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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> 節分

2025-02-02 17:23:59 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「節分」

 節分(せつぶん、せちぶん)は雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春(現代日本のグレゴリオ暦においては変動するが毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。

 太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていた。したがって、旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになる。今も節分を「年越し」「年取り」と呼ぶ地域があるのはこの名残である。

 本項目では、立春の前日、節分に行われる伝統的な行事について述べる。

 一般的には「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行う。また、玄関などに邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってくる(後述)。

 概要
 季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていた。

 宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。

 「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てる。陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とある。

 これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた。元中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となった 。

 『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まっている(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」(この年、天下諸国に疫病あり。多くの民が死に、はじめて土牛を造り大儺(だいだ)す)。これが室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。

 近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。

 日付
 節分の日付

 年を4で割った余り 1 2 3 0
 1873年 - 1884年 3日 3日 3日 3日
 1885年 - 1900年 2日 3日 3日 3日
 1901年 - 1917年 3日 4日 4日 4日
 1918年 - 1954年 3日 3日 4日 4日
 1955年 - 1987年 3日 3日 3日 4日
 1988年 - 2020年 3日 3日 3日 3日
 2021年 - 2057年 2日 3日 3日 3日
 2058年 - 2090年 2日 2日 3日 3日
 2091年 - 2100年 2日 2日 2日 3日
 2101年 - 2123年 3日 3日 3日 4日
 節分の日付は一般には2月3日であるが常にそうではなく、1984年までは4年に1度の閏年の節分は2月4日だった。また、1985年から2020年までは毎年2月3日だった。2021年から2057年までは閏年の翌年の節分は2月2日になる。グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになる。数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年...の翌年に1日遅れて帳消しとなる。

 立春の前日であり、立春は太陽黄経が315度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても異なるが、日本以外では祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることはない。

 年内節分
 太陰太陽暦では、年末に立春を迎えることがある。それに伴い節分も年内となる。これを年内節分という。

 九星
 暦注において、年の九星は立春をもって切り替わるので、節分までは前年の九星となる。

 歴史
 節分とは立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味し、その中でも立春の前日としての節分に行われる風習としてはいくつかあるが、最も一般的といえる鬼払いの風習は、中国の風習を由来とする平安時代の追儺(ついな)、鬼遣(おにやらい)と呼ばれた宮中行事を元としているとされる。

 行事の由来とされる中国の歳事は、元々太陰太陽暦(旧暦)で十二月の歳事だった。この頃は一年の変わり目、冬から春に転じるときで変化が大きく、疫鬼が民に病や災禍をもたらすとされた。そこで疫鬼を駆逐し、古い年を送り、新たな年、春の陽気、吉福を内に迎えた(「後漢書」礼儀志中などに記載)。

 「周礼(しゅらい)」夏官(かかん)に書かれた歳事は以下のようなものである。

 方相氏は熊の皮をかぶり、黄金四目(しもく)、黒い上衣に朱色の裳の姿で、戈(ほこ)を執り、楯(たて)を掲げ、多くの部下をひきい、儺(だ)の儀を行い、そうして室内を捜索して、疫を祓うことを掌(つかさど)る
 また、元々は疫鬼を追い払う役であった方相氏が、次第に追い払われる鬼役になったという説がある。

 中国から伝わった追儺(ついな)や鬼遣(おにやらい)は当初、年越しの儀式だった。やがて季節の分かれ目である節分の中でも、立春の前日に行われるようになったが、この時期はまだまだ寒い。そして季節が移ろう時期は体調を崩しやすい。ちょっとした風邪から大病につながったり、深刻な病をもたらすこともある。そんな病魔を、人々は鬼、あるいは疫鬼として恐れた。

