平佐皿山焼とは、江戸中期から明治にかけて隆盛を極めた鹿児島唯一の磁器焼物だ。 日本の磁器は有田に代表されるが、ここの製法から派生して瀬戸焼や平佐皿山焼を含めた磁器文化がある。 この磁器とは異なるが、鹿児島では有名な焼き物としては薩摩焼がある。 これは豊臣政権時代の朝鮮侵略出兵の際に、当時の朝鮮白磁に憧れた島津義弘が、かの地の陶工を捕虜として連れ帰って興した焼き物である。 これは陶器であり、これとは明らかに異なる磁器が今は途絶えてしまった平佐皿山焼なのである。 そしてこれに確かに私の近い祖が関わったらしいのである。 私のルーツに関わる歴史探訪の旅なのである。
高浜焼寿芳窯を訪ねた。 ここで私にとっての新しい発見が在った。ここの窯元の先祖は上田姓を名乗る名主の家柄であり、江戸時代から地域振興の一助として高浜焼窯業を経営していたそうだ。そして様々なエピソードを記録保存していた。これをその旧宅ともども上田資料館として公開している。 窯元訪問して私の訪問の意図を話したところ、閉館していたこの資料館を開いてくれ、説明と天草陶石の由来と題した当会社編纂の資料まで頂いた。
そして、この話の中に、瀬戸焼の祖 加藤民吉が出るのである。
民吉は瀬戸磁器の開祖であるが、一方隠密である。当時鍋島藩により保護奨励されて重要な輸出財源であった有田焼は秘匿技術として厳しく監視統制されていた。他国への技術流出による競争力低下を恐れたものである。 天草の乱後の荒んだ人心を徳を持って収めた代官の鈴木某の伝手など利用しながら、有田へ技術習得の為に潜入したのが加藤民吉なのである。 この秘話は後の時代に、小説や戯曲となり、広く紹介されている。 なんとこの民吉が瀬戸へ帰参する途上、この高浜窯場に立ち寄り、手に入れられなかった赤絵の技法を習っていった事実があったのだ。
斯く言う私も、最近この加藤民吉の秘話の存在を知ったのだが、この高浜にも関連する事までは知らなかったのである。大変興味深い発見なのである、私にとって・・・。
高浜焼の由来やエピソードに感激したことと、ここの白磁の清楚なことにこの焼き物を欲しくなり数枚の日用雑器を購入してこの窯場を辞去した。帰りに陶石掘り出しの現場を見学に立ち寄り選石所で陶石の一部を頂いて来た。 期待してきた高浜で最も興奮に値する資料や伝聞を得られたことに大満足であった。
この後、海と空と丘に見事に溶け込んだ白亜のロマネスク様式建築の大江天主堂を訪れた。 無神教ながらも大震災の被災に対し鎮魂と災害収束を祈った。人知の及ばぬ事態に対し、或いは圧倒的な自然に対する人類の矮小さを実感する今、困った時の神頼みとは言え僥倖を願ったものである。
この天草には他に、海辺に立つ碕津天主堂が在るが、こちらはゴシック様式の重厚な建築物であり、悲惨な禁教時代の物語を秘めた教会である。 観光案内によると祈りの祭壇の下は禁教時代踏み絵が行われた場所で庄屋の屋敷だったところだそうだ。 澄み渡る明るい光の風景と対比して、その秘められた歴史が厳しく悲しいものだけになお更に、その美しさが際立つように思える。 天草は何処を訪れても同じような感興を誘うのは、この歴史と決して無関係ではないからだろう。
天草に別れを告げて、牛深港から本日2回目のフェリー渡航である。行き先は鹿児島県の阿久根市長島の蔵の元港である。 茂木~富岡間のフェリーより大型船である。出港前の空時間で海産物の土産を期待したのだが、期待した程のものは無かった。これに関して言えば長崎茂木港の朝市場がより魅力的であった。 昼食を取っていなかったこともあり急いでチャンポンを食したが、これも恐らく長崎の方が旨かったであろう。 再来の時の楽しみの一つにしようと思う。
この後の旅程は、所用と家人のお供で費やされたもので、特段報告を要するものではないので割愛するが、帰路で立ち寄った朝一番風呂の道後温泉と名古屋の鰻の老舗あつた蓬莱軒の櫃まぶしについては、後日一筆報告したいものであった。請う後日談。