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「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<大阪-観光> 住吉公園

2024-02-12 05:33:35 | 観光

 「住吉公園」

 住吉公園(すみよしこうえん、Sumiyoshi Park)は大阪府大阪市住之江区浜口東1丁目にある大阪府営公園。

 概要
 住吉公園という名称だが、現在の住所表示では住之江区になる。元々は住吉区に属していたが、1974年の大阪市の区の変更に伴い、住吉区から住之江区が分区した時、住吉公園は住之江区地域に含まれた。

 住吉公園は、現在は市民公園で、花壇や池、遊戯施設、コートなどが並ぶ。しかし元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。

 国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時~16時。

 今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

 また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

 歴史
 大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。

 開設当初は現在より広い面積を有していたが、1884年に阪堺鉄道(現:南海本線)が園内の東部を縦断する形で敷設された。さらに大正時代には国道26号(当時の呼称は国道16号)の建設工事に伴い、同道路が園内を縦断することになった。これに伴い1918年-1924年にかけて、国道より西側を廃止するなどの縮小・整備が行われて現在の形になった。

 住吉公園縮小の代替として、当地から1.5キロほど西に住之江公園が建設されている。

*Wikipedia より

 明治6年(1873)に開設された大阪でもっとも古い公園。春は満開のサクラのもとで行われる桜祭、夏は隣接する住吉大社の住吉祭(夏越大祓神事)、そしてお正月には初詣と、一年中賑わいをみせている。もともとは住吉大社の境内で、大社の馬場があり、公園の中央を東西に走る現在の「潮掛け道」も住吉大社の表参道だった。国道26号線に面したところに立つ「高灯篭」は、鎌倉時代末期に住吉大社への献灯として建てられた日本最古の灯台とされる(現在の灯台は昭和49年に復元)。かつては公園の西側あたりまで海が迫り、この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」と呼ばれ、景勝地として多くの和歌などに詠われた。公園の東入り口には、元禄7年(1694)9月13日、芭蕉が住吉大社の宝の市神事へ参拝した時に詠んだ句の碑が。

*https://osaka-info.jp/spot/sumiyoshi-park/ より

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<大阪-観光> 大仙公園

2024-02-11 07:07:19 | 観光

 「大仙公園」

 大仙公園(だいせんこうえん)は、大阪府堺市堺区にある都市公園(総合公園)である[1]。

 概要
 設置・管理は堺市。計画面積は約81ha。北東に大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、南西に上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)があり、両古墳に挟まれる位置に広がっており、園内にも小古墳が点在している。堺市博物館、堺市立中央図書館、堺市茶室「伸庵」「黄梅庵」、堺市都市緑化センター、平和塔、日本庭園などが設けられている。(自転車博物館もあったが、2022年3月に新築移転しシマノ自転車博物館となった。)

 園内には様々な種類の桜が約400本植えられており、毎年春には、花見を楽しむ家族連れなどで賑わう。

 1989年(平成元年)に「日本の都市公園100選」、「大阪みどりの百選[2]」、2014年(平成26年)には「日本の歴史公園100選」にそれぞれ選ばれた。

 歴史
 大仙公園の南半は、1629年(寛永6年)に江戸幕府の代官・高西夕雲と堺の豪商・木地屋庄右衛門によって開発された新田で、当初は万代(もず)新田と呼ばれたが、のちに夕雲開(せきうんひらき)と呼ばれるようになった。

 1925年(大正14年)に大阪府立農学校(大阪府立大学の前身)が大阪市東成区岡之町(現・生野区勝山北および勝山南)から堺市大字舳松村(現・大仙町。大仙陵古墳の西側、後の大阪女子大学校地)へ移転した際に、同校の広大な農事試験場となった。

 1947年(昭和22年)に大阪府によって大仙公園が計画されたが着工は遅れ、結局、大阪府立大学農学部が中百舌鳥キャンパスへ移転した翌年の1967年(昭和42年)にようやく着工された。1971年(昭和46年)には中央図書館が宿院から移転し、平和塔と礼拝堂が建設された。1980年(昭和55年)には市制施行90周年を記念して堺市博物館が開館した。