 平安時代の女流作家・藤原道綱母(ふじわらの みちつなのはは)が著した『蜻蛉(かげろう)日記』には、900年代の人々が鬼遣に興ずる様子が描かれている。室町時代には形を変えて豆をまくようになったが、これは「魔滅」(まめ)に由来する。鬼の目である「魔目」(まめ)を滅ぼす力を持つ「魔滅」すなわち「豆」なのだ。なんだか駄洒落のようだが、日本人は古来言霊の存在を信じ、言葉に霊力と意味を与えてきたのだ。それに豆は「五穀」(米、麦、ひえ、あわ、豆)のひとつであり、農耕民族である日本人の生活に欠かせないもので、力が宿るとされてきた。これを穀霊信仰という。だからこれら五穀は神事にも使われ、中でも豆と米は神聖な存在として、鬼を払う力を持っていると信じられていたのだ。

 室町時代後期成立とされる『貴船の本地』(貴船神社縁起)では、娘が人間と恋をしたために、鬼が日本人を食おうとし更に軍勢で襲撃しようとしたが、その鬼封じの為に明法道の博士が導入した儀式であるとされている。

 豆まき

 節分に豆まきを行った文献が見られるようになるのは南北朝時代以降のこと(『看聞御記』や『花営三代記』など)である。中国の『漢旧儀』によると漢代に厄除けや魔祓いのために小豆や五穀を撒く風習があったとしているが、日本の追儺(鬼やらい)の行事に豆を撒いていたかは文献からははっきりしない。ただ、平安時代には散米と称して米を撒く風習が広くみられた。

 節分の豆まきに関して、文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年正月8日(1425年1月27日)(節分)を記した2文書である。宮中の『看聞日記』には「抑鬼大豆打事、近年重有朝臣無何打之」とあり、室町幕府の記録『花営三代記』には「天晴。節分大豆打役。昭心カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とある[13]ことから、この頃既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかる。

 その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三「節分夜打大豆事」には、宇多天皇の時代(867年 - 931年)、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(深泥池)の端にある石穴から鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説が記されている。

 豆は、「穀物は生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。

 寺院で行われる豆まきには、多くの人々が殺到するようになったが、第二次世界大戦直前の1941年2月の時点では既に食糧事情が悪化しており、「豆」を大量に入手することは困難になっていた。東京の回向院や増上寺では豆まき行事は中止された。浅草寺では堂内だけで縮小して行われた。池上本門寺では小さな紙袋に少量の豆を入れて豆まきが行われた。

 節分を初めて英文で紹介したのはエドワード・グリー(Edward Greey)とされている。小泉八雲も「知られぬ日本の面影」で節分を「主に悪魔払いの儀式として有名」と紹介している。

 なお、各地の伝承としては、豆まきは必ずしも節分のみに行われたわけではなく、煤払い(煤掃き)の日、大晦日、七日正月などに行う地域もあった。岩手県西根町や釜石市の一部では煤はき(煤払い)の日などにも豆まきが行われた。

 方法

 歴史的には節分に米、麦、搗栗、炭など撒く例もあるが、一般的には大豆が用いられる。大豆は五穀の中で最も安価で手近にあり、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない。一般的に煎り豆が使用されるが、多くの地域に豆から芽が出ることを恐れる伝承が残っており、邪悪なものが再び蘇らないようにする意味があったと考えられている。炒り豆を神社や寺社に備える風習が各地にみられる。

 スーパーマーケットなどの特設コーナーで、炒った豆をパックにし、福豆(ふくまめ)などの名称で販売される。鬼のお面(お多福の面が入っている商品もある)がおまけとしてついているものもあり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった。

 小学校では6年生が年男・年女にあたるため、6年生が中心となって豆まきの行事を行っているところもあり、神社仏閣と幼稚園・保育園が連携している所では園児が巫女や稚児として出る所もある。相撲力士を招いて(醜・しこ・四股を踏む事により、凶悪な鬼を踏みつけ鎮める悪魔祓いをする)豆撒きをする社寺もある。

 豆が幼児の鼻や耳に入ってけがをする危険やアレルギーなどを考慮して、豆の代わりに新聞紙を丸めたもので豆まきを行う乳幼児施設もある。

 北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒き、寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった。

