[悲嘆の涙]
これは人類が古来ずっと直面してきた難問である。旧約聖書の知恵文学の一つヨブ記は正にこの問題を扱っており、科学技術が進歩した現代においても同じ深刻な問いがしばしば人々を当惑させ、茫然自失させている。ここでは1978年に著されたベストセラーと一人の実業家マリリン・タム(香港出身)の言葉を紹介したい。
1977年に17歳の息子を早老症(遺伝病)で失ったユダヤ教のラビ、ハロルド・クシュナーは、翌年「善良な人々に災厄が起こる時」(When Bad Things Happen to Good People)という本を出版して長期ベストセラーとなった。私はそれを見て、この問題がいかに人々を捕えて離さないのかを改めて知った。善の権化のような存在であり、愛に満ちた神がこの世を治めていてなぜ苦難や悲惨な出来事が生じるのか、言い換えると「悪」の問題が消えないのかという疑問である。
マリリン・タムはまだ幼い少女であった時、父は1985年JAL123便が日本の山中に墜落して500名以上の乗客と共に犠牲になった。タムはやりどころのない気持ち、挫折感、怒り、絶望などにさいなまれ、現実を受け入れることができなかった。彼女や遺族が漸く落ち着いて、事態を新しい視点から見られるようになるまでにはかなり時間がかかった。正当な怒りであっても、またひどい目(被害)に遭ったという思いであっても、その枷から解かれると、今何ができるだろうか、こんな境遇にあってどこに光明を見出せるのだろうか、と考え始める。そして、マリリン・タムはクシュナーを引用する。
「われわれにできることは、『どうしてこんなことが起こってしまったのか』という思いを越えて、『起こってしまった以上、今何ができるか』と考え始めることである。」(ハロルド・クシュナー)
その後、国際実業界で影響力のある人物として活躍するようになったタムは、振り返って見ると危機に直面してもあわてることなくじっくり対処できるようになった。その時点で何ができるかを考え、前より良い状態で進めるように自問するようになった。閉じ込もるのではなく、痛みを包み込める寛い心を持てるように努めてきたと述懐する。
なぜよい人にひどいことが起こるのか私たちには分からない。(ヨブ記の解釈も同じである。NJ)しかし、耐えるためにできる限りのことをすればよい。また、暗雲の向こうに日が射していることを忘れてはならない、とマリリン・タムは述べる。
http://www.huffingtonpost.com/marilyn-tam/coping-with-tragedy_b_3149465.html
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つまり、その前提が間違っているので、結果が矛盾するのです。
ヨブ記でも語られているように、神とは人知では理解しえないものです。
それを人間の物差しで測っているから、「不条理」と思えるのです。人間にとっての不条理は、神にとっても不条理なのでしょうか?そんな事は人間にはわからない。
ヨブもそれを認めて、嘆くのをやめました。
人が生きていく中で、多くの災難が有りますが、それを、善悪の因果応報と捉えることによって、心が休まるのなら、それはそれでよいでしょう。
しかし、善悪の因果応報では説明できないことが有ります。
ヨブのように、まったく罪がなかったのに、災難を受けてしまう事は、人間誰にでも起こります。
もし、それを、ヨブの友人たちのように、宗教者が善悪とだけに結び付けて、人を断罪するなら、その宗教者こそが神に裁かれるのです。ヨブの3人の友人が主に裁かれたように。
私は、神は善悪によって人に禍福を施すとは思えません。
そのように思うのは、人間の罪悪感からでは無いでしょうか?
異議ありません。
それは、
2005年10月総大会神権部会でのゴードン・B・ヒンクレー大管長の話です。
可能でしたら、一度お読みください。
私が、2004年新潟県中越地震でボランティアをしてた時に、ある女性が涙ながら私に、「何で新潟は災害ばかり続くの。何も悪いことしていないのに」そう言いました。少し前には、豪雨被害がこの地域にありました。
私はその女性に「決して天罰ではありません」と言いました。もう少しお話をしましたが。
ヒンクレー大管長も同じように、神の罰とは仰っていませんでした。
私は、神が生きて、人が生きているように、地球も生きていると考えています。
だから、昔から災害はあるのだと思うのです。
教義と聖約88章にも書かれているように、末日には、災害が起こると言われています。
このヒンクレー大管長が話された数年後に、東日本大震災が発生いたしました。
今年の8月は、全国で豪雨被害が発生して災害が起こりました。
広島市の土砂災害で教会員が被災されたかはわかりませんが、安佐南区には教会があるそうです。
豚さんが仰るように因果応報だけでは言えない部分があります。
教会員にはもっとPFA(心理的応急措置)の研修を受けて、善良な市民である教会員らが、被災者サポートをできることが必要ではないでしょうか。
しかし生ける神の教会の指導者たちは霊感を受けてこんなことをいうのです。
「皆さんはスノー大管長の話をご存知ですかぁ~?昔ユタで大干ばつがあったとき、スノー大管長は霊感を受けて、のは教会員が大事な戒めを守っていないからだと
勧告したんですねぇ~。それは什分の一です。そして教会員がちゃんと什分の一を収めるようになると雨が降り出したんですね~」
で、こういう霊的なお話を聞いて教会員はアーメンと言うのです。
さて自然現象と信仰は関係ないと考えておられる方々、ではユタの干ばつと什分の一は関係あるのでしょうか?
もし末日聖徒イエス・キリスト教会が真実の教会でないならスノー大管長の話はデタラメで嘘っぱちなのですが、果たしてそうでしょうか?