 1986年(昭和62年)には全国植樹祭が開催され、昭和天皇が園内に記念植樹を行った。1989年(平成元年)には市制施行100周年と日蘭修好380周年を記念した「オランダフェスティバル・ダッハらんど'89大阪」、2000年(平成12年)には「世界民族芸能祭」(ワッショイ2000)の会場になった。

 伸庵と黄梅庵
 堺市茶室。いずれも堺市の市制90周年を記念して移築されたもの。

 伸庵(しんあん)
 明治から昭和にかけて多くの茶室を残した数寄屋普請の名匠・仰木魯堂(おおぎろどう)が手がけて1929年(昭和4年)に建てられた茶室。以前は東京・芝公園にあったが、福助が寄贈し、1980年(昭和55年)に現在の地に移築された。国の登録有形文化財に登録されている。玄関横に設けられた立礼席は、移築の際に加えられたもので、一般の人もお茶を楽しむことができる。2007年(平成19年)の将棋竜王戦第一局の会場となった。
 黄梅庵(おうばいあん)
 元は、堺の商人で茶人だった今井宗久所領(現在の奈良県橿原市今井町)の豊田家にあった茶室。明治から昭和にかけて日本の電力開発に尽力した「電力の鬼」にして近代の数寄者・松永安左ヱ門(耳庵)が、戦後に小田原の別邸内に再興した。黄梅庵の名は、梅が熟し黄色く色づくころに完成したことから耳庵が名づけたもの。現在の地には、耳庵の遺族から寄贈を受け、1980年(昭和55年)に移築された。国の登録有形文化財に登録されている。普段は内部は公開されていない。

 施設一覧
 堺市博物館
 堺市立中央図書館
 堺市茶室 - 「伸庵」、「黄梅庵」
 堺市都市緑化センター
 平和塔
 堺大空襲などの死者、堺市の戦没者らの鎮魂を祈念して1971年(昭和46年)に建設された、高さ60mの大仙公園のシンボルタワー。内部は非公開だが、階段が設けられており頂上に上ることは可能になっている。
 日本庭園
 中根金作が作庭した築山林泉廻遊式庭園。かつての海外交易にもとづき、中国大陸などをイメージした築山などが設けられている。
 当初は日本庭園と公園のその他の施設の間を一般道路が分断する形となっていたが、隣接する堺市立大仙小学校との間に新道が完成して道路が移転、旧道が遊歩道となったために分断状態は解消された。
 風車
 かつて石津周辺の綿花畑で、水をくみ上げるために浜風を利用した風車が数百基あった。今では見ることができなくなった風車が大仙公園内に再現されている。
 杉風舎
 奈良県東吉野村の特産品展示施設。

 主な開催イベント
 堺シティマラソン-4月29日。大仙公園をスタート・ゴールに、大仙陵古墳周回コース
 ツアー・オブ・ジャパン堺ステージ-5月。大仙公園周回コース
 堺ツーデーマーチ-6月。大仙公園をスタート・ゴールに、堺市内を巡るウォーキングの全国大会
 堺まつり(大茶会)-10月。野点席と煎茶席(堺市茶室「伸庵」)を実施

*Wikipedia より

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<大阪-観光> 御津公園(三角公園)

2024-02-10 07:06:43 | 観光

 「御津公園-みつこうえん(三角公園)」

 関西の若者文化を育てたまち・アメリカ村のランドマークであり、待ち合わせスポットのひとつでもある。戦後、道路敷地のへた地にできた「御津街園」と称されたこの三角スペースは、70年代から脚光を浴びてきた、アメリカ村の発展とともに「三角公園」という呼び名で親しまれている。近年では、若手漫才師らが辺りを闊歩する若者をお客さんに見立て、無償で漫才を披露するのが名物になっている。30年前から公園のまん前に店舗を構え、「網かけマヨネーズ」の元祖となった老舗の「甲賀流のたこ焼き屋さん」も、いつでも人の列でいっぱいだ。たこ焼きをつつきながら若手コンビの漫才を聞くのも、三角公園ならでは。

