として言葉を失うと、村上は書く。
一方ソビエト軍は予め補給路を築き上げたうえで、改めて組織的攻勢に移ったとされ、明らかに双方の戦略眼の違いが戦闘の結果として現れてくるのである。
村上は言う、ノモンハン戦争は「あまりに日本的であり日本人的であった」戦争である。
日本人の非近代を引きずった世界観(戦争観)が、ソビエトという新しい組み換えを受けた世界観(戦争観)に完膚なきまでに撃破され蹂躙された最初の体験であった。そして何より注目すべきは軍指導者はそこから何一つとして教訓を得なかった。そのまま全く同じパターンで南方戦線を戦い、兵士たちの多くは殆ど意味のない死に方をし名も無き消耗品として極めて効率悪く殺されていったと。
そして、僕も思う
現場の兵士は東北の或いは九州や北海道のバスも一日一本しか走らないような片田舎の百姓次男坊や三男坊達で、意味も分からず日の丸旗で勝ってくるぞと送り出された人達なのであろう。
戦争指導者達が前近代的な戦略眼で企画した眼暗滅法な戦争だということも知らされずに、意味のない死に方だとも名もなき消耗品として扱われていたとも知らず、お国のためだと思って殺されて行ったのだと・・・。
そして、もう一つ
このノモンハンは、果てしない荒野に今もなお戦車や鉄兜の残骸が放置された何もないところなのであるそうだ。最重要戦略拠点であり、数万人の人間の生き血で染まった処なのに、多寡だか七八十年過ぎたら殆ど価値のない誰も振り向きも訪れもしない場所になっているのである。
戦争指導者のあられもない大東亜共栄圏や八紘一宇等という誇大妄想に踊らされた生命線だったのであろう。
現代の尖閣諸島や竹島は、これと違わないか???
貴方や私は、ノモンハンで名もなき消耗品として殺された田舎の次男坊や三男坊とどこか似てはいないだろうか??
尖閣や竹島を争うことが、この後100年どんな意味を持つことになるのかを考えてみたいものである。