フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

ウォーターシップダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ

2012年01月14日 10時22分24秒 | 読書・書籍

 児童文学の傑作という噂をきいて読んでみた。児童文学という冠をとってもいい。つまり、文句無しの傑作である。
 指輪物語とか、最近ではハリーポッターとか、こういう神話的ファンタジーについてのイギリスのレベルの高さを感じる。
 
 大まかのあらすじは、戦士(上士)になりきっていない青年ウサギ(若衆組)が、村を飛び出し、自分たちの新しい社会を作っていくまでの話である。
 きっかけは危険を察知する能力のあるウサギ、
ファイバーが、自分たちが住んでいる村・サンドルフォードに襲う災難を予知し、逃げ出すことを長老に提案する。しかし、却下。
 そこで、ファイバーのいうことを信じる何匹かの若衆組のウサギを引き連れ、村を飛び出すわけである。
 ファイバーの兄弟であるヘイズルがリーダーになって、様々な困難を切り抜けていく、ファンタジー冒険物語である。

 自然の中でのウサギは、肉食動物たちの獲物である。基本的に弱い生き物である。それゆえ、生き延びていくためには、臆病といえるほどの慎重な行動、周りの変化・危険に対する敏感さが必要とされる。
 リーダーであるヘイズルは、グループの中に弱者を組み込むことを恐れない。通常、足手まといになると思われる弱く体の小さいうさぎたちを積極的に仲間にする。合理的な考え方の持ち主なら、強いものだけで組織を固めたほうが有利と思うだろう。しかし、それは違うということを、この本から学ぶことができる。
 弱い者は、危険や周りの変化に敏感である。強い者はその変化に気づかない。弱いものがそれを指し示すセンサーの役割をするのである。いわゆる、炭鉱のカナリアである。
 確かに、単純に敵と闘うだけなら屈強の男たちだけの方が有利だろう。しかし、ウサギは本来闘う種ではない。他の動物の餌になる動物である。そこでは、どのように危険を察知し生き延びるべきかが問題になる。
 
 人間社会でも、経験の少ない若い人は、さまざまなことで利用されやすい。事情があって早く社会に出てしまった人間ほど搾取される。女なら体を売らされたり、男ならさまざまな誘惑で金をむしり取られる。若者は金になるからである。
 そのような状況から逃れるために重要なのは、青年期特有の「俺はなんでもできるぞ」という主観的な全能感ではなく、客観的な事実としての「社会的な弱者」であることの認識である。また、嫌悪すべきものに素早く反応する微細な身体感覚である。本来それは弱い者が持っている生き延びるための重要な能力である。強い者は強さ故に鈍感である。
 自分が弱いということを知っている者は強い。あべこべ言葉である。弱いが強い。強いは弱い。
 
 だが、うさぎたちは危険を避け逃げるだけの存在ではない。ここぞという時には命をかけて闘う。自分たちの仲間を守るためには自己犠牲をも厭わない。
 リーダーが自分の延命など考えず、「フリス様(うさぎの神さま)、私の命をあげますから、仲間の命を助けてください」と祈るのだ。
 身内を守るための戦いは、必要悪である。男たるもの、暴力は基本的には良くないが、例外があることを学ばなければならない。

 興味深かったのは、人間に飼い慣らされたうさぎの村が出てくることである。近くに住んでいる人間は、野生のウサギにおいしい野菜を与えて餌付けしている。そして、まるまる太ったところで、罠を仕掛け捕まえ食用にするのだ。
 その村のうさぎたちは、うすうすそれを知っている。しかし、イタチや狐などの天敵が排除され、栄養のある食べ物が与えられる快適な空間から逃げられなくなっている。いつか自分が殺される番がくることを、考えないようにして、今ある快適さを味わっている。
 なんだか現代の我々に対する大きな皮肉に思えてくる。与えられたものに満足して、生きることの主体性を失ってしまえば、このような快適ではあるものの、漠然とした不安から逃れられないだろう。
 厳しい自然と向き合いながら、今この瞬間を生き抜くほうが、本当の生を味わえる。
 現代人が教訓とするなら、厳しい社会状況を否定せず、その中で精一杯生きることである。現実のリアルな危険はあるかもしれないが、漠然とした不安を抱く暇なんかなくなってしまうだろう。


 日本語吹き替えのアニメがあったので、アップしてみた。
 児童文学ということだが、大人でも十分楽しめかつ勉強させられる本だと思う。

 

