キャンプの焚き火Ⅱ
下界は、まだ夏の暑さに喘いでいるのだが、此処は標高千メートルまではいかないが、それに近い高度のキャンプ場である。
木々の葉も少しずつ色付き始めている。
夏場と違って焚き火の色と煙が郷愁の香りを帯びている。
安ワインだが、リンゴジュースとシナモンの一片を加えて熾火で沸かすと甘味と芳香がその郷愁を更に深めるような心地がする。
若い頃からキャンプが好きで、子供が小さい頃はよく家族を連れてあちこち楽しんだものです。
あの頃はこんなに軽くてコンパクトなテントじゃなく、テント生地は帆布だし、ポールは文字通りポールで頑丈だが太くて重たかったですよね。
子供は小さいし、男手は私一人だし、妻も子供達も私の力と手際に頼り切っていましたよ。
キャンプに行くとそんな家族の期待を実感できて、それなりに嬉しかったものです。
初老に差し掛かろうか、少し伸びた無精ひげが焚き火で陰影を作っていた。
少し熱めのホットワインを薬缶から其々のマグカップに注ぎ分けて呉れながら、語り出した。
子供が小学高学年になる頃には、そんな家族キャンプに行く回数も減ってきましたよね・・・。
私もそれなりに仕事も忙しくなり、妻もパートから正規の社員に復帰したりしましたからね・・・
それが家族の成長だったのでしょうが・・・・
それでも、私はキャンプから渓流釣りや登山というよりは山歩きですが、変わらず続けていましたがね。
若い頃は殆ど単独行だったのですが、それなりに趣向のグループも出来て色んな人と出掛けるようになったものです。
定宿と云えるような馴染の所も出来たりして、結構面白可笑しく遊んだ時期だったですね・・・
そんな頃ですかね、仕事の繋がりや、旅での出会いなど幾人かの女性と懇ろになったりしたのも・・・・
お恥ずかしい話なんですが、一度は女房にバレましてね、ひどい目に遭いましたよ。
子供も、その頃はそれなりにそういう事が判る年頃になってましたし、女ですから父親のそんな振る舞いが許せない年頃だったのでしょう。
家族に総スカンですよ。
何しろ女三人ですよ、針の筵で家に居られたものじゃない。
週末や休暇は殆ど出掛けてましたね。
家に居るより山や定宿で過ごす方が良かったですからね。
まあ、そんな時期もありましたが、上の娘が片付き、下のも社会人になって独り暮らしを始める頃には、妻も車にキャンプ道具を積んで旅するのに数回ですが付き合うようになっていましたよ。
そんな矢先ですよ、妻が病んで二年足らずで亡くなってしまったのは・・・・
例のごとくに癌ですがね。
肝臓に出来た癌が見つかった時には、もうリンパに転移が有って、対症療法的に転移先の癌を放射線やら抗がん剤で抑えるしかないと言われました。
はっきりとは云われませんでしたが、数年の余命だと判りました。
不思議なものです。
彼女が生きてる頃は家に帰るのが億劫で、何かと理由をつけては帰宅を遅らせたり、独りでいることを楽しく思ったものです。
居なくなってから半年過ぎましたが、今になってしみじみ思うのです。
家に待ってる人がいないと思うと、これ程寂しいものかと・・・・
もう、帰らなくても良いんだ、帰っても誰も待ってないんだって、思うと・・・・・
これが、アイデンティティと云われるものだったのでしょうかね・・・・・
私は、空になった薬缶に残りのワインとリンゴジュースを注ぎ入れ、シナモンを一片入れて、熾きになった焚き火の上に置いた。
三人は其々の思いの中に沈み込んでいくようで、赤く燃えながら白く燃え尽きていく熾火の光の変化を見つめていた。