
中村うさぎ・佐藤優(まさる)「聖書を読む」を読んで
いて、何カ所かで神ヤハウェを「偏愛する神」と呼んで
いるのを見て、驚きまた新鮮な感じを受けた。これまで
聖書を読んでいて、えこひいきがあるなと感じていたが、
はっきり専門家がそう書いていることに注目したのであ
る。
神はアベルの捧げものを受け入れ、カインの捧げものを
拒んでおり、長子エサウを退けて狡猾に見えるヤコブと
母リベカの策を大目に見ている。また、ヨセフが歳の離
れた兄たちに夢の話で不興を買っても、聖書はヨセフを
選ばれた者として描いている、など。また、身内がひど
い目に遭った仕返しとして、ヤコブの一族がシケムの町
の男を全員虐殺する場面が出てきたりするのは、気まぐ
れにもジェノサイドを容認しているように見える(創世
34章)。
聖書の記載を弁護するのではなく、描かれる偏愛は論理
的でなく、気まぐれと言われても仕方のない一方的な肩
入れであり、理不尽であると見る。しかし、それはこの
世に不平等がどうしても存在し、あるいは不条理な状況
や出来事が生じる現実を説明している、あるいはそれに
備えさせていると取る。
解説書ではなく、対談の形で多くのトピックを扱うこの
本は、深いやり取りがさらっと進められていて、著者の
知見や提示するところを理解するには時にじっくり読み
返すことを必要とする。著者の佐藤優は、「本書は日本
語で読むことができる神学的な思考法を知るための最良
の手引きであると自負している」。一見、記述は無頓着
にみえて隙のない手引書なのだろうと思っている。
中村うさぎ・佐藤優(まさる)「聖書を読む」文芸春秋、
2013年。365ページ。
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その言葉そっくりあんたへ返すよ。
何かにつけて批判するのはあんたの専売特許だろ。
過去のコメント読み返してみろ。
ってことは・・・?
「お前は高慢だ!」って言う人が一番高慢なのかも?
物言えば唇寒し花の前
まさしくその通りで、高慢な人間は人を助けたりしない。したとしても動機がよくない。
教会においてその人が高慢かどうか簡単にわかる方法があります。その人が伝道に積極的かどうかです。
高慢な人間は、バカにされたり、見下されたりするのが何よりいやなので伝道しようとしません。伝道するとそれを経験するから。
教会で偉そうなことを言っていてもその人が伝道しているかどうかで、高慢度合いを測ることができます。
この教会で祝福を受けているというならそれを人にも還元すべきですが、それをしない人間は、人の幸せよりも、自分がバカにされない、見下されない、よく見られたい、そちらの方を選びます。それこそ高慢の表れです。
確かに、教会は病院です。それも野戦病院。
医者が居ないので、患者が病人を看護してます。
ですから、病気は治りません。
治そうとしている方も病人ですので、やがて看護疲れしてしまって、看護される側に回ります。
そして、病人ばかりの病院になってしまいます。
何処かに医者は居ないのか?
それは、リアホナ2014年4月号の中でローカルページのP4に“教会は病院です”の記事を思い出しました。
末日聖徒が目指す本来の姿がこれではないかと私はそう知っています。
自分が高慢やうぬぼれたりしていたのなら、『わたしたちの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』という、主の教えを行うことは、なかなかできないでしょう。
私が目指しているこのような記事のようには、自分のワードではできてはいません。しかしいつしか希望を持って望んでいきたいと思います。
アイリング長老が日本の伝道を預言したことを成就するためには、今回の記事に書いてあるようなことしなければ、決して成就することは、まずないことでしょう。
食いすぎて太っているのだ。
これ、豚の真理!
うぬぼれ=自らの知識について思い上がり、慢心している状態
とすれば、小生を始めlds教会の伝統的な教えから遊離して見える人々は、初めからそうであったわけではなく、謙遜で地道に求道の道を長期にわたって歩んできた結果、現在の理解や境地に達したのではないかと思います。決して自惚れているわけではないと弁明させていただきます。もし、そう自惚れて見えることがあれば反省いたします。
聖書の編集者が描いた神は、「偏愛」的になっていて、裏を返せば自らの存続とあり方を正当化していることになる。コメントに異議ありません。
ながら偽りの教義を説くことに専念する人々について,次のように述べている。
「末日聖徒の中に,福音の真理と装って偽りの教義を説
く人々がいるが,彼らは二つのタイプに分けることができる。また,実際にはこれ以外にない。
第1は,完全に無知な人。怠惰のために英知を欠き,読
書や勉強によって自己の進歩を図ろうとあまり努力しない人。不治の病すなわち怠惰に陥り,病んでいる人。
第2は,誇りが高く,うぬぼれの強い人。自分のうぬぼれた考えに照らして読み,自分の考えた法則で解釈し,自らが律法になろうとして,自分こそが自分の行為を裁く唯一の裁き手であるとする人。このような人は,第一の人以上に危険で無知な人である。」(『福音の教義』)
日本への原爆投下も旧約聖書の硫黄の火のように解釈する人もいますし、神そのものの視点というより人間側からの視点でしょう。
レーマン書なるものが書かれていればニーファイが悪者になっていたでしょうし。
カインとアベルの話も、遊牧民であったイスラエル民族を神が高く取り上げた、と言う逸話だと思ってます。
カナンの地を略奪する時も、それまでそこに住んでいた民族を皆殺しにするよう命じています。
そもそもが、旧約聖書は、幽囚の身であったイスラエルの民を鼓舞する為に編纂されたもので、人類全般に対する宗教書と解釈するのは正しく無いと思います。
その様な旧約聖書の偏向した部分に対し、批判的に書かれたのが新約聖書なのだと理解しています。
キリスト教は世界宗教を目指したとしても、ユダヤ教は、民族宗教に留まっています。
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