 大豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる風習もみられる。

 豆をまく際には掛け声をかける。室町時代の相国寺の僧侶、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』の文安4年12月22日(1449年1月16日)の記述には「散熬豆因唱鬼外福内」とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である。

 しかし、地域や神社によって異なる場合がある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている。奈良県吉野町の金峯山寺で行われる節分会では役行者が鬼を改心させて弟子にした故事から「福は内、鬼も内」としている。また新宗教の大本は鬼神を「艮の金神(国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」とする。「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。山形市の鳥海月山両所宮でも鬼の字が姓に含まれる世帯もあることから、掛け声を「鬼は外、福は内」だけでなく「福は内、鬼も内」としている。大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としている。千葉県成田市の成田山新勝寺では「不動明王の前では鬼さえ改心する」というので「福は内」のみ叫ぶ。また、丹羽氏が藩主であった旧二本松藩領内の一部では「鬼は外」と言うと「おにわそと」転じて「お丹羽、外」となるため、それを避けるために「鬼、外」と言う所がある。

*Wikipedia より

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<社名の由来> ファンケル

2025-02-02 17:15:00 | 社名の由来

 「ファンケル」

 株式会社ファンケル(英: FANCL CORPORATION)は、化粧品・健康食品(サプリメント等)の製造・販売を行う日本の企業。神奈川県横浜市中区に本社を置く。創業以来長らく、本社を横浜市栄区に置いていた(上郷町で創業後、飯島町へ移転)。コーポレートスローガンは『正直品質。』。

 2019年にキリンホールディングスと資本業務提携を締結し、同社の持分法適用関連会社となり、2024年に同社の子会社となった。

*Wikipedia より

 社名「ファンケル」の由来は「ファイン・ケミカル」(fine chemical、日本語で「混じりけのない化学製品」)の略語からで、前社名の「ジャパンファインケミカル販売株式会社」もこれに由来する。また「不安を蹴る=ファンケル」という説もある。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 長野 ほう葉巻

2025-02-02 17:07:59 | 郷土料理

 「ほう葉巻」

 主な伝承地域 木曽地域

 主な使用食材 米粉、小麦粉、朴葉、いぐさ、小豆

 歴史・由来・関連行事
 「ほう葉巻き」は、米の粉に熱湯を入れてよくこね、中にあんを入れて、ほうの葉で包んで蒸したもので、木曽地域に伝わる伝統的な祝い餅である。木曽地域では端午の節句は、ひと月遅れの6月5日におこなわれる。その前後に「ほう葉巻き」がつくられる。端午の節句といえば柏餅だが、標高が高い木曽地域には柏の木がなく、代わりに、朴の葉を使うようになった。昔からそれぞれの家庭には、朴の木があり6月初旬頃になると、朴の若葉が伸びて大きく広がるので、ものを包むのに適するようになる。小枝の先に5、6枚の葉がついており、切らずに繋げたまま1枚毎に餅を包む。餅の中には、小豆あんやつぶしあんを入れ、新しい井草や藁を用いて葉をしばる。蒸しあがったほう葉巻きは、さわやかな若葉の移り香が特徴的な祝い餅だ。今では、ゆず味噌あん、白みそ胡桃あんなどもあり、各家庭や店で工夫されている。町中のあちこちの店でも「ほう葉巻き」がたくさん並び、木曽地域独自の初夏の風物詩となっている。ほう葉巻きの由来は、平安末期に信濃源氏の一族だった木曽義仲の時代に、戦に出る際に朴の葉を利用して味噌や米を包んだのが始まりだといわれている。朴の木は、モクレン科の落葉高木で、山地で見られる樹木の中で、最も大きい葉と花を付ける。大きい葉は長さ40cm、巾25cmもある。ほう葉は防腐効果をもつことから古くから食べ物を包むことにも使われていた。