実際に信仰が弱まると災害が起こり、信仰を示すと祝福の雨が降りましたね。
私は末日聖徒イエス・キリスト教会が生ける神の唯一まことの教会であると証します(笑)
この年になれば、そりゃ善悪関係なく事故や災害にあうわなと達観しているのですが実際近親者が悲惨な目に遭うと来世への確信があっても神への疑問もわいてくるのが人間なのでしょうね。
興味深い紹介ありがとうございました。
When Bad Things Happen to Good Peopleって邦訳はないのでしょうか?
何にせよ災害には科学的理由がつくものですが、ユタの大干ばつ(一応エルニーニョで説明がつく)のときは、神の手によってなされた災害であり、その目的は什分の一の律法の威力を、思い起こさせるためのものであり、以降教会は安定して財政難という宗教組織特有の問題点をクリアーすることができたと解釈します。
一方東日本大震災や今回の豪雨については、神の手によるものではない災害だったと解釈しています。
豪雨については温暖化の影響とも言われ、そうならば人の手による災害になるのでしょうし、東日本大震災は地球の摂理による災害と言えるでしょう。
日本では1985年にダイヤモンド社より翻訳(『ふたたび勇気をいだいて』)が刊行され,同書を改題した岩波同時代ライブラリー版(『なぜ私だけが苦しむのか』)を元に,今回改めて岩波現代文庫に収録されました.
」
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6031640/top.html
気象改変兵器、人工地震の可能性も考慮に入れてみては?!
旧約聖書にも、什分の一を収めたことによる祝福について数か所に書かれています。
しかし、新約聖書の中でイエスは神の宮居で捧げものを売っている商人を排除されました。
旧約の神はイスラエルの守護神と言う表現が随所に見られます。神と民族との契約関係が旧約聖書の基本になっていると思います。
その中で、ヨブ記は異質の存在だと考えます。
ヨブ記は、神の存在価値を「ご利益」と考えるのではなく「神の存在そのものに意味が有る」との哲学的解釈に立った作品だと思います。
私が、驚くのは、ヨブ記の書かれた時代にすでにそのような考えが存在したことです。
ヨブ記は、信仰と災難の因果関係を否定しつつも、神の存在と救済を肯定しています。
宮本武蔵も、「神は拝するもの、頼るものではない」と言ったとか?
私は、スノー大管長の時に起きた什分の一と降雨の出来事は単なる偶然だとしか思えません。
しかし、それを神の意志だと信じることを愚かだとも思いません。人は、時にそのような思いによって心が救われるものです。
私は、前に書いた様に、「神は人間の禍福に関与しない」との考えですが、それでも、神の存在は私に生きる希望起こさせ、心の折れそうなときに支えとなっています。
紹介ありがとうございます。
探して読んでみます。
豚さん、コメントをありがとうございます。学ばせていただいています。
こうした疑問にこの世の学問や人の知恵に頼るとき、人間は堕落し背教へと向かいます。
皆さんに教会の公式機関紙「聖徒の道」1982年1月号の記事「オパポ:その信仰の力」からの抜粋を紹介します。
(教会の公式サイトではバックナンバーが読めます)
※オパポとは1859年サモア生まれの改宗者で、サモア人の中で主のみ業に大きく貢献し晩年は神殿宣教師として働きました。
『数週間後,あらゆる道を歩き尽くした後,宣教師たちは立ち去る準備をしました。
オパポとエリサラは,儀礼的に直接ツイマヌアとその民に語りかけ,悔い改めをしなければ彼らは神の怒りと力を感じるに違いないと警告しました。
そして最後に,長いボートに乗りこむ前,オパポは村のはずれ立ち止まり,その島に対する証として足のちりを払い落としました。
数週間後,強烈なハリケーンが島を襲い,大勢の人々が死んだ上に畑の作物が全滅し,一軒の家を除いてすべての家が崩壊しました。
その一軒の家というのは,宣教師たちを助けたあの年輩の婦人の住んでいる家でした。』
『ある時,彼と親友のピネムア・ソリアイがパゴパゴに向かって歩いている途中,バスが通りかかったので止まってもらおうと手を振りました。
バスが止まったので近づいて行くと,運転手は彼らがモルモンの宣教師であることを知るやいなや,急にアクセルを踏み,ふたりを砂ぼこりの中に残して行ってしまいました。
ソリアイ兄弟は沈んだ様子でオパポに言いました。「これじゃ,町に着くまでにずい分長くかかりそうだね。」するとオパポは悲しげに答えました。
「いいや,あの人よりも早く着くさ。」そこから1.5キロほど行った所で,ふたりは事故現場に出くわしました。
さっきのバスがトラックと正面衝突して,バスの運転手が亡くなっていました。』
神と人と災害、災厄の関係が良くわかる話ですね。
主は生きておられます。ジョセフ・スミスは主のみ業を回復した預言者です。
末日聖徒イエス・キリスト教会は唯一まことの教会であることを証します(笑)
エリシャは子供たちを呪って、子供たちは熊に食われてしまいました。
民数記の31章にはもっとひどい話が書いてあります。
主がモーセにミデアンびとを攻め滅ぼせと命じています。さらに、女性と子供を捕虜にしたモーセに対して、子供も女性も殺す様に命じています。
さて、こんな内容が書いている書物を聖典として崇めているキリスト教とはどんな宗教なのでしょうか?
キリスト教徒と自称する世界の何億人の人は、どんな人たちなのでしょうか?
古来人間は、他の国を亡ぼしてでも、自国を守り豊かにしてくれる神の存在を願い、現代でも、自国の経済的利益のためには戦争をも辞さない国家指導者を求める。
人間って厄介なものですね。
“いのち”を生かすはずの宗教が、なぜ殺戮と抑圧を生むのか。イスラエル民族神話の成立からキリスト神話の成立へ。連続と断絶、継承と相剋の壮大なドラマのうちに、救済を語る宗教にはらまれた、転倒のメカニズムを探る
と紹介されています。私たちの問いに答えてくれるところ大であると思います。