児童文学の傑作という噂をきいて読んでみた。児童文学という冠をとってもいい。つまり、文句無しの傑作である。
指輪物語とか、最近ではハリーポッターとか、こういう神話的ファンタジーについてのイギリスのレベルの高さを感じる。
大まかのあらすじは、戦士(上士)になりきっていない青年ウサギ(若衆組)が、村を飛び出し、自分たちの新しい社会を作っていくまでの話である。
きっかけは危険を察知する能力のあるウサギ、ファイバーが、自分たちが住んでいる村・サンドルフォードに襲う災難を予知し、逃げ出すことを長老に提案する。しかし、却下。
そこで、ファイバーのいうことを信じる何匹かの若衆組のウサギを引き連れ、村を飛び出すわけである。
ファイバーの兄弟であるヘイズルがリーダーになって、様々な困難を切り抜けていく、ファンタジー冒険物語である。
自然の中でのウサギは、肉食動物たちの獲物である。基本的に弱い生き物である。それゆえ、生き延びていくためには、臆病といえるほどの慎重な行動、周りの変化・危険に対する敏感さが必要とされる。
リーダーであるヘイズルは、グループの中に弱者を組み込むことを恐れない。通常、足手まといになると思われる弱く体の小さいうさぎたちを積極的に仲間にする。合理的な考え方の持ち主なら、強いものだけで組織を固めたほうが有利と思うだろう。しかし、それは違うということを、この本から学ぶことができる。
弱い者は、危険や周りの変化に敏感である。強い者はその変化に気づかない。弱いものがそれを指し示すセンサーの役割をするのである。いわゆる、炭鉱のカナリアである。
確かに、単純に敵と闘うだけなら屈強の男たちだけの方が有利だろう。しかし、ウサギは本来闘う種ではない。他の動物の餌になる動物である。そこでは、どのように危険を察知し生き延びるべきかが問題になる。
人間社会でも、経験の少ない若い人は、さまざまなことで利用されやすい。事情があって早く社会に出てしまった人間ほど搾取される。女なら体を売らされたり、男ならさまざまな誘惑で金をむしり取られる。若者は金になるからである。
そのような状況から逃れるために重要なのは、青年期特有の「俺はなんでもできるぞ」という主観的な全能感ではなく、客観的な事実としての「社会的な弱者」であることの認識である。また、嫌悪すべきものに素早く反応する微細な身体感覚である。本来それは弱い者が持っている生き延びるための重要な能力である。強い者は強さ故に鈍感である。
自分が弱いということを知っている者は強い。あべこべ言葉である。弱いが強い。強いは弱い。
だが、うさぎたちは危険を避け逃げるだけの存在ではない。ここぞという時には命をかけて闘う。自分たちの仲間を守るためには自己犠牲をも厭わない。
リーダーが自分の延命など考えず、「フリス様(うさぎの神さま)、私の命をあげますから、仲間の命を助けてください」と祈るのだ。
身内を守るための戦いは、必要悪である。男たるもの、暴力は基本的には良くないが、例外があることを学ばなければならない。
興味深かったのは、人間に飼い慣らされたうさぎの村が出てくることである。近くに住んでいる人間は、野生のウサギにおいしい野菜を与えて餌付けしている。そして、まるまる太ったところで、罠を仕掛け捕まえ食用にするのだ。
その村のうさぎたちは、うすうすそれを知っている。しかし、イタチや狐などの天敵が排除され、栄養のある食べ物が与えられる快適な空間から逃げられなくなっている。いつか自分が殺される番がくることを、考えないようにして、今ある快適さを味わっている。
なんだか現代の我々に対する大きな皮肉に思えてくる。与えられたものに満足して、生きることの主体性を失ってしまえば、このような快適ではあるものの、漠然とした不安から逃れられないだろう。
厳しい自然と向き合いながら、今この瞬間を生き抜くほうが、本当の生を味わえる。
現代人が教訓とするなら、厳しい社会状況を否定せず、その中で精一杯生きることである。現実のリアルな危険はあるかもしれないが、漠然とした不安を抱く暇なんかなくなってしまうだろう。
日本語吹き替えのアニメがあったので、アップしてみた。
児童文学ということだが、大人でも十分楽しめかつ勉強させられる本だと思う。