小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



散策がてら神社仏閣を巡るのが好きで、境内にある石仏石像や文化財を写真におさめている。先日、散策途中に立ち寄った曽我谷津の寺院には250年以上前に造られた銅製の阿弥陀如来座像が屋外にあった。小田原市曽我谷津にある城前寺は浄土宗の寺院。寺の縁起は諸説あるが曽我兄弟の菩提を弔うために叔父の宇佐美禅師が庵を結んだのが始まりといわれている。境内には敵討ちで有名な曽我兄弟にちなんだ碑や像が多い。その城前寺の門を入ったすぐの場所に阿弥陀如来坐像がある。大きさは1mに満たないくらいの銅製の阿弥陀如来像。台座を切って撮影すると大仏のようにも見える。それほど仏像には詳しくないが手の形の印は弥陀定印でオーソドックスな阿弥陀如来坐像。阿弥陀如来坐像の裏側にまわると、衲衣の両肩部分に文字が刻まれている。全部は解読出来なかったが造立は元文元年(1736)なので250年以上の歴史がある。この阿弥陀如来座像を建立したのは城前寺十四世住職の還蓮社到誉上人達玄。達玄和尚は赤穂浪士の吉田忠左衛門兼亮の遺児で、亡父の三十三回忌にあたり造像したもの。敵討ちで有名な曽我兄弟のほか、赤穂浪士にもゆかりのある仏像もあってなかなか興味深い探索となった。

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小田原市久野、山王川沿いの道路の小田厚ガード近くにある来光寺は無住の寺となって久しく、本堂も老朽化が目だっていた。先日、散策で久しぶりに来光寺に立ち寄ったところ改修が施され、ずいぶんと屋根が綺麗になっていた。改修前の来光寺。無住のためか手入れがほとんどなされていないようで、錆の浮いた青いトタン屋根のお堂の佇まいがなんとも侘しくて小田原市内の寺院の中でも印象的な場所のひとつだった。 5月上旬、久しぶりに来光寺に立ち寄ると、錆だらけだった屋根は銅板に葺き替えられていてすっかりと見違えていた。屋根部分を見ると光沢もありまだ綺麗だったので最近になって改修されたようだ。屋根の葺き替えと共に何ヶ所か垂木部分も補修もされていた。何かの資料で見たような気がするのだが、来光寺の屋根は以前は茅葺屋根だったように記憶している。以前の侘しい佇まいの来光寺が好きだったので、この改修されて見違えたお堂は少し個人的な好みからは外れるが、このまま朽ちることなく次の世代へと受け継いでいくためにしっかりと改修されたようなので良かった。

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お釈迦様の弟子の中にビンドラ・バラダージャという人物がいて、日本では賓頭盧尊者やおびんづるさまと呼ばれている。そのおびんづるさまの像はなで仏としての風習があって身体の悪い所をなでると除病の功徳があるとされおり、板橋地蔵尊の大祭時には開帳されて多くの参拝者がおびんづる像を撫でている。小田原市内のおびんづるさまは板橋地蔵尊のものが有名だが、飯泉の勝福寺にもおびんづるさまがあることを思い出して、先日写真を撮りに出かけた。坂東三十三観音の札所として古くから信仰されてきた勝福寺の境内には多くの文化財や石塔が残っている。本堂入口の階段をあがり外陣へ。堂内の彩色された天女の彫り物や天井一面に張られている千社札はなかなか圧巻。その勝福寺本堂外陣の片隅にあまり目立たないように木彫の像が安置されている。像に札などはついていなかったが形容などからおびんづるさまの木像で間違いないようだ。やはりなで仏として信仰されているようで所々表面のうるし塗りがかすれていた。小田原市内にあるおびんづるさまで今まで確認しているのは板橋地蔵尊と早川観音の2体。どちらも形容は結構似ていたが、飯泉観音のおびんづるさまは少し異なった形容をしている。左手には宝珠を持ち、右手はピースマークのような印相。右手の印相について色々と調べてみたが意味は分からず。早川観音のおびんづるさまと比べると顔周りは少しふっくらとしていた。とりあえず悪い所を撫でて撮影終了。小田原市内で3体のおびんづるさまを確認したが、市内には150以上のお寺があるのでまだ何体かのおびんづる像があるかもしれない。お寺めぐりの際に地道に探してみよう。

