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「バプテスマの水から出て」(IN20:1)をめぐって

2015-08-28 15:38:27 | モルモン教関連
[イザヤ48:17 にちなんだ画像。救いの約束を描いている。]

「バプテスマの水から・・」はモルモン書がイザヤ書48:1を引用した箇所で、「ユダの水から」という表現にすぐ続いて挿入されている言葉である。新共同訳に添えて書くとこのようになる。

「ヤコブの家よ、これを聞け。
 ユダの水に源を発し(すなわちバプテスマの水から出て
 イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。
 まこともなく、恵みの業(わざ)をすることもないのに
 主の名をもって誓い
 イスラエルの神の名を唱える者よ。」

頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים [マイーム]の複数構成形。「・・の水」)、二次的に「精液」を意味している。それで口語訳「ユダの腰から出」など婉曲的な表現であっても「・・の血を引く」という意味で訳されている。文脈からもその解釈に違和感は生じない。

それがモルモン書に引用されて、「バプテスマの水から出て」と添えられている。これはイザヤ書原文になく、ジョセフ・スミスの霊感にもとづく創造ないし想像的補足と考えられる。事実、モルモン書の最初の原稿にも、1830年版、1837年版にもなく、1840年版になって( )付で初めて現れる。モルモン書「第三版。翻訳者によって注意深く改訂された」と扉の頁にあり、ノーブーで出版されている。

ヒュー・ニブレーが言うように、記録の継承者 / 翻訳者は編集(解説、補足を含む)の役割も担っていて、この挿入もその例であると考えることができる。

また、今日受け入れられている、テキスト理解の解釈から言えば、読者は自分が経てきた経験や読書など知的な蓄積に照らして、目前のテキストの意味を自分なりに創造しているわけで、イスラエルの名で呼ばれる者は水のバプテスマを受けているという推理を予測することができる。(ただし、この場合、新約に始まるバプテスマの概念を古代イスラエルに遡及させるのは時代錯誤であるなど様々な批判を覚悟しなければならない)。

参考:

Benjamin Davies and Edward C. Mitchell, “Student’s Hebrew Lexicon” Kregel Publications, 1957

FARMS, “Book of Mormon Critical Text: A Tool for Scholarly Reference I” 1984

Avraham Gileadi, “The Literary Message of Isaiah” Hebraeus Press, 1994

Daniel H. Ludlow, “A Companion to Your Study of the Book of Mormon” BYU Press, 1966, 1971

沼野治郎「モルモン経に引用されたイザヤ書と編集者の役割:ヒュー・ニブレー、「クモラ以後」(1967年)5章の抄訳を中心に」モルモンフォーラム3号(1989年夏季)p. 17



当ブログ 2008/05/06 「聖書のテキストの意味とは?」

関根正雄「イザヤ書」下、岩波文庫、1965年



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14 コメント

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モルモン書にも加筆? (オムナイ)
2015-08-29 13:39:13
セミナリーの聖徒用教材にな以下のようにありました。
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1ニーファイ20:1-『ユダの水」とは何か

ブルース・R・マッコンキー長老はこのように書いています。

「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。

末日聖徒にとって非常に興味深いことは、真鍮の版に記されたイザヤの言葉に「すなわちバプテスマの水から」(1ニーファイ20:1)
という語句が加えられて、バプテスマに関する旧約聖書の文章の純粋さが守られたことです。」(モルモンの教義第2版 〔1966年〕,832)

これは聖書から「分かりやすくて貴い」真理が取り去られたことを表す良い例です(1ニーフアイ13:29)。
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元々の本文にはないのに訳者が解釈を挿入することは聖書では加筆として批判されていますが、モルモン書にも同様にことがあるんですね。


翻訳当時になかったのなら、そのままにしておけば良いのに。。

霊感訳聖書ではアダムがバプテスマを受けいるのでそれに影響されたのでしょうか。
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Unknown (教会員R)
2015-08-29 22:23:53
本当にヘブル語の「水」の複数形の「メー」が精液の象徴的表現であったならば、それがユダの子孫を現す「ユダの腰」という翻訳になっているという解釈は良く分かる。

一方「バプテスマの水のこと」となると、水=「ノアの洪水」である死の象徴とイエスがニコデモに教えたように、霊的な意味で「母の胎から生まれる」ということであって、水=羊水の象徴ですから、全く逆の解釈になりますよね。

加筆によって、かつて良くわかっていたものが余計分からなくなっているとすれば、残念な気がします。
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単純に考えると ()
2015-08-31 11:32:52
豚の脳味噌で考えると、答えは簡単!

ジョセフがイザヤ書を書き写すときに、「waist」を「water」と間違えた。

それで後に成って「こりゃいかんぞ!」って思って「すなわちバプテスマの水から出て」と付け加えて取り繕った。

単なる間違いも、堂々と描くと、「これはどんな意味なのだ??」と頭の良い人は考える。それで話はさらに複雑になる。

そもそも、イザヤの時代にバプテスマって有ったの?
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久しぶりの師匠節 (オムナイ)
2015-08-31 13:16:31
最近の豚師匠のコメントがネガティブだったので心配してました。

アベノミクスで業績順調ウハウハと推察します。

>イザヤの時代にバプテスマって有ったの?

