前回、時間がなくて言いたいことを端折ったので、補足
自己愛を満たすために幻想的世界をつくると言った。しかし、それが自分の頭の中で自己完結しているならば、単なる妄想にすぎない。恋愛は相手との関わりの中で生まれてくる。
そして、その感情は、私にとってこの人以外ありえないという形でやってくる。
私の幻想的世界と相手の幻想的世界が交わる時、奇跡的に「愛しあう」という現実の世界が創造される。
幻想と現実が一緒になるのである。激しい恋愛をしている最中は、客観的に第三者が眺めれば、頭がおかしくなっているように見えるだろう。しかし、本人達にとっては、まさしくリアルな現実であり、最も充実した生を味わっているといえる。
また、この時期は、エロティックな感情と精神的気高さが融合する奇跡的な時期でもある。純粋に愛からなされるセックス、ができる時期とでも言おうか。
ただ、その時期は短く移ろいやすい。無常である。
すこし、ややこしい話。
「私が机を使う」というとき、「私」があって、「机」があって、「使う」という行為があると思うのが普通だ。しかし、そのような分析は間違っている。
私が机として使うからこそ、机になるのだ。つまり、机があるのではなく、使うという行為によって机にさせられているのである。もし、私が薪として使えば、それはもう机ではなく薪である。
もっとわかりやすい例。
最初に親と子供がいるのではない。生まれるという行為があって、親になり子になるのである。
重要なのは、関係性である。「存在」に先立って「関係性」がある。
私とは何か。それは、あなたとの「関係性」で決められる。
「出会い」がある。そこで私とあなたが成り立つ。
「愛しあう」 そのような仕方で私とあなたが成り立つ。
「憎しみあう」 同じ。
私とは、あなたとの関係性である。それを仏教的に「空」といってもいいかもしれない。「関係性」は移ろい変わりゆくものであるから。
話を戻そう。
最上の時期のみを味わうために二人が付き合うなら、関係性は移ろいやすいが故、いつか別れざるを得ないだろう。
行為=関係性によって、私とあなたが成り立つのなら、私が、あなたに対して、どう振る舞うべきか、が問われなくてはならない。
私は、創造的かつ破壊的な激しい恋愛を肯定する。それと同時に、それとは違う人生を有意義にする「関係性」もあるのだと、信じている。科学的根拠はない。信じるのだから、ほとんど宗教である。
激しさが過ぎ去った後、私があなたにどのように振舞うかが、「愛」を創り上げていくのである。
歳を重ねると、だんだん恋愛感情がなくなってくると言っている人がいた。たしかにそうだなぁと感じる。
恋愛は、ある種の病的な状況である。その病的状況が覚めた時、クールで厳しい現実が待っている。歳をとると、先にその現実が見えるからだろうか。
恋愛相手に見出す特別な「美」は、自分自身が作り出す幻想的世界における対象である。
その幻想的世界は、現実がうまくいっている時ではなく、むしろ現実と自分が対立し、現実に敗れることによって作り出される。いろんなことができるようになる青年期は、自己中心的な部分がどんどん大きくなる。しかし、ほとんどの場合、現実的な力に敗れ去る。その敗れ去った自己中心性を生き延びさせるために、幻想的世界を作り出すのだ。
幻想的世界では、自分が世界の中心である。そのことによって、敗れ去った自己中心性を取り戻し、自分自身を愛する根拠を見出す。
究極的に自己愛を満たすためには、恋愛対象である相手から愛されることが一番である。その自分自身で作り上げた幻想的世界の中で、相手から愛されること。その承認的行為が現実によって傷つけられた自己愛を取り戻す最善の方法である。
だが、そのような承認を求める行為は、基本的に自己中心的なものである。それが、相手を支配したいという感情になったりするわけだ。
現実に対応しその世界に慣れてしまった大人は、幻想的世界を作り出さない。その幻想的世界が病的なものであることに、気づいているからである。
しかし、幻想的な世界の中での身を焦がすような激しい感情は、人間を最も創造的にする。