 食習の機会や時季
 端午の節句の祝いとしてもつくられ、季節の行事食としてのほか、田植え時期の農家の茶菓子としても親しまれてきた。

 飲食方法
 ひとつずつ枝から外し、葉を取り、そのまま手で食べることができる。地元の人は、蒸したてよりも、餅がほどよく締まって朴の香りがより移った状態になる「翌日が一番美味しい」という。常温で2~3日保存ができ、食べきれない時は早めにラップで包んで冷凍もできる。冷凍したものは、蒸し器で蒸し直すか自然解凍、または葉を取って焼いて食べる。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 今も初夏になると、木曽の家庭では「ほう葉巻き」をつくる。「ほう葉巻き」の季節になると、地元で「ほう葉祭り」が開催され、町内各製菓店ではほお葉巻きやほお葉すしなどが販売される。木曽郡内の和菓子店や道の駅でなどで期間内数ヵ所でおこなわれている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/houba_maki_nagano.html より

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<B級ご当地グルメ> 福岡 戸畑ちゃんぽん

2025-02-02 17:01:10 | B級ご当地グルメ

 「戸畑ちゃんぽん」

*https://b9navi.com/%e6%88%b8%e7%95%91%e3%81%a1%e3%82%83%e3%82%93%e3%81%bd%e3%82%93/ より

 戸畑ちゃんぽん(とばたちゃんぽん)とは、福岡県北九州市戸畑区で食べられる細めの蒸し麺を使ったちゃんぽんである。

 歴史
 1939年(昭和14年)頃、初代となる田中励夫が中華料理店の店主・王福山から指導を受け、更に研究を重ね戸畑ちゃんぽんの特徴となる蒸し麺を完成。戦後になって二代目が戸畑で「田中製麺所」を創業。現在は三代目となっている。

 戸畑区でちゃんぽんをメニューにした店がこの蒸し麺を使ったことから、元祖である長崎ちゃんぽんとは味わいが異なる戸畑ちゃんぽんが生まれた。JR戸畑駅近くの商店街など区内数店で食べられる。

 特徴
 細くて色が濃い(黄色)コシがある麺を使用。通常使われているゆで麺ではなく蒸し麺。また蒸し麺で麺が細いことから調理が早いため、旧八幡製鐵所戸畑工場で働いていた忙しい労働者に好まれたという。スープは豚骨で具はキャベツやもやし、豚肉、蒲鉾が一般的。通常のちゃんぽんと異なる点として、特別に注文を入れない限り魚貝類は基本的に使用されない(スープの出汁に魚介類が含まれる場合があるためアレルギーには注意が必要)。どちらかというと、甘めの豚骨ラーメンの野菜煮込み風という発想が近い。また他の地方には無い特徴として、同一の具材を使った炒飯がほぼ必ず存在し、炒飯も同時に食される場合が非常に多い。

 戸畑チャンポン名店会
 2002年(平成14年)、飲食店と戸畑区役所職員で「戸畑チャンポン名店会」を結成。「ちゃんぽんマップ」の作成、配布等を行った。また戸畑ちゃんぽんを食べられることが分かるよう、名店会が作製した幟が飲食店の入口付近に立てられている。

*Wikipedia より

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うまいッ! NHK 「甘みと豊かな風味!だだちゃ豆 〜山形・鶴岡市〜」

2025-02-02 16:51:03 | うまいッ!NHK

 甘みと豊かな風味!だだちゃ豆 〜山形・鶴岡市〜 2024年8月25日

 山形・鶴岡市の特産、だだちゃ豆。まさにこの時期が収穫の真っ最中。その特徴は味わいが深く香りが濃厚なこと。それは、農家のきめ細やかな栽培技術によって生み出される。

 山形県鶴岡市の特産品、だだちゃ豆。枝豆の一種だが、味わいが深く香りが濃厚。全国にファンが多い。明治の初めごろ、熱心な鶴岡の農家が開発した、だだちゃ豆。以来、鶴岡市内の各農家で独特の味と香りを守ってきた。収穫真っ最中のある農家を訪ね、うまみと香りを生かす工夫を探っていく。また、塩ゆでだけではない、新たな料理を紹介。甘さを生かしたティラミスと、ご飯によく合うジャンをスタジオでも味わってゆく。

