[D. Michael Quinn]
この7/31、ソルトレークシティで開かれたサンストーンシンポジウムで、1993年に破門された歴史家D・マイケル・クインは、疑問に悩み迷ってもLDS教会に愛着が残る人は、留まることで得られるよいことがあるので留まるようにと説いている。
クインは彼の話が個人的な視点であると断って、一度も疑問を持ったこともない人にも、すでに教会を去った人にも当てはまる助言を申し述べたいと言う。ただ、もちろんどう受けとめるかはそれぞれ個人次第である。(以下、引用。)
「まず、厳密に言えば、モルモニズムとLDS教会はイコールではない。教会はモルモニズムの下層に位置する一部、あるいは付加物のようなものと考えることができる。初めカリスマ的な少年に端を発し、家族に輪が広がり、信徒のグループ、モルモン書の登場、そして当初あらゆる面で未熟な教会組織へと展開した。その後、年月を経るにつれ重みを持つ存在になってゆくのであるが、その過程で善良な人々が善意から取り組んだにもかかわらず、指導者を含め教会に大小様々な過ちが生じた。(モルモン書の扉の頁、参照)。指導者も我々も教会の長所を構成し、また短所に対しても責任を負っているのである。」
クインは教会が初めからずっと欠陥があり、高位の指導者が大小の過ちを犯してきた、という考えに組しない。彼はむしろ「指導者たちが自分よりよい人たちであったと信じてきた。ただ、教会が出してきた年鑑によって精査しても、教会と預言者と目される人たちが無謬であったとは言えない。」
「教会が過誤を犯したことに痛みを覚える人には、留まるように勧められない。ただ、生涯教会から離れてしまうのではなく、いずれ教会に至福を感じられる日が来ることを望んでいる。一時距離を置くことで困惑や苦々しい思いが晴れるかもしれない。教会から休みを取るとよい。」
「LDS教会に煮えたぎる怒りを感じている人には、その感情について何も言うことはできない。ただ、怒りの感情は身内や親しい仲間の心を痛め付けむしばんでしまう。私は教会や指導者に怒りをいだかないように望んでいる。今怒りを感じているなら、時間に解決させいずれ腐食する力のある怒りを克服してほしい」と語る。
「私(クイン)について言えば、七代目モルモンで教会は他所では見出せない、心のこもった奉仕をする機会を、またそうする動機を起こさせてくれた。私は教会を非常に身近に感じてきた。このような愛を感じさせる、実践的なLDS教会は、『人』という欠点を免れない存在によって運営されているが神によって設けられた教会である。私が留まるように勧めるひとつの理由はここにある。」
「もし、LDS教会にもう何の関心を覚えることも、教会の活動や仲間に何の未練も感じないのであれば、何も申し上げることはない。」
「反対に、もしまだLDS教会に愛着が残っているなら、教会と連なっていることで得られるよいことのために留まるよう勧めたい。私のような型にはまらない、はみ出しのモルモンも教会を豊かにしているのだ。聖句を敷衍すれば、私たちはパン全体をふくらますリベラルなパン種と考えたい。(マタイ13:33, ガラテア5:9)。私が教会に付き添うように暮らしてきた(remain with)のは、教会がなしてきた数多くの善に、また人々を元気づける特質に目をとめたからである。」
(以上の文は、8/8 Quinn からHugo Olaizに送られたメールによっている)
この7/31、ソルトレークシティで開かれたサンストーンシンポジウムで、1993年に破門された歴史家D・マイケル・クインは、疑問に悩み迷ってもLDS教会に愛着が残る人は、留まることで得られるよいことがあるので留まるようにと説いている。
クインは彼の話が個人的な視点であると断って、一度も疑問を持ったこともない人にも、すでに教会を去った人にも当てはまる助言を申し述べたいと言う。ただ、もちろんどう受けとめるかはそれぞれ個人次第である。(以下、引用。)
「まず、厳密に言えば、モルモニズムとLDS教会はイコールではない。教会はモルモニズムの下層に位置する一部、あるいは付加物のようなものと考えることができる。初めカリスマ的な少年に端を発し、家族に輪が広がり、信徒のグループ、モルモン書の登場、そして当初あらゆる面で未熟な教会組織へと展開した。その後、年月を経るにつれ重みを持つ存在になってゆくのであるが、その過程で善良な人々が善意から取り組んだにもかかわらず、指導者を含め教会に大小様々な過ちが生じた。(モルモン書の扉の頁、参照)。指導者も我々も教会の長所を構成し、また短所に対しても責任を負っているのである。」