*https://osaka-info.jp/spot/mitsu-park-sankaku-triangle-park/ より

 1980年代はとても危ない場所であった。大麻なども普通に声掛けられたり(笑

 「御津公園」なんて名前初めて知りました(笑

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<大阪-観光> りんくう公園

2024-02-09 07:09:03 | 観光

 「りんくう公園」

 りんくう公園(りんくうこうえん)は大阪府泉佐野市と田尻町にまたがる公園。

 概要
 関西国際空港の対岸の埋立地、りんくうタウンの海沿いに細長く広がる面積61.2ha(うち19.1haが開設)の海浜公園(現在は泉佐野市と田尻町域部分のみの開設だが、計画地域には泉南市区域もある[1])。 指定管理者である一般財団法人 大阪府公園協会が管理する、大阪府の施設である。

 公園の西側で海に面しており、関西国際空港から飛び立つ飛行機の離着陸や関西国際空港連絡橋が見えるほか、遠くには明石海峡大橋や淡路島も望める。 西側に沈む夕陽などロケーションに優れており、時折コスプレイベント等やビデオ映像撮影にも使用されている。

 また近年では、りんくうリレーマラソンやりんくう花火など、多数の集客が見込まれる地元イベントが開催されることも多い。

 施設
 りんくうタウン駅に近い「シンボル緑地」と沿岸の「シーサイド緑地」とで構成される。

 シンボル緑地
 四季の泉 - 円形噴水、夜間はライトアップされる。日没軌道をモチーフとしたデザイン。
 内海・砂浜 - 外海と通じており、潮の満ち干がある。
 花海道 - ロックガーデン
 太鼓橋 - 大きな弧を描いた木橋で、直近の石舞台でイベントが開催される時には観覧席も兼ねる。
 総合休憩所
 シーサイド緑地
 マーブルビーチ - 大理石の玉石を敷き詰めた、全長2.8kmの白いビーチ。りんくう花火の会場にもなっている。 
 北の展望所
 萩の休憩所
 南の展望所

*Wikipedia より

 関西国際空港から飛び立つ飛行機、遠くには淡路島や明石海峡大橋を望める、ロケーション抜群の公園です。りんくうタウン駅からすぐ近くで、アクセス抜群!公園のシンボルである「四季の泉」や、日本の夕陽百選に選ばれているマーブルビーチからの夕日は必見です!

*https://osaka-info.jp/spot/rinku-park/ より

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<大阪-観光> 五月山公園

2024-02-08 07:29:22 | 観光

 「五月山公園」

 五月山公園(さつきやまこうえん、英: Satsukiyama Park)は、大阪府池田市にある都市公園(都市緑地)である。五月山緑地[3]とも。池田市が管理・運営している。

 概要
 五月山(標高315.1メートル)の山麓から中腹にかけて広がっている。池田市が1949年(昭和24年)から公園として整備。公園内には五月山動物園や、都市緑化植物園などがある。

 ハイキングコース、展望台などが整備されている。5つある展望台からは、大阪平野が一望できる。山頂付近の標高314.9メートルの地点にある日の丸展望台は、1964年(昭和39年)に建造されたものである。

 サクラやツツジ、紅葉の名所としても知られ、大阪みどりの百選にも選ばれている。

 都市計画緑地である。面積は68.65ヘクタールであり、綾羽二丁目、五月丘五丁目、新町、城山町、木部町にまたがる。1963年(昭和38年)5月5日、童謡「鳩ぽっぽ」の歌碑が完成される。これは、童謡作詞家の東くめを称える記念碑である。2014年(平成26年)3月、五月山ふれあい動物園(森のパレット)が開園される。

*Wikipedia より

 池田市のシンボルである五月山(標高315.3m)の麓から中腹に広がる、桜、ツツジ、紅葉の名所。5つのハイキングコースと展望台があり、大阪平野を展望する絶好の地として、「大阪みどりの百選」にも選ばれている。また、園内には動物園・都市緑化植物園、ゴルフ場、緑のセンターなど多くの施設が併設されており、レジャーを楽しむ多くの人で賑わっている。とくに五月山動物園は、入場料が無料ながらオーストラリアの珍獣ウォンバットやワラビーを見ることができるということで人気を集めている。毎年4月上旬の土・日には、公園広場や動物園を中心に「さくらまつり」が催される。夏には、江戸時代からつづく「がんがら火祭り」の舞台のひとつにもなっている。

