小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



昭和から平成の時代の流れの中、学校や公園に設置してある遊具で姿を消したが回旋塔。全国で重篤な事故が何件か発生して撤去が進んだ。この小田原でも昭和40年代に回旋塔の事故により児童が亡くなっている。小田原市立富水小学校のグラウンドの片隅にブロンズ製の健康の像がある。この像は昭和47年11月21日に富水小学校の校庭で発生した回旋塔事故で亡くなった児童の悲劇を繰り返さないように児童の父親が寄贈したもの。高さ70センチほどの台座の上にはボールを片手にした男児のブロンズ像。亡くなった児童は当時小学校4年生で、どのような事故だったのか当時の新聞を閲覧したが不明。広報おだわらの昭和49年12月号によると倒壊事故との記載がある。健康の像の台座横には建立の経緯を刻んだ銘板が取り付けられている。ブロンズ像は小田原市内に多くの作品を残した彫刻家横田七郎氏によるもの。また題字は当時の小田原市町である中井一郎氏の筆。富水小学校の健康の像の除幕式は亡くなった児童の3周忌にあたる昭和49年11月21日に関係者が集まり執り行われた。像には事故による悲しみを繰り返さないよう児童のみなさんの安全と、心身ともに健康な子供に成長されることの願いが込められている。
※写真は2016年8月に防災訓練会場として富水小学校グラウンドが一般開放された際に撮影したもの。

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それほど考古学に興味がある方ではないが小田原市内の久野地内には古墳群があって、散策の途中に何度か立ち寄ったことがある。先日、郷土史の資料で曽我の丘陵地にも古墳があることを知ったので散策ついでに古墳を見学に出かけた。曽我谷津にある物見塚古墳は城前寺東側約300mほどの場所に所在している。入り組んだ路地の奥でかなりわかりづらい場所。小さな案内板が入口角にあるくらい。路地を進むと畑へ突き当たる。草に隠れるようにして伝曽我氏居館跡の石碑が立っている。目指す物見塚古墳は伝曽我氏居館跡に隣接しているので畑の中に設けられた遊歩道を進む。伝曽我氏居館跡の石碑前から遊歩道は東側に伸びている。周辺は畑とみかん畑と梅林が混在している長閑な風景で古墳を連想させるようなものは見当たらない。伝曽我氏居館跡の石碑前から遊歩道を30mほど進むと曽我一族郎党の供養御堂前に到着。古くからの謂れのある御堂かと思ったら、曽我兄弟仇討から800年の記念に平成6年に建立されたもの。曽我一族郎党の供養御堂裏手にまわってみると物見塚古墳があった。古墳らしさはほとんどなくて梅林と畑の隣接している場所に案内看板が立っているだけ。物見塚古墳は平成元年に発掘調査が行われて、古墳時代後期の円墳であることが明らかになっている。明治初期までは横穴は開きょになっていて、塚の上には大きな石が積み上げられていたとの記録が残っているが、明治20年代に近くの邸宅に石が運ばれ石垣として利用されてしまった。見所の乏しい物見塚古墳だったが、市内にはまだまだ訪れたことのない史跡があることを実感することが出来たので有意義な探索となった。

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1956年当時、小田原市内には27軒の銭湯が点在していたが、時代とともに減少の一途を辿り今から約20年前の1992年には5軒ほどになってしまった。1992年当時に小田原市内に残っていた銭湯は小田原商工年鑑の記載によると
1.若松湯…栄町2
2.緑 湯…栄町3
3.中島湯…中町2
4.万年湯…浜町4
5.田浦湯…扇町
だが、東町の政の湯は2000年代初頭まで営業していた記憶があるので少なくとも6軒だったようだ。以降の銭湯の移り変わりを知ることの出来る資料はないが、緑湯と万年湯が早い時期に廃業し、その後、若松湯→政の湯の順で廃業していったように記憶している。2010年代に入り小田原市内の現存する銭湯は、扇町の田浦湯と中町の中島湯だけとなった。上の写真は田浦湯の男湯で銭湯ならではの年季の入った富士山のペンキ画がなんとも味があって、たまに出かけては湯につかっていたが残念ながら2013年の春に廃業してしまった。昭和3年から続く歴史ある銭湯だっただけになんとも残念。田浦湯の廃業により小田原市のみならず、西湘地区唯一となってしまった銭湯が中町にある中島湯。中島湯も歴史ある銭湯で創業は昭和9年。銭湯を取り巻く状況は厳しさを増していっているが城下町小田原の庶民文化の砦として、これからも長く続いてほしい。

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今から38年前、昭和50年代に差し掛かった小田原市内には16軒の銭湯が点在していた。昭和から平成へと向かう時の流れの中で、ほとんどの住宅に風呂が普及し市内の銭湯の数は減少の一途を辿ることになる。小田原商工年鑑1981年版から1992年版までの銭湯の記載を整理する。