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正月と8月に行われる板橋地蔵尊大祭では普段公開していないおびんづるさまを境内の一画で開帳している。なで仏としての信仰があるおびんづるさまを参拝者が次々と撫でている姿は板橋地蔵尊大祭のお馴染みの光景となっている。板橋地蔵尊のおびんづるさまは年に4日ほどしか公開されないが早川には1年中公開されているおびんづるさまがある。小田原市早川、JR早川駅裏手にある早川観音にもおびんづるさまの木像が安置されている。観音堂正面の石段をのぼり右側の御拝柱の後ろに隠れるように朱塗りのおびんづるさまが安置されている。早川観音のおびんづるさまは高さ約60センチ前後の坐像で板橋地蔵尊のおびんづるさまとほぼ同じくらいの大きさ。板橋地蔵尊のおびんづるさまも前垂れをしているが、この早川観音のおびんづるさまは帽子も被せられている。朱色のニットの帽子でちょっとおばあさんっぽく見えてしまう。顔の彫りは板橋地蔵尊のおびんづるさまと比べ少し面長で若く見える。おびんづるさまはお釈迦様の弟子で十六羅漢の一人。日本では自分の身体の悪い所と同じ場所を撫でると病気が良くなるとされ、なで仏の風習が広がったと言われている。板橋地蔵尊のおびんづるさまは参拝客が多くて撫でるのも一苦労だが、早川観音のおびんづるさまは一年中撫で放題。とりあえず悪い場所を撫でて健康を祈願して早川観音から帰路についた。

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小田原の地蔵尊といえば板橋の地蔵尊が有名で、毎年1月と8月の23日、24日に大祭が行われ、近在から多くの参拝客がある。一方、小田原市扇町の足下地蔵尊でも1月と8月の24日に地元の方々を中心とした地蔵祭が行われている。小田原市扇町、富士フイルム小田原工場近くの旧県道沿いに足下地蔵尊がある。入口には提灯櫓が常設されていて境内には小さなお堂が立っている。堂前には地下水をくみ上げた延命水があり、日ごろ水を汲みに訪れる人が多くいる。足下地蔵尊の地蔵祭が行われていた8月24日の夜、祭りの雰囲気を撮影に出かけた。いつもは閉まっているお堂もこの日は開けられている。堂内の奥の座敷が世話人の詰め所のようになっており、お堂の外観の写真を撮っていたら中も見学していってとの事だったので上がらせてもらった。足下地蔵尊の堂内は10畳ほどの広さ。正面には祭壇。左右の壁には古い額が飾ってあった。正面向かって左側の壁には色褪せた大きな木製の額が掛けられていた。額は大念仏諸講中が明治36年に奉納したもの。近在の村々の講中の数百名の信徒の名前が記されている。足下地蔵尊のお堂は明治34年に近在信徒の浄財を寄せて再建。額に記されて信徒や村々の名前を見るとその当時、足下地蔵尊が広く信仰されていたことを伺わせる。正面向かって右側の壁には小さな額と絵馬が掛けられている。こちらの額と絵馬はちゃんと撮影しなかったが、家に帰ってから調べたところ、絵馬は明治33年のもので、額ははなどり地蔵の念仏歌のようだ。祭壇中央には、半跏趺坐像の地蔵像が安置されている。また祭壇の左右には十王も安置されていた。祭壇上の奉納幕は昭和30年のもので、経年により良い風合いに色褪せていた。片足をあぐらに組んでもう一方の足は伸ばすという姿の半跏趺坐の地蔵像は小田原城主の稲葉正則が鎌倉の仏師に作らせたとの伝承が残っている。この足を下げた姿から足下地蔵尊と呼ばれるようになったとのこと。足下地蔵尊の本尊は、一枚上の地蔵像の体内に納められている。開帳されるのは30年に一度とのことで、世話人の方に次回はいつかと尋ねたところ、多分10年後くらいではとの回答。前回開帳時に撮影した額が飾られている。本尊は運慶の作と伝えられている身の丈約22センチほどの小型の地蔵で同じく半跏趺坐像となっている。提灯の灯りと祭りの雰囲気だけ撮れればと思い出かけたので、堂内が撮影できてとても良い機会だった。いくつか撮り残したものがあったので、来年1月の地蔵祭にまた出かけたいと考えている。

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