沐浴的な水の清めの儀式はあったようですが、いわゆるモルモンの浸礼的バプテスマはなかったでしょうね。

ユダヤ人としての印は洗礼ならぬ割礼のほうにあったわけですから、精液には象徴性を感じないわけでもありませんが。

このイザヤの箇所を説明的に補足するなら特段疑問は感じないのですが、原文に「加筆」したと思われるところに違和感を感じますね。

まぁ、モロナイは人間的間違いがあっても神のものを否定してはいけないと警告されているので。。ジョセフの軽率さを予見していたのでしょうね。

一般的なクリスチャンもこのように受け止めています。

http://www.logos-ministries.org/old_b/isa47-48.html

これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。
完全に信仰をしていて、他の人と同じように偶像を拝む生活はしていません。
けれども、形だけはクリスチャンで心がそこから離れている危険があります。
いつのまにか、偶像に、自分の肉の欲望に引かれていく危険があります。
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モルモンにとって水のバプテスマは「イスラエル」になることですから解説的には的を得ていると思います。
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これって「的を射てる?」 ()
2015-08-31 13:37:41
豚にとってよく分からないのが、このスレッドの下記の部分です。


>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים [マイーム]の複数構成形。「・・の水」)、「精液」を意味している。それで口語訳「ユダの腰から出」など婉曲的な表現であっても「・・の血を引く」という意味に訳される。文脈からもその解釈に違和感は生じない。

これを読むと、原文のイザヤ書に「水」って書いてあるように誤解を受けるんですけど??
旧約聖書の、原文の「腰」に当たる部分に「水」って書いてあると言う話なら、ヘブライ語の水の語源にさかのぼるのも無意味じゃないと思いますが。

「水」って書いてあるのは、ジョセフスミスが書いた文章でしょ?だったら、その語源をヘブライ語に求めるのはまったく意味がないでしょ?


NJさん、私の読み方が間違っているのでしょうか?

>頑ななイスラエルに語りかけ、捕囚からの解放についてイザヤが宣べるところである。

と言う文章の後に、
>先ずこの「水」はヘブライ語で מֵּ֥י [メー](מים
ってくっつけると、すごく誤解すると思います。

いかにも、イザヤの預言が、「水」に関係するように思ってしまいますよね。

でも、「水」って書いたのは、ジョセフであって、イザヤは「水」って言葉をどこにも使っていないんでしょ?

ここのところ、はっきりと説明してください。
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欽定訳聖書では「水」 (オムナイ)
2015-08-31 14:18:03
なのでNJさんは口語訳ではなく新共同訳に添えて書いたんです。

「イザヤは『ヤコブの家』は『ユダの腰〔英文の欽定訳聖書では「水」となっている〕から出』たと語りました(イザヤ48:1)。
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修辞法から (黄昏のマリア)
2015-08-31 17:36:32
加筆ならば加筆なのでしょう。あえて、さらに意味づけが必要でしょうか。

あまり、いじらなくてもいいのではないでしょうか。差支えがありますか?

それでも、これは私の見方ですけど
対句法でみれば、
「ユダの水の源」と「主の名をもって誓い」が対応すると考えれば、「契約」と言うことではないですか。当時の契約は「割礼」ですから、「メー」は「精液」で構わないと思いますが。この章は、バビロン捕囚について言及されています。バプテスマでもいいのですが、両義的な預言を考慮するとなると、末日のイスラエル、すなわち末日聖徒についての警告になるのでは、などとタイプしながら考えてしまいました。(聖書で主が言及されているのは主の民に対してではないですか。モルモン書も同じ。器の内部です。といつも思っています。)

オムナイさん、沐浴的な水の清めの儀式は、「ミクド」と呼ばれるものです。たいていは、狭い風呂みたいな感じ。イスラエルに残っていますよ
また、神殿の外にある、バプテスマフォントみたいのは、単に体、だったかな、を洗うものだとか。犠牲の血の生臭い匂いは相当強烈だったらしいです。血もけっこう浴びたとか。で、さっさと洗った・・・。祭司も大変な仕事でしたね。




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なるほど ()
2015-08-31 18:06:59
>なのでNJさんは口語訳ではなく新共同訳に添えて書いたんです。

オムナイさん解説ありがとうございます。

ジョセフスミスが読んでいた、当時の旧約聖書にも英語で「水」って書いてあったのでしょうか?

それで、ジョセフは「水」の意味が解らなくて、「すなわちバプテスマの水から出て」って頓珍漢な事を書き加えたのですか?
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最近は的を射るでも的を得るでも正解。 (オムナイ)
2015-08-31 19:18:27
>それで、ジョセフは「水」の意味が解らなくて、「すなわちバプテスマの水から出て」って頓珍漢な事を書き加えたのですか?

いえ。ジョセフ・スミス当時はキングス・ジョームズ版(欽定訳)の聖書しかありませんでした。

末日聖徒ではその古臭い訳の欽定訳聖書を現代でも使い続けています。
まぁ、モルモン書の方で欽定訳聖書を多く参照しているので安易に改訂できないという諸事情があるみたいで、その辺はNJさんがこのブログで詳細に解説しています。
左下の検索窓で探してみてください。

欽定訳聖書では古い訳なので加筆の部分が残されていて、ジョセフ・スミスの時代には知られていなかった加筆部分を抜いて参照しているんです。

ですから、解説的加筆をジョセフがするとは。。。とうことです。
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Unknown (オムナイ)
2015-08-31 19:23:35
この箇所です。

https://apps.lds.org/cws/jp/index.php/2011-01-17-05-53-00/185-2011-02-09-07-47-33/909-w1984411

たとえば両方の書物に出てくる山上の垂訓ですが,欽定訳聖書には「兄弟に対して(故なく〉怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない」(欽定訳マタイ5:22)とあります。かっこの言葉は,マタイが書いたずっとあとになって加筆されたものと見られ,最初の新約聖書の原稿にはその部分がありませんし,モルモン書にもありません。
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