
3日間大魚に呑み込まれていたという部分のことである。末日聖徒のInstitute の教科書(1988年)はもちろん、ネット上でカイルとデリッチの注解を始め数多くの注解に当たっても、意外なことに保守的な記載が多く見られた。しかし、一つ納得のいく説明を見つけることができた。
それはシカゴで30年間カトリック信徒を指導してきたジョー・パプロッキ師で、物語の趣旨は真実であるが、科学的・歴史的側面については事実と受けとめる必要はない、と言う。聖書には比喩的な表現が使われている箇所があり、そのようなところではそれが直解的に事実でなくても物語として真理を伝えていると受けとめることができる。(比喩的表現とは、例えば「ひどい土砂降りだ」という言い方。英語では「犬ネコが降ってくるような雨だ」it's raining cats and dogs.)
ヨナの物語の場合、描かれている物理的な面(人は大魚に呑み込まれて3日間も生きられるか)に気を取られる必要はない。そのことで全く架空の話と突き放してはならない。神の意志に従わず、自分のしたいことに流れる時にどのようなことになるかを教えている。神のみ心を無視して逃れようとすると、人は謂わば「大魚の腹」という暗闇のただなかに行き着き、行くべき方向を見失う。ヨナは神の召しに応えようとした時、光を見ることができたのである。
[エジプト、アレクサンドリアのコプト教会のサイトst-takla.orgより]
奇跡を信じる宗派は、神には何でもできないことはない、ヨナの話もあり得ると受け入れている。それに対して、「あなたがたは世の塩となりなさい」と言われて、文字通り身体を塩にするのですか、と問い返されたらどう答えるのだろうか。故榊原康夫は「聖書だからといって文字通りであると思い込まないで、・・日頃文学的コモンセンスを磨いて」比喩であるかどうか見抜くことが大切、と言っています(「聖書読解術」55, 116)。
[注]
比喩的表現:何かを別のものと比較しながら述べ、文字通りの解釈とは異なる意味で言葉や表現を用いる時、それは比喩的表現(figurative expression)となる。
Source: Was Jonah literally swallowed by the Whale? Joe Paprocki Answers:
http://bustedhalo.com/questionbox/was-jonah-lit...
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私に対する「不思議」だという見方について短くお答えするべきですが、他の方のレスポンスで答えられていると思います。
個人的なことですが、昨日から身辺が忙しくなって丁寧な応対ができず、失礼しています。
「4:9しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
」
(ヨナ書)
にありますように、神の慈愛や御旨を、伝道者として身につけましょうというところに、まぁ、理想的にはあるんではと思うんだけど、どうでしょうか??
せば、信仰がないとかって断罪してるようなのは、どうなのかなぁぁと。慈愛の精神を持つ修養になるペーパー・紙上訓練だと、或いは、自身の慈愛の精神を示せる絶好の機会と思ってぇぇ・・・・そういった裁き的態度、表現を避けれる、何かないもんですかねぇぇ??・・・・
慈愛はさぁ、まずは、忍耐ですかぁぁ、うぅぅんん・・・・
「45 慈愛は長く堪え忍び、親切であり、ねたまず、誇らず、自分の利益を求めず、容易に怒らず、悪事を少しも考えず、罪悪を喜ばないで真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
」
(モロナイ書)
信仰という言葉を使う時、信仰箇条にありますように、“わたしたちは,永遠の父なる神と,その御子イエス・キリストと,聖霊とを信じる。わたしたちは,福音の第一の原則と儀式とは,第一に主イエス・キリストを信じる信仰・・・・”を思って、単に“信仰”じゃなくて、“主イエスを信ずる信仰”とかって書いてみるようにしたらいいんでは?? せば、自分と主との距離、自分のの断罪している相手と主との距離、それから、自分と相手との距離を考慮してみて、で、それらの距離は主から見ての距離かもしれない、或いはあるべき距離かもしれない・・・・
ジョセフ・F・スミスは神から召された大管長ですが、彼の述べた見解だからという理由でことごとく絶対とは思わないだけのことです。