*https://osaka-info.jp/spot/satsukiyama-park/ より

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<大阪-観光> 難波宮跡公園

2024-02-07 06:31:58 | 観光

 「難波宮跡公園」

 大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。

*Wikipedia より

 「難波宮」

 難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪府大阪市中央区にあたる地域に造営された、古代宮殿の総称。古墳時代の応神天皇の行宮である難波大隈宮や、大王(オオキミ)と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖とされる仁徳天皇の宮居である難波高津宮、飛鳥時代から奈良時代、再び難波(現在の大阪市)に都が戻り法円坂周辺に造営された宮殿群を指す。645年から793年までの約150年間の都であった。天皇の住まい、政治、儀式の場を明確化した構造は難波宮が最初であり、後の宮にも採用された。また、難波宮から日本という国号、元号の使用が始まったとされ、孝徳天皇は改新の詔を発し、その第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした。仁徳天皇の難波高津宮も、難波宮が造営された地域の周辺にあったとする説が有力とみなされている。現在の大阪市中央区大手前にある宮殿遺構は、「難波宮跡 附 法円坂遺跡」の名称で国の史跡に指定されている。

 概要
 難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが、第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。

 1913年(大正2年)、大阪城外堀南の法円坂で、奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、大日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本の降伏によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。

 そこで、山根を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年(昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに、1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では、難波宮の跡なのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した。

 しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、朱鳥元年(686年)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書紀』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)、これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。

 1961年(昭和36年)、山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された。これを後期難波宮という。山根は発見当時「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残した。

 前期難波宮
 
 乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。日本初の首都であり、仁徳天皇などの皇居である。また、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている。

 孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。

 天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。

 建築物の概要
 回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。
 宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。
 天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原宮・平城宮・平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。
 これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
 なお、条坊制の存否については議論があるが、採用されていれば日本最古のものとなる。

 後期難波宮

 奈良時代の神亀3年(726年[1][4])に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根[注 1]の宮殿が造られた。

 その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。

 最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。

 延暦3年(784年)、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。

 史跡難波宮跡
 現在、難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。

 難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前4丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館の複合施設がある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したものである。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。

 難波宮跡公園の場所は、明治4年(1871年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。

 難波宮跡公園の北側を東西に通る府道高速大阪東大阪線(阪神高速道路東大阪線)は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用された為である[8]。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっており、また橋脚の間隔も一本当たりにかかる重量を分散させる目的も兼ねて通常30メートル開けるところを、この区間は10メートル間隔で橋脚を設置している。

 1985年に大阪市が、北接する大阪城公園と難波宮跡公園を一体化した「歴史公園構想」を発表。その一環として、馬場町にあったNHK大阪放送会館が上町筋を挟んだ大手前4丁目の大阪市中央体育館跡地に移転するなどしたが、この2つの公園の一体化構想は進展していない。

 2004年(平成16年)から、四天王寺ワッソ(11月開催)のメイン会場となっている。

 2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や土層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。

 平成28年、後期難波宮の朝堂院の西側から4棟の建物の基礎跡が発掘された。

*Wikipedia より

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<大阪-観光> 下赤阪の棚田

2024-02-06 07:32:27 | 観光

 「下赤阪の棚田」

 千早赤阪中学校から約500m、楠木正成の戦いの地として知られる「下赤阪城址」から眼下に広がる「下赤阪の棚田」。平成11年に農林水産省(当時)が認定した「日本の棚田百選」に選ばれ、金色の稲穂が波打つように輝く秋には、たくさんのアマチュアカメラマンが詰めかけている。棚田とは、「段々畑」ともいい、傾斜地に稲作のためにつくられた、棚のような耕作地のこと。ここ下赤阪だけでなく、千早赤阪村内にはいたるところに棚田がつくられており、四季折々にのどかな景色を楽しむことができる。また、中学校のバス停前には、地元で取り立ての野菜などを販売する農産物直売所もある(土日だけ営業)。

