LDS教会は現在日曜学校(成人クラス)でモルモン書の最後の方「エテル書」を読んでいる。モルモン書を文芸批評的に分析したマーク・D・トマスによれば、ヤレドの民が約束の地へ導かれる話は一つの原因譚(たん、譚=物語, 英語ではetiological narrative)的性格を持っていると言う。あるいは、疑問に答えようとして創られた話と言った方が分かりやすい。また、トマスは言及していないが、優れて「間テクスト性」(intertextuality) に富んだ部分である。
モルモン書のずっと後ろにあるエテル書は、教会で時々断片的に引用される以外丁寧に学ぶ機会はあまりない。気密構造の貝のような舟で大洋を移動した話や、移動中の明かりのため石を光らせるよう神に祈った、など奇跡的な出来事が記載されている。時代がバベルの塔に遡る遠く古い話であることもあって、馴染みが薄く、物語の内容もどう読んだものかとこれまで思案する私であった。
マーク・D・トマスは、聖書に「人の子らがバベルで言葉を乱され全地のおもてに散らされた」(創世11:8)とあり、それが「全地に」であればアメリカにも来たのであろうか、と疑問に思う人が(米に)いるかもしれない、それに答えたのが、ヤレドの民の移民の物語であると見る。ヤレドの民はバベルの塔のある地から言語を乱されることなく、選り抜きの地(アメリカ)に導かれたと伝えられているからである。人がエデンの園で禁断の実を食べたことが労働の苦役の原因譚であり、バベルの塔の話が世界に様々な言語があって相互に通じないことの原因譚であるのと同種の物語である。
次いでトマスは、ヤレドの移民の話が創世記6-11章の面影(echo)を色濃く残していることを指摘している。ノアの箱舟の場合、ノアの長い系図が先行しているのと同様、ヤレドの場合も系図が長々と紹介され、聖書と同様力ある狩人ニムロドの名が登場し、ノアの箱舟の話に似て舟に家畜の群れを雄も雌も連れて乗り込むのであった。そして、創世6:3に「わたしの霊はながく人の中にとどまらない」とあるのを、エテル2:15は「わたしの御霊はいつでも人を励ますわけではない」と敷衍して、人が罪を犯すなら聖霊はその人から去ると再解釈する。ヤレドとヤレドの兄弟の一行が約束の地に移民して、そこに一つの民が増え広がるのは、ノアやリーハイ、ニ―ファイの場合に似ている。
エテル書は、従前のテキスト(創世記のノアの物語、モルモン書のリーハイ、ニ―ファイの移民の記事)と並行する新しい物語を生成したもので、読者は従前の元の本文を意識しながら読んで意味やメッセージを汲み取ろうとする。また、関連する引用や並行記事が多数存在することは、優れて「間テクスト性」(Intertextuality) の要素に富んだ文書であることを示している。
参考
Mark D. Thomas, “Reclaiming Book of Mormon Narratives: Digging in Cumorah.” Signature Books 1999, Chapter 3.
本ブログ 2011/12/16 書籍紹介:マーク・D・トマス「クモラを発掘 -- モルモン書の物語(narratives)分析」
関根正雄「創世記」岩波書店 1956 (原因譚の例 pp. 151, 152, 160)
「間テクスト性」については、
本ブログ 2008/07/12 聖書における引用とモルモン書の場合
モルモン書のずっと後ろにあるエテル書は、教会で時々断片的に引用される以外丁寧に学ぶ機会はあまりない。気密構造の貝のような舟で大洋を移動した話や、移動中の明かりのため石を光らせるよう神に祈った、など奇跡的な出来事が記載されている。時代がバベルの塔に遡る遠く古い話であることもあって、馴染みが薄く、物語の内容もどう読んだものかとこれまで思案する私であった。
マーク・D・トマスは、聖書に「人の子らがバベルで言葉を乱され全地のおもてに散らされた」(創世11:8)とあり、それが「全地に」であればアメリカにも来たのであろうか、と疑問に思う人が(米に)いるかもしれない、それに答えたのが、ヤレドの民の移民の物語であると見る。ヤレドの民はバベルの塔のある地から言語を乱されることなく、選り抜きの地(アメリカ)に導かれたと伝えられているからである。人がエデンの園で禁断の実を食べたことが労働の苦役の原因譚であり、バベルの塔の話が世界に様々な言語があって相互に通じないことの原因譚であるのと同種の物語である。
次いでトマスは、ヤレドの移民の話が創世記6-11章の面影(echo)を色濃く残していることを指摘している。ノアの箱舟の場合、ノアの長い系図が先行しているのと同様、ヤレドの場合も系図が長々と紹介され、聖書と同様力ある狩人ニムロドの名が登場し、ノアの箱舟の話に似て舟に家畜の群れを雄も雌も連れて乗り込むのであった。そして、創世6:3に「わたしの霊はながく人の中にとどまらない」とあるのを、エテル2:15は「わたしの御霊はいつでも人を励ますわけではない」と敷衍して、人が罪を犯すなら聖霊はその人から去ると再解釈する。ヤレドとヤレドの兄弟の一行が約束の地に移民して、そこに一つの民が増え広がるのは、ノアやリーハイ、ニ―ファイの場合に似ている。
エテル書は、従前のテキスト(創世記のノアの物語、モルモン書のリーハイ、ニ―ファイの移民の記事)と並行する新しい物語を生成したもので、読者は従前の元の本文を意識しながら読んで意味やメッセージを汲み取ろうとする。また、関連する引用や並行記事が多数存在することは、優れて「間テクスト性」(Intertextuality) の要素に富んだ文書であることを示している。
参考
Mark D. Thomas, “Reclaiming Book of Mormon Narratives: Digging in Cumorah.” Signature Books 1999, Chapter 3.
本ブログ 2011/12/16 書籍紹介:マーク・D・トマス「クモラを発掘 -- モルモン書の物語(narratives)分析」
関根正雄「創世記」岩波書店 1956 (原因譚の例 pp. 151, 152, 160)
「間テクスト性」については、
本ブログ 2008/07/12 聖書における引用とモルモン書の場合
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます