[天秤。善悪の判定、正義を象徴する]
パウロの思想的特徴の中で著しいものは、人は「律法の行ないによるのでなく、キリストを信じる信仰*によって義とされる」(ガラテヤ2:15~)という信仰義認論である。彼は繰り返しこれを主張し、徹底しているように見える。上村によれば、これは信仰による義を基準に「義人」とそうでない「罪人」を区分する二元論的になり、また「男娼、偶像崇拝者、・・軟弱な者、貪欲な者、酔っ払い、・・」(Iコリント6:9-10、)など悪徳表と呼ばれる状態の人は、社会通念上の倫理からはずれた罪人とされ、教会から除外されることになる。
このようにして、パウロの理想とする教会は外に対して排他的なセクト主義になり、内に対して異質な者を排除していくエリート主義になっていった。克服したはずの律法主義が倫理的完全主義に転じて、信徒を縛り始める。本来、キリストの死(贖罪)は不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったのか、と上村は問う(p. 256)。
彼はさらに、パウロの倫理的完全主義は今日もプロテスタント教会に受け継がれていて、問題を引き起こしているとみる。同性愛者、性同一性障害者に対する差別などの露骨な差別だけでなく、信者になっても絶えず「罪意識」におびえて生きていくという不幸な状態を生み出していると言う(p. 257)。鋭い洞察である。
註
*「キリストを信じる信仰」はギリシャ語でἐκ πίστεως Χριστοῦ (faith of Christ)であり、「キリストの信」言いかえると「キリストの信実=忠実、誠実」によって人は義とされる、敷衍すれば「キリストが顕している信、すなわち誠実さ、によって私たちは義とされる」(佐藤研p.223)ととる研究者がいる(田川建三、太田修司、上村静、佐藤研ら)。これは、信義論よりも行ないが欠かせないとする末日聖徒にとって注目したい解釈であるが、ギリシャ語の属格(所有格に相当。Χριστοῦ は属格 )に目的的属格 objective genitiveというのがあって「キリストを」と訳せる。大多数の聖書の翻訳がそれによって、「キリストを信じる信仰」(faith in Christ) と訳していることも承知しなければならない。シドニー・B・スペリーは教義と聖約20:30「イエス・キリストの恵みによる義認は正しい」を引いて、信仰義認に理解を示している。
参考
上村静「宗教の倒錯:ユダヤ教、イエス・キリスト教」岩波書店、2008年、「信による義」p. 242-
佐藤研「旅のパウロ、その経験と運命」岩波書店、2012年、p. 221-
Sidney B. Sperry, “Paul’s Life and Letters” Bookcraft, 1979, p. 173
| Trackback ( 0 )
|
いやいや、やっぱり、オルニチンでしょう!
そうじゃない、ペプチドが重要なんだ!
コエンザイムQ10、とDHCだ!!!
宗教者の言ってることは、こんな話でしかない。
うちの律法はそちらの律法より良いのだ!
私達の教義は、他のどの教義にも勝る!
マタイは、パリサイ派の主張を誇張して、ついには非人間的な教義を構築しようとした。
「行動だけじゃない、心で思っただけで罪になる」と。
心に思っただけで罪になるって言われると、何も思えなくなる。
そんなこと言ってたら、誰も入ってこないので商売にならない。
そこで、パウロが、「いや、信じるだけでよいのだ」とハードルを下げる。
しかし、ハードルが下がりすぎると、有り難味が無い。
知恵の言葉、什分の一、安息日、神殿の儀式、と言った、一見難しそうで、実は「他人を愛しなさい」とか言ったものより超えやすいハードルを用意して、会員の選民意識をくすぐる。
酒やたばこを避けて、献金を納め、日曜日に教会に行って、たまに神殿の儀式を受ける。
それで、自分は立派なクリスチャンだと安心できる。
本当に天国に行く方法なんて誰にも分らない。
よく考えたら、そもそもそんなことなって、本来考えていなかったはずだ。
たいていの宗教者は「神は実在する」と言う。
しかし、神に会わせてはくれない。
それどころか、「私は神に会った」等と言うと、悪人か狂人扱いされる。
そしてまた、効くのかどうかよくわからない、サプリの試供品を注文する。
不老長寿の薬なんて何処にも無いって知ってるのにね。
改めて読んんでみると末日聖徒の問題点、キリスト教の問題点に大切な視点を提供してくれていますね。
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/50d9d8ef0f10d592929ab725fc3c9b02
信仰者の陥りがちな姿ーー
----
(故植田真理子さん。性同一性障害だったのでしょうか、元男性)
植田真理子が「よい牧師は敬虔な信徒のつまずきになる言葉を言わずに、実は批判精神たっぷりな説教をする」と書いているのに通じると見た。
---
NJさん
lds関連の神の顕現や聖典の産出など超自然的な事柄の多くについて否定的な立場に立つことになる。しかし留まる道を選ぶなら、モルモニズムに見出せる普遍性や現代社会に活かせる特長的な要素を再確認して、共同体の仲間や教会外の人々に語りかける役割を担うことになるのではないか。
なぜそれができない?