*https://osaka-info.jp/spot/shimoakasaka-terraced-paddy-fields/ より

 何度か訪れたことのある「下赤阪の棚田」。正直、あまり歓迎されているわけではないので、たくさんの人には来ていただかない方がよろしいかと。

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<大阪-観光> 淀川河川公園

2024-02-05 07:35:13 | 観光

 「淀川河川公園」

 淀川河川公園(よどがわかせんこうえん)は、淀川の河川敷にある国営公園である。 運営は淀川河川公園管理グループ共同体(阪神造園建設業共同組合と一般財団法人公園財団のJV)が受託している(平成27年度まで)。

 概要
 大阪府(大阪市、守口市、寝屋川市、枚方市、摂津市、高槻市、島本町)と京都府(八幡市、大山崎町)の2府・7市2町をまたぎ、40地区の施設広場を運営している。

 北岸(右岸) - 大山崎(京都府乙訓郡大山崎町)、島本(大阪府三島郡島本町)、大塚・三島江(高槻市)、鳥飼上・鳥飼下・鳥飼西(摂津市)、豊里・西中島(大阪市)
 南岸(左岸) - 枚方・三矢(枚方市)、木屋元・太間・仁和寺(寝屋川市)、佐太西・大日・八雲・外島(守口市)、太子橋・赤川・毛馬・海老江(大阪市)
 ほかに野草広場地区、景観保全地区、自然地区がある。特に景観保全地区である背割堤地区(京都府八幡市)は桜の名所である。

 公園施設のほか、地区によるが野球場・テニスコート・陸上トラック・サッカー/ラグビー場・フットサルコート・ゲートボール・ディスクゴルフ場・パターゴルフ場・グラウンドゴルフ場・バーベキュー施設・駐車場・プール・スケート場・船着場を設置している。これらの施設利用者数は年間約80万人である。

 「川でなければできない利用、川に活かされた利用。」として、身近な自然を楽しめ、川と街の一体感が体現できるというのがコンセプト。

*Wikipedia より

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<大阪-観光> 茶臼山(天王寺公園)

2024-02-04 07:35:21 | 観光

 「茶臼山(天王寺公園)」

 天王寺公園(てんのうじこうえん)は、大阪府大阪市天王寺区茶臼山町にある市立公園。

 上町台地の西端に位置しており、総面積は約28万m2。園内には天王寺動物園や植物温室、大阪市立美術館、慶沢園を擁する大阪を代表する都市公園である。大阪市の広域避難場所に指定されている。かつては天王寺図書館や天王寺公会堂、野外音楽堂もあった。池上四郎第6代大阪市長の銅像が園内に建つ。