クインは教会が初めからずっと欠陥があり、高位の指導者が大小の過ちを犯してきた、という考えに組しない。彼はむしろ「指導者たちが自分よりよい人たちであったと信じてきた。ただ、教会が出してきた年鑑によって精査しても、教会と預言者と目される人たちが無謬であったとは言えない。」
「教会が過誤を犯したことに痛みを覚える人には、留まるように勧められない。ただ、生涯教会から離れてしまうのではなく、いずれ教会に至福を感じられる日が来ることを望んでいる。一時距離を置くことで困惑や苦々しい思いが晴れるかもしれない。教会から休みを取るとよい。」
「LDS教会に煮えたぎる怒りを感じている人には、その感情について何も言うことはできない。ただ、怒りの感情は身内や親しい仲間の心を痛め付けむしばんでしまう。私は教会や指導者に怒りをいだかないように望んでいる。今怒りを感じているなら、時間に解決させいずれ腐食する力のある怒りを克服してほしい」と語る。
「私(クイン)について言えば、七代目モルモンで教会は他所では見出せない、心のこもった奉仕をする機会を、またそうする動機を起こさせてくれた。私は教会を非常に身近に感じてきた。このような愛を感じさせる、実践的なLDS教会は、『人』という欠点を免れない存在によって運営されているが神によって設けられた教会である。私が留まるように勧めるひとつの理由はここにある。」
「もし、LDS教会にもう何の関心を覚えることも、教会の活動や仲間に何の未練も感じないのであれば、何も申し上げることはない。」
「反対に、もしまだLDS教会に愛着が残っているなら、教会と連なっていることで得られるよいことのために留まるよう勧めたい。私のような型にはまらない、はみ出しのモルモンも教会を豊かにしているのだ。聖句を敷衍すれば、私たちはパン全体をふくらますリベラルなパン種と考えたい。(マタイ13:33, ガラテア5:9)。私が教会に付き添うように暮らしてきた(remain with)のは、教会がなしてきた数多くの善に、また人々を元気づける特質に目をとめたからである。」
(以上の文は、8/8 Quinn からHugo Olaizに送られたメールによっている)
教会に疑問を持ち、指導者や会員に対して怒りや悲しみを抱いた人たちが教会を離れて行くのを見てきました。
わたしも教会に対しては色々思うことはあります。
例えば、集会や活動の多さです。ここは日本なのにどうしてアメリカのやり方でやらせようとするのか?です。話し出すと切りがありません。
ただそういった疑問をはるかに上回る尊いものがあります。
旧約の時代から続いている特権です。
それは神と誓約を交わすことができる特権です。
誓約を守ることで豊かに祝福が与えられるのです。
わたしには兄が一人います。
母はわたしを産んだ後は何回か流産しました。
とても残念だったと思います。
それが今は7人の孫のおばあちゃんです。
神はその世代を超えて祝福を与えて下さるのがわかります。
この世の中も教会の中も、わたしは教えを実践する上での人格形成の場だと思っています。
救いは神のみ言葉にあります。ジョセフ・スミスがそうであったように「求めれば与えられる」のです。
国を守ること、民を守ることを勉強しているわたしには、モルモン書がピッタリです。
神との神聖な交わりを学ぶには旧約聖書です。インスティテュートのテキストが理解を深めてくれます。
成熟した心を感じます。
まったく同感であります。
しかし、多くの教会員はその特権を人に分かち合おうとしていない。自分と自分の家族だけのものにして。
(その家族とは、自分と妻と子供たちだけ。なぜか、両親や兄弟は入っていない)。
つまり、自分と家族だけが特権を味わおうとしている。結果的にそうなっていると言うことだが。
利己主義につきまとうものは高慢。それをおおかたの教会員が気がついていない。
その対極にあるのが反モルモンで、ジョセフスミスの不完全さ、不適切さを証明することで、この教会がインチキの教会であると結論を下して、インチキではないという者を糾弾することが目的になってしまっている。
主にとってはどちらも望まれたものではないだろう。
ジョセフは啓示の人であって、世のキリスト教のいくつかの間違いを修正し、救いの計画を明らかにして、神権を受けて、バプテスマといくつかの儀式を考案して主にささげた。
ジョセフは積極の人であって、主の支持待ちをせず、進んで求めたので多くを与えられた。ただ完全ではなかったのでやりすぎもあった。
教会を興して運用しようとしたが、幼稚なものにとどまった。一夫多妻の教義を賜り、(おそらく12氏族の集合を意識して)実践を試みた。