信仰には様々なタイプがあり、教会や預言者がひとつ間違えたらたちまち消えてしまうタイプの信仰もあれば、さもありなんと笑って、当然のごとく十分の一を払い教会に集えるタイプの信仰もあるわけです。
私はウイリアム・J・ブライアン氏と同じようにヨナの話を信じている。わたしがそう信じている第一の理由は、それが『聖書』に記録されているからでも、同様のことが今日に起こったからでもない。それはわたしたちの主イエス・キリストが信じたからである。ユダヤ人は主が神の御子であることを示すしるしを主に求めた。主は一つ与えられたが、それは彼らが期待したものではなかった。当時のあざける者たちは主が力強い業をなされたにもかかわらず、自らの罪のために信じることが出来なかった。
「彼らに答えて言われた。『邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」』」(「救いの教義」2:290-291)
ヨナ書に使われたヘブライ語の「taneen」も、『新約聖書』に使われた「katos」も、巨大が海の生物を表す語である。さめは地中海のどこにでも見られ、人間の体を飲み込むほど大きな口をしている。この出来事が奇跡的なのは、ヨナが丸ごと飲み込まれたこととあわせて、大魚の中で三日間も消化されずに生き延びたという事実である。
私も、ブログ主が引用された方々や、その他の方の個人的意見より、キリストを信じます。
ヨナの話が真実でなければ。キリストが引用する意味がないからです。
私にとって不思議なのは、教会や預言者を信じていないのに教会に行っている人々です。
わたしがそのような疑問を持つなら、明日から行きませんよ。信じていないのに十分の一を払う意味がありませんし、預言者がでたらめを言っているのなら、この教会は詐欺集団になるからです。詐欺には荷担したくありませんから。
ヨナについては、旧約聖書の列王記下14章25節に出て来るだけですが、23節にイスラエルで王ヨアシの子ヤラベアムが王になって41年が過ぎたって書いてありますから、それ以前にヨナって預言者は存在したと思われます。
しかし、同じ旧約聖書のナホム書には、主はニネベを亡ぼすと書かれています。実際アッシリアの中心都市ニネベは紀元前612年には陥落しています。
そもそも、ユダ民族にとって憎むべき敵に預言者を送って悔い改めを促すことも不自然ですし、アッシリアの人達がイスラエルごとき弱小国のかつ、異教の神の預言者の忠告を聞くはずがないと思います。
ただ不思議なのは、どうしてこの話が、聖書の中に残ったのか?ですよね。
蛇足ですが、この大都市ニネベの図書館をはじめの遺跡からは、北イスラエルの陥落に関する記録など、旧約聖書の歴史を知るのに重要な資料が出土しています。
今はイスラム教の聖地としてなかなか学術調査は難しいようですが、聖書を読むときに、同時代に記録された他の資料も比較するともっと理解も増すと思います。
それから判断するのも面白いと思います。
鯨がどうの部分は奇跡として信ずるかどうのではなくて、はっきり言ってスルーをするところだと思います。
せばですね、モルモンとなることで、何らかの葛藤を抱え込んでしまったというような側面もあるんではないでしょうか???そんなところから来る一種の抗し難い衝動のようなものから、ヨナを取り込んだ上の辞世の、もとい、ふつうの、心境を表した句が出来上がったんではと。
たとえてみれば玉虫でしょうか。人の目を引き付ける、その宝石のような金属のような光沢は、NJさん自身の学識経験、教育関係者等を通じての見方を的確に表された記事となりましょうか。モルモンの中で学者さんとか稀少でしょうし、ましてブログとか書く御仁は、そういったことでも、目立ち光るわけです。んで以って、一般クリスチャンからは異端とされるモルモンの教義的側面とキリスト教のそれとの折り合いを葛藤の中で織り込ませたような記事は、玉虫色とでも・・・・
ヨナの伝道ということでは、より多くの人に、クリスチャン系に理解されやすいんではと・・・・
ヨナの逸話のように実際に類似の出来事が起こっている話でさえ、ちょっと理論的に説明しがたいとなると「聖書の物語は比喩だから、寓話だから」と逃げ腰になるのが現代のクリスチャンと呼ばれる人々です。彼らには信仰がないのです。
このようなことでは、処女マリアが男の子を生んだことや、死人が復活したことや一人の神の子が全人類の罪を購ったこと、そして永遠の生命と生ける神の存在などは到底信じることができないでしょう。これらはみな「事実」であるのに。