 歴史
 1903年 第5回内国勧業博覧会が開かれる(第1会場が天王寺、第2会場が大浜)。
 1906年 博覧会で美術館として使用された建物を関西大学が一時借用(新校舎建設のため)。
 1909年 会場跡地の東側を公園として整備し、「天王寺公園」が開園(通天閣を含む西側が新世界となった)。大阪市電の天王寺公園前停留場が開業。
 1913年 内国勧業博覧会で使用した集会施設を天王寺公園に移設し「天王寺公会堂」となる。同様に「勧業館」も大阪市が施設運営を引き継ぐ。「明治記念拓殖博覧会」を開催。
 1914年 住友家の本邸が鰻谷から茶臼山に移転する。
 1915年 上野(東京)、岡崎(京都)に次いで国内3番目の大阪市天王寺動物園が開園。
 1917年 内国勧業博覧会で使用した美術館を改装し「大阪市立市民博物館」として開館(大正天皇大典事業の一環)。
 1918年 住友家本邸内に庭園「慶沢園」が完成。大阪市電の天王寺公園南口停留場が開業。
 1920年 大阪市会が市立美術館の設立を議決。
 1921年 住友家が美術館建設を条件に、茶臼山の本邸寄付を大阪市に打診。
 1923年 「大阪市電開業20年交通博覧会」を開催。
 1925年 「大大阪記念博覧会」(大阪毎日新聞社主催)を開催。住友家の本邸が兵庫県武庫郡住吉村(現:神戸市東灘区)に移転。
 1926年 電気大博覧会を開催(第2会場)。
 1928年 「大礼奉祝交通電気博覧会」を開催。
 1930年 公園内に全国初のラジオ塔を設置。
 1936年 旧住友家本邸跡地に大阪市立美術館が開館。庭園の慶沢園も開放。天王寺公会堂が閉鎖され、跡地は天王寺動物園の敷地になる。大阪市の集会施設は中之島の中央公会堂に一本化。
 1938年 大阪市営地下鉄御堂筋線(現:Osaka Metro御堂筋線)の動物園前駅・天王寺駅が開業。
 1944年 戦時体制下の終日急行運転実施のため、大阪市電の天王寺公園前・天王寺公園南口両停留場を廃止。
 1947年 天王寺公園前停留場が復活。
 1949年 天王寺公園南口停留場が復活。
 1950年 天王寺公園南口停留場が動物園前停留場に改称。
 1952年 「講和記念婦人とこども大博覧会」開催。公園内に大阪市立図書館(本館)開館。
 1961年 大阪市立図書館が大阪市立天王寺図書館に改称。同年開館した大阪市立中央図書館の分館扱いとなる。
 1966年 大阪市電の霞町玉造線廃止に伴い、動物園前停留場の営業終了。
 1968年 大阪市電の西道頓堀天王寺線廃止に伴い、天王寺公園前停留場の営業終了。
 1969年 大阪市営地下鉄堺筋線(現:Osaka Metro堺筋線)の動物園前駅が開業。
 1980年 天王寺野外音楽堂が閉鎖(現:天王寺動物園「コアラ館」付近。毎年春に名物コンサート「春一番」が行われていた)。
 1985年 大阪市立天王寺図書館が上之宮町に移転。
 1987年 天王寺博覧会開催に伴い、園内を再整備。安藤忠雄設計の映像館(マルチイメージシアター)などを設置する。また博覧会閉幕後に、公園の主要部分がフェンスで囲われ入場が有料化された。これは公園西側に隣接している新世界一帯がいわゆる労働者エリアであり、当時ホームレスが公園内で夜間に野宿などしており、その排除意図があったことによる。
 1989年 天王寺公園に多目的ドームの建設計画が浮上し、動物園の移転を含めた検討委員会が組織される。
 1990年 多目的ドーム建設検討委員会が、天王寺公園をドーム建設候補地の一つに選定。動物園を南港に移転・新設するプランが示される。2月入園が有料化される。
 1990年頃 公園と美術館との間にある公道に「青空カラオケ」と称する露店が並ぶ。
 2003年 大阪市によって露店撤去。あべちかと天王寺公園地下駐車場を結ぶ連絡通路が完成。
 2012年 第1回「あべの・天王寺イルミナージュ」を開催。
 2014年 10月30日 近畿日本鉄道を公園の管理運営事業者に選定。12月2日 入園料が公園工事に伴い無料になる。
 2015年 4月1日 条例改正に伴い、休園日がなくなり、入園料は、慶沢園のみ有料、その他は無料となる。10月1日 公園南東部のエントランスエリアを再整備。サッカーコートやレストラン・カフェ、ドッグランなどの施設が備わった「てんしば」エリアとしてリニューアルオープン。
 2016年 10月4日、終日通行可能だった通路を22時から7時まで閉鎖。11月1日 「てんしば」エリアにバス待合所、国際観光案内所、ゲストハウス「Kintetsu Friendly Hostel -Osaka Tennoji Park-」からなる複合棟オープン。てんしばが、2016年度グッドデザイン賞受賞。
 2019年 11月22日 てんしば i:na(イーナ)オープン

