フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

矛盾をはらんだ世界

2012年01月26日 09時01分24秒 | 社会・政治・思想哲学

 人間は言葉を使う動物である。それによって、文明が発達してきた。しかし、言葉は具体的なものを抽象化することで成り立っている。抽象化される過程で幅が生じるから、使う人の使い方によってズレが生じる。
 例えば、「あの子、かわいいね」 「そうだね」 という会話があったとする。特に問題はなく会話は成り立っているようにみえる。しかし、厳密にどのようにかわいいんだよ、と突っ込んで質問もできる。具体的な部分まで突っ込んでみると、「かわいい」という評価の中に大きな幅があることに気づく。この幅が、ズレとなってさまざまな対立を生むことになる。これが、言葉の大きな欠点である。
 しかし、私たちは言葉によってしか世界を認識できない。例えば、ある部族が、猫と犬を区別していなかったら、その部族には、私たちのいう「猫」という動物はいないことになる。言葉による分類がなければ、鹿、犬、豚、すべて、「けもの」で終わってしまう。そのように、私たちの世界認識はは言葉に縛られている。
 だが、さっき言ったように言葉は大きなズレを生む。そのズレを抱えたまま世界を組み立てても、必ず矛盾が生じる。
 宗教対立、イデオロギー対立などは、この矛盾によるものである。そして、言葉によって世界を認識しようとするかぎり、この対立がなくなることはない。
 禅は、瞑想によって、この言葉による世界認識を一旦停止するものである。矛盾をはらんだ言葉を使わないことによって、矛盾のない世界認識を可能にする。「私が無いから皆私」のような状況である。言葉にしたら矛盾であるが。
 ただ、現実に言葉を使わなかったら、日常生活は出来ない。だから、「一時的に」ということが重要だ。
 言葉を絶対化するのではなく、矛盾をはらんでいるということを、忘れないことだ。言葉を絶対化していくと、その考え方がイデオロギー化し、必ず対立を生む。
 ズレを無くすよう努力することが、議論であるが、その議論も言葉で行われているから、また矛盾が生じる。
 が、奇跡的に二人の気持ちが交わることがある。その一瞬の奇跡にかけるのが、真のコニュニケーションである。

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