小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



富士山を信仰する富士講は江戸時代後期に江戸を中心とした庶民の間に普及し、江戸八百八講と呼ばれるほどに講の数も増加し隆盛を極めた。この小田原でも富士講が盛大だったことを物語る富士講碑が小田原市飯田岡に残っている。小田原市飯田岡、県道74号飯田岡交差点から諏訪の原へ向かう途中の左手の脇道を少し入ったところに富士講碑がある。脇道の片隅に石塔が3基並んでいる。右は道祖神、真ん中は上部が欠損した富士講歌碑、左が富士講碑。高さ1.7mほどの富士講碑の正面には大きく「木華開耶姫尊」と刻まれている。木華開耶姫尊は、富士山を神霊として考え祀る浅間神社の祭神のこと。明治以降は木花咲耶姫命と記されることが多い。富士講碑正面上部には線彫りの富士山の両脇に太陽と月が配置されている。以前紹介した白髭神社の富士講碑でも見られたデザイン。木華開耶姫尊の文字の両側には「浅間神社」「天下泰平」「五穀成就」と刻まれている。年号も彫られており万延元年(1860年)の造立。江戸時代は1867年までなので江戸末期の富士講碑である。富士講には大まかに村上派と身禄派の2大勢力があったが、江戸時代後期になると村上派は衰退し身禄派が多くの講を分立させていった。その身禄派の富士講の特徴の一つが傘印と呼ばれる独特の講紋。この富士講碑も恐らく身禄派のようで○印に花の傘印が刻まれている。富士講碑正面下部には世話人や先達の名前が刻まれている。先達は富士講の指導者で信仰面をつかさどり、富士登山の先導や日ごろの祈祷の儀式を行っていた人物。碑によると数名の先達がいたようだ。この富士講碑の特徴が裏面。一見すると表面に何も刻まれていないように見えるのだが。近づいてよく見ると、村名と講員の名前が細かく刻まれている。その数は近在30ヶ村の416名。江戸時代末期にこの小田原での富士講の盛大さがうかがわれる。また富士講だけでなくその当時の村々土着の苗字を知ることが出来るのも興味深いところである。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )