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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

自死という生き方 須原一秀著

2012年04月08日 15時44分18秒 | 読書・書籍

 「すべての書かれたものの中で、私が愛するのは、血で書かれたものだけだ。血を持って書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。

 他人の血を理解するのは容易にできない。読書する暇つぶしを、私は憎む。

 読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者が続いていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。

 誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。

 かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。今ではにまで成り下がった。

 血を持って箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗証されることを望む…」

 by ニーチェ

 私の場合、ほとんど暇つぶしで読書しているので、ニーチェのこの言葉は耳が痛い。確かに、世の中には血で書かれた書物以外のものが氾濫している。だが、私は、それについて、特に否定的には考えていない。なぜなら、人生はそもそも暇つぶしみたいなものだと思っているからである。
 
 しかし、この「自死という生き方」は正真正銘、血で書かれた書物である。
 著者の書物は何冊か読んでいるが、いつも読みながら心臓がバクバクしている。 冷静な気持ちで読めた試しがない。
 最初、理由が分からなかったが、今は分かる。それは、須原氏の書いた書物が、私の自己保存本能を強く揺さぶるからだ。それについては、いずれゆっくり書こうと思う。

 著者、須原一秀氏は、2006年4月はじめ、某県の神社の裏山で縊死(首をつって死ぬこと)された。 死を確実にするため、頸動脈は切られていた。6年前の今頃である。
 本書はその遺著、遺書にあたる。
 ここまで書くと、何やら薄気味悪い、暗い書物のような感じを与えてしまうが、結論を先に言えば、読後、非常に清々しく爽やかな気分になる。著者の自死を、肯定的に捉えてる自分がいる。
 わたしにとってこの本は、価値観を大きく転換するきっかけになった書物といえそうだ。なぜなら、今まで私は自殺を非常にネガティヴにとらえていたからだ。
 今は自殺という選択肢もありかもしれないと思っている。「逃げ」という意味での自殺は、今でも強く否定するが、須原氏の、自死はそうではない。

 まず、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスという三人の哲学者・芸術家の生き方と自殺の意義について、分析をする。
 彼らの、人生はニヒリズムではなかったこと、自殺が虚無や厭世からなされたものではないことを、証明しようと試みている。
 
 次に、キューブラー・ロスの死の受容に関する五段階説を検討する。これについては、有名だから、知っている人も多いだろう。
一応、5段階を列挙してみよう。
 例えば、がんを告知されたとして、 

 1、否定の段階 自分ががんのはずはないと否定する。
 
 2、怒りの段階 否定しても客観的な状況から、否定できなくなり、何故私がという怒りに変わる。
 
 3 取引の段階 神などに対し、もし助けてくれるなら、もっと有意義に過ごします、と取引しようとする。

 4 抑うつの段階 悲しみふさぎこむ。

 5 受容の段階 やがて、自分の人生全体を何らかの形で肯定し受け容れる。そして、自分の死も穏やかな気持で受容する。

 このように、突然のがんの告知のように、自分の意志とは別にやむ得ない状況での受容を、著者は「受動的死の受容」という。
 これに対し、この本の主題は「積極的死の受容」である。
 
 積極的死の受容とは、武士道における「いつでもあっさり腹を切ることのできる状態になっている心の有様」である。そこで、この本は「新葉隠」と呼ばれることになる。
 武士は、元々は戦士であり、小さくても一国一城の主になり得た人間である。しかし、戦争など全くない平和な江戸幕藩体制の下では、官僚的事務官としてしか生きられない。生きていくためには、やりたくないこともやらざるを得ない。しかし、武士という誇りもある。
 このように江戸時代の武士は、暴力的戦士としての部分と体制に従順な忠犬としての部分の矛盾によって、精神的に引き裂かれることになる。
 徹頭徹尾忠義を尽くし、ロボットのように事務処理をこなし、自分というものを殺しながら、男としての自尊心と主体性を維持していくにはどうすればいいか。
 そこで、「切腹」という形の主体的行動が生まれてくるのである。
 つまり、こういう事である。
 いま、わたしは、自分の意志で忠義を尽くすことを決意して事務処理をしている。決してそれは何らかの利益や罰が怖くてやっているわけではない。だから、法を犯すことになっても、自分の意志を貫くためなら、それをやる。法を犯した責任は自分の命でとる、ということである。
 「武士道とは、死ぬこととみつけたり」である。
 自分の命をあっさり捨てることのできる心構えを持ち、官僚的幕藩体制の中で、自尊心と主体性を維持し続ける道を見つけた、ということである。

 この精神を現代風にアレンジすれば、こういう事である。
 介護が必要なくらい老いてきた。もうそろそろ人の手を借りなければ生きていけない。その中で、自尊心と主体性を維持していくためにはどうすればいいか、ということである。
 自身の主体性を維持するために、自死を決意したというなら、私にそれを否定することはできない。

 私はできるだけ生き続けたいと思っている。自殺はしない。
 しかし、体が動かなくなって介護が必要になり、自分で食べ物が食べられない状態になったら、積極的自然死をしようと思っている。積極的自然死とは、自分の意思による餓死である。これが、もし自殺なんだと言われれば、自殺かもしれないが、そうするつもりでいる。
 
 何れにしても、死について考えておくことは、人生を生きる上で有用なことである。人の一つのリアルな死について詳しく知りたいなら、この本を読んでみることをお薦めする。自分の死についてこれほど客観的かつ分析的に書かれた書物を、私は知らない。
 
 別に自死をすすめるつもりは全くないが、須原氏の桜が散っていくような美しい死に方も、悪くないなぁと思う。
 
 合掌
 


 

コメント
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