城下町に住んでいながら、江戸時代当時のままの文化財に触れる機会は少ない。市内の神社仏閣は関東大震災後に再建されたところが多く、書画や古文書は資料館などに行かなければ見ることが出来ない。しかし江戸時代の文化や信仰の形を身近に見ることが出来るのが石塔である。市内には江戸時代の石塔が多く点在しているので散策の途中に見つけては写真に撮っている。久野の坊所公民館の近くには江戸時代前期の石塔が2基残っている。小田原市久野、いこいの森や久野霊園方面に向かう道沿いの坊所公民館の近くに比丘尼さんと呼ばれている石塔がある。車からだと分からないが、坊所公民館の横の道路下には沢が流れており、その沢の暗渠のコンクリートの上に石塔が建っている。道路下のまったく気付かれないようなところに建っているのが比丘尼さんと呼ばれている石塔である。もともと坊所公民館前の道はもっと低い場所にあったが、改修工事により高い場所に道路を改修したため比丘尼さんは道路下の場所に残された形となったようだ。伝承では、比丘尼がこの地で怪我をして亡くなった際に、供養してくれれば怪我が無いように守るとの遺言があり、それで比丘尼さんと呼ばれるようになったらしい。しかし、碑文を見ると三所詣と日待ち月待ち供養を記念した石塔で、比丘尼の供養塔ではないと思われる。造塔は正保4年(1647年)。小田原では数少ない日待ち月待ち信仰の石塔である。比丘尼さんから80mほど坂道を上ったところには虫塚さんと呼ばれる石塔がある。トタンの祠の中には自然石を利用した石塔が奉られている。虫塚さんは江戸時代には子供の病や夜泣きを治める仏として信仰されていたようで、このほかにも町田村から虫送りの行列がお参りに訪れていたとのこと。石塔の碑文によると願主は当地在住の柚川氏で観音巡礼をした記念に建てた石塔で、虫塚との関連は無いようである。造塔は慶安2年(1649年)。比丘尼さんと虫塚さんは360年ほど前の同じ頃に建てられた石塔で、当時この地に暮らしていた人々が、各地の霊場を巡礼したり、特定の日に集まり信仰を持っていたことを伺わせる。今も自然が多く残る坊所地区だが、当時はどのような風景だったのだろうとしばし想像を駆け巡らした。
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