やっすいプライドが邪魔してるんてろうね
ミスを認めることができない、それをやったら負けだと思ってるのか
だからみっともなく言い訳に言い訳を重ねていくのでしょう、あるいは話をすり替え、話題を反らし、余計な茶々を入れるなとキレてみせる
この人はそうやってこれまでの人生を送ってきたのかと思う、どこかの社長らしいが私なら取引したくない相手だな
そんな人が義認がー、義認がー、と言ってるの姿が何とも可笑しい
上から目線でカッコつける前に、自分の発言を説明しなさい
ルターは何をどう勘違いしたの?
放置されるだけだから安心して意見を言いたまえ。
その上、推敲した発言を、あ、それ、私の言いたいこともそのとおりです、なんて調子良くパクられてもかなわん
そう言う実績のある人物の前ではね
私への茶々の感想書いてどうするw
ルターの信仰義認の問題点を紹介した記事の感想を書かんかー。
この〇〇〇を何か適当な言葉に置き換えれば、誰でも何についてでも、筋が通ったまっとうな発言に見える、いわゆるテンプレ発言
無難に形が整っているようで、実は中身がない
私の言いたいことは、以下の3点
1.モルモン教義は信仰義認ではない
2.救いは信仰によってのみ、と言う考え方を二元論とは言わない
3.オムナイ氏は、ルターが何をどう勘違いしたのか永遠に説明できない
>この考え方は『信仰義認』ではない
-----
パウロ(実際はルターだが)の理想とする教会は外に対して排他的なセクト主義になり、内に対して異質な者を排除していくエリート主義になっていった。克服したはずの律法主義が倫理的完全主義に転じて、信徒を縛り始める。本来、キリストの死(贖罪)は不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったのか、と上村は問う(p. 256)。
-----
そうその通り。その理解はモルモンの義認論でも正しくない。
多くの末日聖徒が義認をあなたのように捉えているのでプロテスタントのような問題が起きるのかも。
おそらくプロテスタントの信徒もルターではなく真のパウロの言葉を理解しこれまでしてきたように成長させれば問題の解決に近ずくのでしょう。
末日聖徒も「完全な自由の律法」を真の意味で理解し正しい義認を実行すべきでしょう。
モルモン予言者の思い付きを真実だー、真実だーと言ってるのを捨てて、末日聖徒が伝統的キリスト教に帰依すると言うのなら話はわかるけど?
モルモンの救いの概念を端的に纏めると以下のようになる
●悪人、悪事を好んだ者→星の栄
●善良だが戒めに完全に忠実でない→月の栄
●儀式を受け、最後まで戒めに忠実→日の栄
この考え方は『信仰義認』ではない
全然違う^^;
相変わらず引用元読まないのね。
信仰義認なんだから「信仰」が最優先。
2ニーファイ2:5にもあるように
モーセの律法であれより完全な福音の律法であれ、義とされることはない。
つまり、律法の行いでは義とされない部分は聖書とルターの説でも共有できる部分があるでしょうということ。
モルモンと共感できるカトリックの義認が信仰のみの義認と和解できたのであればモルモンのそれとも歩み寄れるでしょうね。
それはルターが批判していたそのものである
あなたがこれまでに方々で吹聴してきたデタラメを列挙すると
●モルモンの神会(神と御子と聖霊)
→これがモルモン流の三位一体である
●日、月、星と裁かれ滅びの子もいる
→これがモルモン流の万人救済である
●信仰と行いによって救われる
→これがモルモン流の信仰義認である
ネコに「犬」と名前をつけて犬を飼ってると言うようなものでしょ、あるいはレクサスやベンツのエンブレム付けてる軽自動車と同じだ
これだけでもすでに噴飯ものだが、こういう稚拙な屁理屈に反論せずにいてくれたら「格上げしてあげようと思った」と身の程知らず発言で笑いすぎて腹筋が痛い
本人は薩摩隼人のクールな理論を述べてるつもりのようだが、どう見てもダ埼玉のおやじギャグですから
NJシンパってこの程度のレベルなの?