【1981年に小田原市内に存在した銭湯】

1.若松湯…栄町2
2.緑 湯…栄町3
3.中島湯…中町2
4.万年湯…浜町4
5.相模湯…浜町4
6.御幸湯…本町3
7.寿美乃湯…東町2
8.政の湯…東町3
9.田浦湯…井細田
10.泉 湯…国府津
11.日の出湯…鴨宮
12.大黒湯…酒匂

小田原商工年鑑1981年版から記載の消えた銭湯は十字湯・百合の湯・鈴の湯(井細田)・鈴の湯(扇町)の4軒。新規掲載の銭湯は無く4減で12軒の記載にとどまる。27軒の銭湯があった1956年から25年間で半減以下となってしまった。

【1986年に小田原市内に存在した銭湯】

1.若松湯…栄町2
2.緑 湯…栄町3
3.中島湯…中町2
4.万年湯…浜町4
5.御幸湯…本町3
6.寿美乃湯…東町2
7.政の湯…東町3
8.田浦湯…井細田
9.泉 湯…国府津
10.大黒湯…酒匂

1986年刊行の小田原商工年鑑から相模湯・日の出湯の記載が無くなり、また新規記載も無く2減の10軒。時代は昭和から平成へと移り変わり、市内の銭湯はさらに減少の一途を辿ることになる。

【1992年に小田原市内に存在した銭湯】

1.若松湯…栄町2
2.緑 湯…栄町3
3.中島湯…中町2
4.万年湯…浜町4
5.田浦湯…井細田


商工年鑑の記載に寄ると1986年から5年後の1992年、バブル絶頂期の小田原に残っていた銭湯はわずかに5軒。昭和から平成への移り変わりの中で御幸湯・寿美乃湯・政の湯(?)・泉 湯・大黒湯が廃業したと思われる。小田原商工年鑑で辿れるのは1992年分までで、1956年から1992年までの36年間で20軒以上の銭湯が小田原市内から消えてしまった。【その4に続く】


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今から50年前、1961年当時の小田原市内には23軒の銭湯が点在していた。東京オリンピックを挟んだ数年の間は市内の銭湯の数に大きな増減はみられないが、高度成長により庶民の住宅事情が変わり始めた昭和40年代半ばから銭湯の数は減少の一途を辿るようになった。資料の欠損により1961年から9年後に発行された小田原商工年鑑から小田原市内の銭湯の移り変わりを辿っていく。

【1970年に小田原市内に存在した銭湯】

1.草津湯…栄町2(新規?)
2.若松湯旅館…栄町2
3.緑 湯…栄町3
4.藤の湯…栄町4
5.中島湯…中町2
6.浪花湯…浜町3
7.万年湯…浜町4
8.相模湯…浜町4
9.衆楽湯…本町1
10.清水浴場…本町3
11.御幸湯…本町3
12.十字湯…南町1
13.百合の湯…南町4
14.寿美の湯…東町2
15.政の湯…東町3
16.久の湯…城山4
17.田浦湯…井細田
18.鈴の湯…井細田
19.蛍田湯…蓮正寺
20.日乃出湯…曽我原
21.泉 湯…国府津
22.日乃出湯…鴨宮
23.大黒湯…酒匂(新規)

1961年当時から1970年当時に存在した銭湯数は23軒と増減は無いが、1961年の商工年鑑に記載のあった福の湯と光妙湯が無くなり、新たに草津湯と大黒湯が登場している。新たに登場した草津湯は1956年の年鑑に同名の記載があり1961年の年鑑からは記載が無くなった銭湯で、1970年の年鑑に登場した草津湯はおそらく同じだと思われる。もう一つ新たに登場した大黒湯は、酒匂地区の浴場事情の変化によって新たに開業したと思われる銭湯。戦後、酒匂地区周辺の住民は印刷局の共同浴場を銭湯代わりに利用することが出来たが、1962年に住民向けの利用が禁止となったのでおそらくその後の地域のニーズがあって開業したようだ。

【1976年に小田原市内に存在した銭湯】

1.若松湯…栄町2
2.緑 湯…栄町3
3.中島湯…中町2
4.万年湯…浜町4
5.相模湯…浜町4
6.御幸湯…本町3
7.十字湯…南町1
8.百合の湯…南町4
9.寿美の湯…東町2
10.政の湯…東町3
11.田浦湯…井細田
12.鈴の湯…井細田
13.鈴の湯…扇町2(新規)
14.泉 湯…国府津
15.日乃出湯…鴨宮
16.大黒湯…酒匂

1971年発行の商工年鑑に記載のあった銭湯数は23軒で、その5年後に発行された年鑑には16軒と減っていて、この間にずいぶんと銭湯の廃業があったこと伺える。草津湯・藤の湯・浪花湯・衆楽湯・清水浴場・久の湯・蛍田湯・日乃出湯(曽我原)の記載が無くなり扇町の鈴の湯が新たに登場し1増8減。数年後の昭和50年代からは一層銭湯数が減っていくことになる。【その3に続く】


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