ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:沈黙の隔離刑務所

2024年05月21日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目
世界遺産ポートアーサー史跡


アサイラムの後は、とうとう
最後の主要な建物、セパレー
トプリズンこと隔離刑務所へ



建物の前に立つや、牢獄のイ
メージそのままの人を寄せ付
けない不気味さとほぼ窓のな
い造りに胸騒ぎを覚えるほど

「ここは監獄」と感じました。


囚人同士で語らえ、中庭でな
ら喫煙もできた4階建て刑務
所が開放的にさえ思えるほど
閉鎖された、重苦しい建物。



入口には「静粛に」の警告

この建物の中では囚人は言葉
を発することを禁じられ、看
守も手話を使っていたそう。


黙って参観することで往時の
静寂とその中で感じられる気
配を追体験しようという趣旨


目出し帽に囚人番号だけの完
全に個を抹消された異様な姿

囚人たちがここに送り込まれ
ることをなにより恐れたのが
入館前より察せられました。


中に入るとそこはまさに監獄

看守が座っていた椅子と、ず
らりと続く穴蔵のような独房


ここは懲罰房と呼ばれる最も
厳しい居房だったそうです。



反対側はかろうじて陽が入り
ますが各房は窓がないのかも



1号室

のぞき穴と食事を差し入れる
小さな扉。牢獄そのもので、


無言の扉が続いていました。



外から窓が見えた場所は教会



出入口を見張るのぞき穴



隔離刑務所の建設は1848年に
始まり、建設は鞭打ちなど体
罰から隔離や沈黙で支配する
心理的懲罰へ舵を切った象徴
となりました。一方で1,100
人に膨れ上がった囚人の多様
性に対応するため、福利厚生
の拡充
も始まった時期で、飴
と鞭が併用されていたよう。


ここを訪れた多くが足を止め
たであろう、こんな場所に似
つかわしくないおもちゃの絵



9歳のジェームスは1843年の
ロンドンで、大人にそそのか
されて玩具を3回盗んだ罪で
7年の流刑を言い渡されポー
トアーサーに送られました。


「ブツがよければ2、3ペンス
もらえた」そうで、そうでな
ければタダ働きだったのか。


ジェームスはここの独房にも
いたことがあり、刑を終えた
後どんな人生を歩んだことか


ポートアーサーだけでなく、
オーストラリアの流刑施設に
は多くの子どもも送られまし
た。その多くはジェームスの
ような窃盗の罪で、お腹を空
かせてパンやお菓子を盗んだ
り、スリをしたりといったも
のが多かったそう。しかし、
当時のイギリスは重犯には非
常に厳しく、年端も行かない
子が送り込まれてきました。


1830年代まで続いたとされ
るイギリスの産業革命で、貧
しく苦しい農村の生活から逃
れようと職を求めて人々が都
会に殺到し、ロンドンを始め
多くの場所でスラム街ができ
ました。極度の貧困から大人
も子どもも犯罪に手を染め、
社会問題になっていました。


流刑植民地制度は、若い犯罪
者を大量に送り込むことで植
民地建設とスラム街解体の両
方を狙っていたとされます。


重苦しい気持ちで外に出ると
庭園が広がっていました。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タスマニア行:アサイラム | トップ | タスマニア行:無事出所 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

オーストラリア:タスマニア」カテゴリの最新記事