仰るとおりだと思います。
信仰個条には以下のようにあります。
「わたしたちは,キリストの贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。」
ここが本来のモルモン流キリストへの信仰義認(のみではない)が目隠しされてしまっているのかもしれません。つまりルターが批判した律法主義に見えてしまうのも仕方ありません。
一方カトリックとルターの信仰義認にも近年歩み寄りがありました。
https://office.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/katholikos/katho13/katho13.pdf
論争の核心は、 信者は神の恵みへの信仰のみによって義とされる(救われる)のか、あるいは救いには善行が伴 わなければならないのか、ということであった。ルターは、信者は神の恵みの働きへの信頼のみ によって義とされ(救われ)、その後精神や道徳を向上させる必要があるが、それは2次的なも のであり、義認・救いには何の貢献もしない、と主張した。
今回のカトリック教会とルーテル世 界連盟の共同宣言では、義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだと確認して いる。
------
しかし、よくよく末日聖徒の書籍を読み解くと
https://www.lds.org/scriptures/gs/justification-justify?lang=jpn&letter=き
キリストへの信仰によって義とされ、それが最優先であるとされています。
悔い改め、律法と儀式への従順は2次的なもの読めます。
インステの新約聖書の教材(ローマ書の項目)には
https://si.lds.org/bc/seminary/content/library/manuals/institute-student/new-testament-student-manual_jpn.pdf
第39章 「人が義とされるのは,信仰による」となっています。
ジョセフ・スミスが当初から先進の義認の教義を教えていたのですから驚きです。
ただ特に日本の聖徒がモーセの律法的に福音を理解し、いい大人になって「正しい意見をもっているにもかかわらず」指導者の言葉を細則のように受け止めている姿勢はもったいない気がします。
思い付きで語って、突っ込まれたら誤魔化して逃げる、10年以上もブレないキャラは健在でした(成長してない?)
ご辞退いたしますよ。
このスレッドの本題への貴方の意見も興味無くなりましたぁ。
せっかく茶々キャラからレベルアップさせてあげようとしてるのに。
自分の発言に責任持つか、話題を変えてはぐらかすのか
ルターは信仰によってのみ救われると説いたが、それを二元論とは言わない
二元論とは例えば、この世には善と悪の対極する存在があり、人は常に悪に誘惑されるか神のみたまに善を行うように勧められていると言ったモルモンでお馴染みの概念のこと
あなたがルターの本を何回読もうとも、モルモン正当化のネタに使えそうなセンテンスを拾い読みしてるだけだから読んだことにならない
ルターのそれはまさしく二元論。
救いに必要なのは信仰のみであって律法も行いも微塵も入り込む余地は無いとしてます。
貴方の解釈は後年プロテスタント諸派が育ててきた思想のひとつでありますけどね。
むしろモルモンの義認近いですね。
はい。ではスレッドの本文二元論的信仰義認について意見を伺いましょう。
そりゃそうだ、あなたのは枕詞じゃなくて、知ったかぶりで適当なこと吹かしただけ
ジョン・ドゥ批判ですよ。
スレッドの本文をろくに読まず他人のコメントに場当たり的にチャチャを入れるから訳がわからない投稿になるんでしょうね。
>ルターが何をどう勘違いしたって?
