フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

奥秩父縦走 2011 12月30日

2012年01月06日 22時30分00秒 | 登山

 出発       7:00
 熊倉山      7:10
 前飛龍      9:35
 飛龍権現神社 10:40
 ハゲ岩      10:45
 将監小屋    13:20
 


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熊倉山山頂。

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 雲取方面がよく見える。

 

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   ミサカ尾根の急坂。この辺からかなりきつくなる。体力のない人は要注意。私は体力はあると思うが、荷物が重すぎてかなりバテた。

 

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 やっと前飛龍に着く。きつい。

 

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 前飛龍からの景観。

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 前飛龍を下ったところに、笹の平場がある。この辺ならテントが張れる。幾つかテントを張ったと思われる跡もある。

 

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 飛龍権現神社手前にテントを張る場所がある。ちょうど一人分くらい。

 

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 飛龍権現神社。

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 飛龍権現神社から将監峠方面へ5分くらい進むとハゲ岩がある。地図には詳しく書かれていないが、東京一の景観だということだ。飛龍は東京ではないかもしれないけれど。

 

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 ハゲ岩の景観。確かに素晴らしい。飛龍山山頂は時間をかけてまで行く必要はないが、ハゲ岩は行くべきである。

 

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 少しずつ雪が増えてくる。

 

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大ダル手前の水場。凍っている。

 

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 この辺は笹が多い。と同時に鹿も多い。

 

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 大ダワ。

 

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 将監小屋に着く。まだ一時回ったところだが、先に行く気力がない。今日は将監小屋にテント泊することに決めた。
 中に管理人のおじいさんがいた。受付をする。テン泊500円。

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 小屋の脇にある休憩所。

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 将監小屋の水場はジャブジャブ出ていた。頼もしい。結局、今回の縦走で出ていた水場はここだけであった。
 ここの水場は、小川の流れを利用しているのでなかなか枯れないのだろう。

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 今夜の我が家。水も組み放題だし、快適。
 しかし、この日、餅を食べ過ぎて(とはいっても5個だけど)凄まじい吐き気に襲われる。ただ、餅は1つの原因に過ぎないと思う。
 気持ちが悪くなった理由は幾つか考えられる。まず、荷物が重かったことと飛龍山付近の坂が急で、体力的に相当バテてしまったことが挙げられる。それが、軽い高山病を誘発したと思われる。
 荷物が重く、坂がきつい状態で、無酸素運動を繰り返した結果、体に疲労物質である乳酸が溜まってしまった。
 乳酸を分解するには、酸素が必要である。しかし、2000m位の高度だとけっこう酸素が少ない。だから、体がその高度に慣れていないと、乳酸を分解する速度が遅くなる。
 そのような状態で、沢山食べるのはよくない。なぜなら、それを消化するために血液が内蔵に集まるからである。乳酸を分解するために必要とされる血液(酸素)が、消化に使われるからである。
 こんな感じで、軽い高山病を誘発したのだと思う。
 それから、いつもは吐き気がするとすぐに吐くのだけど、今回はテント場ということもあり、汚してしまうので吐かずに我慢してしまった。それがよくなかったと思う。ちょっと離れたところまで行って吐けばかなり良くなったと思う。
 まぁ、良い教訓である。
 疲れたときは、たくさん食べないこと。深呼吸して酸素を多く取り、乳酸を早く分解すること。

 奥秩父縦走 2011 12月31日 へ続く

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上弦の月を喰べる獅子 夢枕獏

2012年01月06日 08時59分17秒 | 読書・書籍

 山に持っていった本、上弦の月を喰べる獅子を読み終わった。分厚い本で、上下巻ある。山に持って行くには重すぎたかもしれない。しかし、それでも良かったと思っている。ちょっと、今まで読んだことにない不思議な感じの内容だったからだ。

 夢枕獏の「神々の山嶺」が面白かったので、他に読んでみようと思い手にしたのが、この本である。
 岩手の詩人(宮沢賢治)と螺旋収集家がアシュヴィンという人間の中に融合し、天につながっている山に登っていくという話である。アシュヴィンは選ばれた人間であり、問いに答えるために天に登る。
 
 「汝は何者であるか」
 「存在とは何か」
 「野に咲く花は幸せか」
 「人は幸せになれるのか」
 
 これらはすべて同じ問いの違ったバージョンである。
 
 感想を書き始めてこういうことを言うのはおかしいが、それでも、感想を書くのは難しい。読んでもらうしか無い。
 仏教の存在に関する難しい主題を扱い、私の理解力では意味不明な部分が多いにも関わらず
、スラスラ読めてしまうという不思議な小説である。

樹 「野に咲く花は問うであろうか」

アシュヴィン 「分かりません」

樹 「答えなさい。アシュヴィンよ。野に咲く花は問うであろうか」

アシュヴィン 「問いません」

樹 「何故ですか、双人よ」

アシュヴィン 「野に咲く花は答えであるからです」アシュヴィンは叫んでいた。「野に咲く花は、問いであると同時に、答えであるからです。答えを得ている問いが、答えを問うでしょうか」

樹 「その通りである」「野に咲く花が問わないのは、野に咲く花はすでに答えであるからである。問と答えとが、まさにひとつの存在であるからである。問うたときには、その問いそのものが答えになっているのである。アシュヴィンよ、双人よ、これは比喩以上の意味を含んでいる。およそ、この宇宙に存在するあらゆるものは問いである。同時に答えである。アシュヴィンよ、お前もまた、この宇宙に存在するものである以上、問いである。問いであると同時に、答えである。しかし答えであるはずのお前が、何故、問うのか。
 自分は何者であるか、と」






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