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奥秩父縦走 2012 1月4日

2012年01月14日 01時09分32秒 | 登山

 
 高原ヒュッテ~乾徳山登山口~徳和(バス停)~山梨市駅~自宅

高原ヒュッテ  7:30
乾徳山登山口 8:40
徳和       9:30
バス       10:40
山梨市駅    11:10
自宅       15:00位


 
この日は、もう帰るだけである。しかし、次の日は仕事だから、怪我のないように気を引き締めて帰ろうと思う。

 高原ヒュッテも最初は気持ちが悪かったが、一晩過ごすと自分の家みたいな気分になる。慣れはこわい。


画像 1798

杉檜の樹林帯になると、里が近くなってきたなぁという感じがする。少しだけほっとする。

画像 1799 

乾徳山登山口。



画像 1800

ここから黒金山まで6時間かかるらしい。



画像 1801

途中、広い駐車場がある。マイカーで来て乾徳山に登るなら、ここまで来るのが一番いい。




 画像 1811 画像 1803

バスの出発する時間まで、まだかなりある。そこで、その辺をブラブラすることにした。とりあえず、吉祥寺という寺があるから行ってみる。



画像 1804

 甲州の七福神めぐりのひとつらしい。毘沙門天。
 カラフルな幕が、チベット仏教のお寺のようだ。そういえば、この寺は真言宗だから、密教と関係が深い。



画像 1805

 上に行くと、煮豆やこんにゃく、漬物があった。すすめられたので、遠慮なくいただく。どれも手作りですごくうまかった。
 



画像 1806  画像 1807

 寺のおばあちゃん。ごちそうさまでした。
 もう一人、おじいさんがいて、この辺の山で起こった遭難のことについていろいろ伺った。
 遭難があると、その付近に住んでいる人たちに迷惑がかかるということがよく分かった。だいたい昭和50~60年くらいが一番多かったとのことだ。最近は登山客が少なくなって、そういう騒動もなくなったらしい。多分、遭難が多かったのは、団塊の世代が元気のいい頃だったのだろう。


画像 1810

 バスの時間がもうすぐ来る。その辺の小川で頭を洗って、ヘアーを整える。ヒゲもじゃで男っぽくなっている。私は毎日ちゃんとヒゲを剃るので、ここまで伸ばしたのは、人生で2,3回目くらいではないだろうか。ワイルド、野性的。悪く言えば飢えた野獣。
 
写真はここで終わり。ほっとして、駅とかその辺の写真を撮るのを忘れていた。
 無事に家につく。まぁ着いていなければブログを書けないから、当然といえば当然。


 縦走登山の記録は、一応、これで終わる。反省点について考えてみる。
 食べ物について、もう少し軽くなるように工夫したほうが良かったと思う。餅をやめてカップラーメン(カップはなくて中身だけのが100円で売っている)の量を増やせばよかった。また、米三合を持っていったが、浸す時間があり、炊くのが面倒だった。アルファ米にすべきだった。
 荷物が重いと体力の消耗が想像以上に激しい。できるだけ軽いほうがいい。
 良かった点は、寒さ対策をきっちりやったことである。テントの下からくる寒さをいかに遮断するかが重要になる。それから、ダウンジャケットは必須。厳冬期用のいい寝袋がないので、夏用の薄い寝袋を持っていって二重にした。荷物は多くなったが(必ずしも重くない)、そのおかげで快適なテント生活ができたと思う。
 それから、荷物とパッキングについてである。つまり、自分の荷物を完璧に記憶すること。そして、荷物をテント内にどう配置するかを予め決めておく(いくつかの袋にまとめその中に入れて置く)。それから、ザックに入れる順序を決めておく。
 こうすることで、起きてから出発するまでの時間が、かなり短縮できた。もたもたしていると、2時間くらいあっという間に過ぎてしまう。荷物のすべてを把握して、順序通りパッキングすることで、弱気になりがちな朝の時間帯を、うまくやりすごくことができたと思う。寝る前に、朝起きた時にどのように行動するか予めシュミレーションしておく。それは、完璧に自分の荷物を記憶し把握しておくからできることである。
 このように、朝早く起きて余裕を持って行動することが、事故防止にもなる。

 いろんな意味で、いい勉強になった。まぁ、楽しい
縦走登山だったと言ってもいいだろう。

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