ブリガムはもっぱら政治の人で、大鉈を振るって幼稚な組織を、大いに実用的に成熟させ、ユタを賜った。 過酷な環境をものともせず、一夫多妻の教義を活用して教会員を絶滅から救った。
ブリガムはきわめて実践主義の政治家であったので、教義には疎く、奴隷制度を肯定し黒人が奴隷でいるべき理由を述べたりして、差別を助長するような推進を行って課題を残してしまった。
そこで主は外圧を使って速やかに奴隷制度をユタから滅ぼしアメリカ大陸から滅ぼした。
教会に残された課題はいくつかあったが財政問題はロレンズスノー大管長が、黒人差別については根深いものがあったので時間がかかり、おもにキンボール大管長が行った。不十分なところは後に補われた。
ジョセフは既存のキリスト教義に対してリベラルだったし、ブリガムはジョセフに対してリベラルだった、ロレンズスノーとキンボールはソフトタッチだったがブリガムに対してリベラルだったと言える。
彼らは異口同音に、自分は至らない僕であることを認めていて、自分が無謬であると宣言したことは一度もない。
結論から言えば、末日聖徒の今があるのは、彼らに負うところが大きく、彼らで足りない時は、主は外圧でも何でも使って修正されるということでしょう。
聖書を真面目に読めば、ノアもモーセもペテロだって無謬とは程遠いのが明らかなわけで、一般的に指導者の批判はしてはいけないものだが、行きすぎも問題だろうと思います。
紙に導かれる教会のイメージをより正確に理解する上では、担い手に関する大まかな評価は避けられないものである以上は、本人が言ってもいないような無謬主義を展開したり、新会員に無謬だったと思わせようと頑張るは賢明な選択ではないと思います。
そういう意味で、どういういきさつがあったのかは知らないが、教会がマイケル・クインのような人材を破門してしまったことは、教会にとってかなりの損失だったと思います。
主はアブラハムを召されたとき、彼とその子孫に与えられるはずの栄光に関して確かな約束を幾つか与えられました。これらの約束の中に、彼とその子孫によって地のすべての国民は祝福を得るという言葉があります。【創世22:15-18;アブラハム2:9-11参照】
……主の計画は、彼と子孫だけでなく、地のすべての家族に祝福を与えることでした。……
……イエスはこの世に来られたとき、イスラエル、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの子孫のためだけでなく、全人類家族のためにも犠牲となられました。イエスによってすべての人が祝福を受けられるようにするため、イエスによってすべての人が救われるようにするためでした。イエスの使命は、全人類家族が永遠の福音のもたらす恩恵を得られるように備えをすることでした。 言うなれば、それはイスラエルのためだけでなく、全人類のためでもありました。また、地上に住んでいる人々だけでなく、霊界にいる人々のためでもありました。……
……わたしたちはイエスが持っておられた同じ神権を持っています。そしてイエスが行われたように行い、イエスが行われたように自分の望みと思いを犠牲にしなければなりません。
「わたしたちが持つ神権は、人類家族の救いのために啓示されました。わたしたちは人々を救うためにどのように神権を用いることができるかについて、熱心に考え、思い巡らさなければなりません。」
★★★★★
それは教会員としての責任です。
良い情報ありがとうございます。
先の女性神権問題で破門された弁護士さんも立派な姉妹で教会を愛していたとか。
確かに人材としてはもったいない気もするのですが、この教会の俯瞰力は半端ないとも感じます。
主張に対する対応の結果をかなり見極めた上での判断なのだと感じます。
とかく教義論にかたむきがちな日本モルモンの最も見習わなくてはいけない点かと。
教会本部には将来の末日聖徒の着地点がはっきり観えているでしょう。
つまりビジョンがはっきりしている。
我が国は色んな意味でボケてますw
ブーブ文句ばっかりでは。。
英断と出るか、逆の効果を生む(他の留まる者に失望感、不信感を植え付ける, 部外者にも)となるか微妙に思われます。
まぁ、クインさんも女性弁護士さんも自己の信念は曲げないでしょうね。
こちも尊敬に値します。
逆効果になれば、潔く方針転換を図る。それも俯瞰力。
公式の宣言1でも二つの選択の結果を見極めている様が見て取れます。
リアリストなモルモンの未来は明るいでしょう。
しかし、逆説的な意味で破門者も出ない日出る国は日没かも。
ブーブ文句ばっかりでは。。