ルター云々は言いたいことの枕詞だ。
パウロは特別な事を発信したのではなく他の使徒と同じことを、また福音書やヤコブ書とも矛盾していない言ってるんですよ。
後半の
>これは、信義論よりも行ないが欠かせないとする末日聖徒にとって注目したい解釈であるが
>シドニー・B・スペリーは教義と聖約20:30「イエス・キリストの恵みによる義認は正しい」を引いて、信仰義認に理解を示している。
このあたりもよく読んで考察していただければ幸いです。
一応参考となるモルモンの義認解釈も貼ってあげますね。
https://www.lds.org/scriptures/gs/justification-justify?lang=jpn&letter=き
人は救い主を信じる信仰を通して,救い主の恵みにより義とされる。
この信仰は,悔い改めと,福音の律法と儀式に対する従順とによって示される。
ーーーーー
ジョン・ドゥさんのさー
>そして逆に、行いによって救われるわけではないのに善行をなすことは、善行の価値をさらに増し加えるんだとさ
モルモンの義認とどうちがうのかお聞きしたいですねぇ。
そこらへんキチンと説明してみ
>そんな浅い理解で、信仰義認では罪悪感に苛まされてしまうとか、語り合ってるのは笑い話のレベル
上村静ってモルモンだったのw?
そんな浅い理解で、信仰義認では罪悪感に苛まされてしまうとか、語り合ってるのは笑い話のレベル
はぁ。元ネタ読んでるんですかー?
>克服したはずの律法主義が倫理的完全主義に転じて、信徒を縛り始める。
信者になっても絶えず「罪意識」におびえて生きていくという不幸な状態を生み出していると言う
キリスト教徒に笑われまっせ
あなたが信仰義認を理解できてないだけでしょ
まぁ別に理解できなくてもいいとは思うけど
何回読んだとか言っても字面を追ってるだけなら、本当に「読んでない」のでは?
そんな態度で研究だ研鑽だと言いながら、キリスト教会はモルモンを異端視して排斥してる、けしからんってお怒りのご老体もいらっしるようですがまずご自分たちの姿を眺めてみられてはどうでしょう
ルターが信仰義認を主張するのは、行いによって救われるのなら偽善が蔓延ることになるからだってさ
そして逆に、行いによって救われるわけではないのに善行をなすことは、善行の価値をさらに増し加えるんだとさ
分かる? 私は偽善が蔓延る宗教団体に居たことがあるので、これが良く分かるんだなぁ
「キリスト者の自由」薄いので夢中になって読みましたよ。
たぶん10回ではきかないかも。
>内村鑑三はルターからさらに進んで
だからこそなんだけどね。
>信仰義認とは律法や戒めなどどうでもいいと言うものではない、それこそ甚だしい勘違いだ
「信仰義認」といってもプロテスタントでも解釈は様々なんですが、ルターがヤコブの書を藁の書と呼んで無視ししようとしたことからも、かなり「信仰のみ」にこだわったことは確かでしょう。
>末日聖徒はコーヒーを我慢した人生と引き換えに、キリストに永遠の生命を要求する権利が手に入ると思っている
甚だしい誤解ですねw
しかしジョン・ドゥ様の意見を拝聴できたことには感謝いたします。
内村鑑三はルターからさらに進んで無教会主義だけど、鑑三の言葉を嬉しそうに引用してる某末日聖徒の本心や如何に?
信仰義認とは律法や戒めなどどうでもいいと言うものではない、それこそ甚だしい勘違いだ
結局、末日聖徒はコーヒーを我慢した人生と引き換えに、キリストに永遠の生命を要求する権利が手に入ると思っている
キリストが一般人を差し置いて末日聖徒には日の栄というファーストクラスで快適な死後の世界を与えてくれると思っているから、什分の一をせっせと納めるのだ
なんと恥ずかしい信仰だろう
カトリックやモルモンが解するパウロの書簡評のほうが納得いきます。
パウロが徹底して述べているのはモーセの律法からキリストの律法への転換であったのでしょう。
モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても
信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである」
(使徒行伝13章39)
これを「律法も行ない関係ない。キリストを信じる信仰のみが人を救いに導く」とルターが誤信してしまった。
パウロは特別な事を発信したのではなく、他の使徒との共通認識のもの
「既に役割を終えたモーセの律法ではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」と教えたのでしょう。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。