 「うまいッ!」の秘密
 株の根元に土を高くかける「土寄せ」によって新しい根が発生。その根にできた「根粒」が豆に栄養を送ることで、よりうまみの濃い豆が生まれます。

 毎年秋から冬にかけて行う「種の選別」が味の決め手。香り高く、うまみや甘みが濃いとされる巾着型でシワが多い種を一粒ずつ丁寧により分けて、明治から代々つないできた、だだちゃ豆の味を守ります。

 「だだちゃ豆を使った料理レシピ」について
 「だだちゃ豆のジャン」
 <材料>
 ・だだちゃ豆(塩ゆでしでさやからだしたもの):100g
 ・桜エビ(乾燥):10g
 ・サラダ油:50ml
 ・ザーサイ(塩味の強いものは塩抜きする):30g
 ・長ねぎ(白い部分):50g
 ・塩:ひとつまみ
 <作り方>
 1) 材料をすべて粗みじん切りにする。
 2) フライパンに桜エビを入れ、ひたひたになるくらいにサラダ油を加え、弱火でえびの香りが出るまでゆっくりあたためる。
 3) 香りが出て油がチリチリを音をたててきたらねぎ、塩、ザーサイ、だだちゃ豆の順に加えて、炒め合わせていく。
 4) 中火以下で手早く炒め、最後に味を調える。
 ※食べ方
 ・ごはんの上に・おにぎりの具に・チャーハンに・冷奴・そうめんの具・スープなど

 「だだちゃ豆のティラミス」
 <材料>
 ・だだちゃ豆(塩ゆでしてさやからだしたもの):100g
 ・生クリーム:200ml
 ・三温糖:大さじ2
 ・塩:少々
 ・スポンジケーキ(市販のもの):3枚
 ・本みりん:50ml
 ・ココアパウダー:適量
 ・だだちゃ豆(塩ゆでしてさやからだしたもの):10g
 <作り方>
 1) ミキサーにだだちゃ豆、生クリーム、三温糖、塩を入れてもったりとするまで混ぜる。
 ※状態によって分量を調整する。
 2)スポンジケーキを入れ物のサイズに合わせてカットしておく。
 3)本みりんは鍋に入れて煮切ってアルコールをとばしてから冷ましておく。
 4)スポンジに刷毛でみりんを塗る。
 5)容器の底にみりん⇒スポンジのせる⇒1)のクリームとだだちゃ豆の実⇒スポンジ⇒クリーム&豆⇒スポンジと重ねていく。
 6)ふたをして冷蔵庫で1~2時間やすませる。
 7)お好みの大きさにカットして、表面にココアパウダーをふる。

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/E88V53P7XQ/ より

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<料理用語-和食> 大安寺汁

2025-02-02 16:44:55 | 料理用語

 「大安寺汁」

 奈良の伝統的豆腐料理。 

 かやの実油で仕立てる。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/96_K/01.html より

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<異名-スポーツ選手> マエストロ

2025-02-02 16:35:14 | 異名

 「マエストロ ルイ・コスタ」

 ルイ・マヌエル・セーザル・コスタ(Rui Manuel César Costa, 1972年3月29日 - )は、ポルトガル・アマドーラ出身の元サッカー選手。元ポルトガル代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。現在はSLベンフィカで会長を務める。

 現役時代は「マエストロ」の愛称で知られ、卓越したテクニックと広い視野、優れたパスセンスで知られていた。また、両足での正確な得点力も兼ね備えていた。選手時代にはSLベンフィカ、ACFフィオレンティーナ、ACミランなどでプレーし、プリメイラ・リーガ、タッサ・デ・ポルトガル、セリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAスーパーカップなどのタイトルを獲得している。また、ポルトガル代表では94試合に出場して26得点を挙げている他、UEFA欧州選手権に3度とFIFAワールドカップに1度それぞれ出場している。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 流行り物は廃り物 など