同様に1820年に起こった「最初の示現」もまた、堕落したこの世の人々からは完全に否定されましたね。神はこう言われました「この世の教会は全てことごとく間違っており、私の目から見て憎むべきものである」。まさにその通りです。
私は改宗者です。それまでずっと進化論を信じていましたが、宣教師から「救いの計画」を知らされ真理を知りました。人は偶然発生した生命体ではありません。人がこの世にいるのは再び神と共に住まうためなのです。
ヨナの話に戻りますが、旧約聖書は神聖な記録です。たしかに重要な真理が抜き取られていますが末日聖典によって補われる必要があるというだけで、そこには事実かどうかという疑いを差し挟む余地はありません。
また、ヨナの逸話は作り話だが、キリストの死と復活を示すものだから受け入れると言う人がいるならば、それはキリストへの証や予言は所詮作り話であるという考えに基づくものであり、その人自身の信仰の度合いを如実に表しているのです。
この福音は真実であり末日聖徒イエス・キリスト教会は唯一まことのキリスト教会であることを証します(笑)
「悩むわれ ヨナならずして ヨナのこころ 途方もなきつとめ 免れられぬか
われ悩む ヨナならずして ヨナの心境
途方もなきつとめ われにかなわず 」
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%A5%E8%A5%CA
事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。
われら、理論の奴隷たるがゆえに、しばしば懐疑の魔鬼の犯すところとなるなり。
神の言たる事実にのみたよりて、われらの信仰は磐石の上に立って動かざるべし。
http://blogs.yahoo.co.jp/yamazaki_4753/66829833.html
クジラに飲まれても生きていた人
クジラは、今までに地球上に現れた最大の動物で、大きさという点では恐竜もかないません。
海の奇談には、クジラに飲み込まれながらも、運よく生還出来たという人の話しがいくつかあります。
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↑この鯨はマッコウクジラだったそうですが、シロナガスクジラであればもっと生存は可能かも。。
ソドムとゴモラで振り向いたロトの妻が塩の柱になった場面も死海のあたりの災害出来事に逃げ後れた象徴的事象と今日では説明されているようです。
つまり、ただ振り向いて見ただけで塩柱へピキピキとなったわけではなく、残して来た財産を取りに戻り災害に巻き込まれた教訓をああいった物語に込めたと考えられもします。
ヨナの鯨の物語も真偽はちょっと脇においておいて、何を教訓とするべきなのかを読み解くのが大切なのでしょう。
この場合は3日目に復活するキリストの予型でしょうか。
主にできないことは何もないことは否定していません。それはその通りに信じているのですが、主があえて文字通りにそのような方法を取られたかどうか、「大魚」は比喩である可能性を読み取ることは不信仰なのでしょうか。
モーセの航海割りなどもそうですが、大宇宙の自然の法則すべてを創られた主は自然科学に従ったもっと現実的な方法を選ばれたが、書き手が聖典にするときに科学的より文学表現優先にしているのでこうなったと理解しているだけのことなのですが。
宇宙を創造した神が、人を大きな生き物の中で生かしておくことなど至極簡単なことなのではないでしょうか。
引用された方々は、たぶん全知全能の神を認めているのではなく、漠然とした神のようなものを認めているのか、あるいは神の存在自体を認めていないように思いますが。
インスティチュートテキストに書かれていることは、保守的というより、しごく当たり前のことしか書いていないと思われますが。
ブログ主のコメントを拝見すると、教会が言っていることを信じるより、全知全能の神を信じていない人のことを信じているようですね。
それが一番不思議なことです。
神の奇跡はなかったわけではなく、貧乏クジが当たったことと漂流中の救助にある。
神が全知全能であることを理解することと、聖書を文字通り解釈すると言うこととは意味合いが違うでしょう。第一、この教会は聖書は完全ではないといっているのだから。
神にとって、鯨あるいは大きな生き物の中に人を生かすことなど簡単なことだと思いますよ。
神が出来ないことは、人の心を完全に変えてしまうことです。頑なな頭の固い人の心を。
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