 公園内の施設 
 大阪市天王寺動物園
 大阪市立美術館
 慶沢園
 植物温室
 水上ステージ
 旧黒田藩屋敷長屋門
 茶臼山古墳
 大塚城
 てんしばエリア
  スプーンビル(フラワー・雑貨)
  タリーズコーヒー(カフェ)
  ファミリーマート(コンビニ)
  産直市場よってって(大阪産野菜・果物・加工品・カフェ)
  SORAIRO KITCHEN in TENSHIBA PARK(ダイニング)
  肉炉端 ROBERT(カジュアルダイニング)
  青いナポリイン・ザ・パーク(ピザ)
  クレープリー・スタンド シャンデレール 天王寺(クレープ)
  YARD(コーヒー・クラフトチョコレート)
  ボーネルンド プレイヴィル 天王寺公園(子供向け遊び場)
  ペットパラダイスDX(総合ペットサービス)
  キャプテン翼スタジアム天王寺 / キャプテン翼サッカースクール天王寺(フットサルコート・サッカー教室)
  近鉄フレンドリーホステル大阪天王寺公園(ゲストハウス)
  国際観光案内所・バス待合所

*Wikipedia より

 四天王寺の南西にそびえる茶臼山は、大坂冬の陣では徳川家康、夏の陣では豊臣方の真田幸村の本陣として、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台として知られており、山頂には大坂の陣を模した史料や地図、石碑などが設置されている。また、周囲一帯は天王寺公園となっており、山裾には河底池(かわぞこいけ)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために開削した跡地とも言われ、公園と茶白山を結ぶ和気橋(わけばし)で池を渡ることができる。

*https://osaka-info.jp/spot/chausuyama-tennoji-park/ より

 茶臼山は天王寺公園の中にあり、大阪市内の「3大前方後円古墳」の1つとされてきた。日本書紀には『593年(推古天皇元年)に初めて四天王寺を難波の荒稜(あらはか)に造った』とあり、古くからこの荒稜に特定され、古墳時代中期に造営された前方後円古墳とみなされてきた。しかし近年発掘調査などにより、前方後円古墳説は疑問視され、円墳若しくは自然丘陵ではないかとの説も出ているが結論は出ていないようである。
  近世では、1614年(慶長19年)大坂冬の陣で徳川家康が本陣を置き、翌年の大坂夏の陣では真田幸村が陣をしいた。この夏の陣で幸村は奮戦むなしく、ここから少し離れた安居神社の境内で戦死したと伝わる。

 標  高:26M
 経緯:北緯34度39分6秒、東経135度30分41秒
 茶臼山全景 山に登るには公園の入園料が必要である。美術館の方向から茶臼山と河底池を望む。
 赤い橋は和気橋という名前がつけられている。788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるため切り開いたといわれる河底池も、この古墳の濠を利用したと伝わり、現在天王寺区には堀越町や河堀町の地名が残る。
橋を渡ると頂上に向う階段があり、手前に『史跡 茶臼山及河底池』の石碑が建っている。 茶臼山登り口
 茶臼山頂上 茶臼山の頂上。
 頂上を示す標識は何もなく、外灯の柱に『公園を荒らさないように』という注意書がぶら下がっているのみである。

*http://www12.plala.or.jp/HOUJI/yama/newpage606.htm より

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<大阪-観光> 毛馬桜之宮公園

2024-02-03 07:13:34 | 観光

 「毛馬桜之宮公園」

 桜之宮公園(さくらのみやこうえん)は、大川上流部両岸の大阪市都島区と北区にまたがる都市公園(総合公園)である。都市計画上の位置付けは、南天満公園、毛馬公園、蕪村公園とあわせ、毛馬桜之宮公園(けまさくらのみやこうえん)となっている。南に隣接している藤田邸跡公園は桜之宮公園の一部である。

 概要
 大川東岸に鎮座する櫻宮(桜宮神社)の社前一帯に位置しており、毛馬桜之宮公園としては南北約4.2kmにおよぶリバーサイドパークとなる。櫻宮付近の大川両岸は江戸時代から桜の名所であったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水で東岸の桜が大打撃を受けて以降、西岸の桜、とりわけ造幣局の桜が有名になった。現在も造幣局の桜の通り抜けは大勢の人で賑わう。

 施設など
 桜之宮球場
 大阪市立大学漕艇部
*Wikipedia より

 毛馬洗い堰から天満橋までの河川敷を利用した、水と緑と桜の河岸公園。造幣局などのレトロ建造物の他、水の広場、遊歩道などがあり、散策ジョギングにも最適。約4,500本の桜並木が続き、花見の名所としても知られている。

*https://osaka-info.jp/spot/kema-sakuranomiya-park/ より

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