2025-02-02 16:13:35 | 慣用句・諺

 「流行り物は廃り物」

 流行している物事は一時的なもので、いずれは飽きられて廃れていくものである。流行は長続きしないということ。

 

 「腹悪し-はらあし」

 1 おこりっぽい。短気である。

 2 意地悪い。腹黒い。

 

 「腹が癒える」

  怒りや恨みなどが解け、気が晴れる。

 

 「腹が痛む」

 自分で金銭を負担する。

 

 「腹が居る」

 怒りがおさまる。気が済む。胸が静まる。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 中川酒造

2025-02-02 14:52:55 | 日本酒

 「中川酒造」

 中川酒造がある長岡市脇野町は、かつては三島郡三島町と呼ばれた地。農業、林業の一次産業とともに刃物産業、酒造業も盛んだった。いずれも大量の水を必要とする産業である。

 人口7000人の町に3軒の酒蔵

 三島の地は水の質、量、ともに恵まれています。酒蔵は今は3軒ですが、少し前までは周辺も含めて5軒もありました。
 長岡は今も新潟県最多の酒蔵数を誇る土地柄だが、中でも脇野町は異例。3軒に減少したとはいえ、この町の人口が7000人ほどであることを考えれば、驚きの数だ。
 この地域に酒造りに適した良質の水が、豊富にあったことの証であろう。 ところで、酒造りにとっての良質な水とは、どんな水なのか。
 まずは麹菌や酵母などの微生物が、活発に活動するためのカリウム、リン酸、マグネシウムが含まれていること。次に麹から酵素が溶け出すのを助け、酵素の働きを促進して発酵を助けるカルシウムなどが含まれること。
 そして酒の着色の原因や香味の劣化を招く鉄やマンガンが少ないこと。さらに新潟清酒の特長である淡麗な飲み口にするには、適度な軟水であることが必要とされる。

 良水がもたらした銘柄

 昔から白い雁が飛来していたことから『越乃白雁』は生まれた
 中川酒造は県道から1本山側の閑静な道路に面して蔵が建っている。裏手には急峻な山の斜面が迫り、その環境はいかにも山からの水が豊富であることをうかがわせる。
 実際、この西山丘陵由来の水は地下10mから汲み上げられ、柔らかな井戸水は主要銘柄『越乃白雁』の仕込み水となっている。
 「県道の下は湿地帯です。この沼には昔から白い雁が飛来していました。それが銘柄の名の由来です」
銘柄も酒質もこの地に湧く良水がもたらしたものであることを知った。

 美しく青く透き通る神秘の水

 まるでブルーハワイか、マリンブルーか、きれいに澄んだ青
 創業は1888年、大火によって焼失した酒蔵から酒造株を買い受けて、酒造りが始まったという。
 建物は「明治蔵」「大正蔵」「昭和蔵」と増築が繰り返され、迷路のような蔵内は酒造りの歴史と伝統を物語る。 この蔵の中で、貯水タンクを満たしているのは西山丘陵からの湧き水だ。
 内側が白いホーロータンクの中は、なんとも神秘的な青い色をしている。中川酒造には『越乃碧(あおい)』という銘柄があるが、その味わいを彷彿と思い浮かばせる澄んだブルーだ。
 もちろん、全ての酒はこの水で醸される。青く見える水の秘密は解明されているそうだが、美酒の源はあえて謎めいたままにしたい。 酒蔵にとって水は大事な財産。
 「新潟らしいきれいな酒、が基本です。飲み飽きしない、淡麗辛口よりやや味があるタイプです。この水あっての『越乃白雁』といえます」

 地元に愛される酒造り

 『越乃白雁 黒松』
 もうひとつの財産はコメである。ここはかつて天領地であり、献上米を作っていたという土地柄。良質なコメが獲れることはいうまでもない。
 『越乃白雁』には、優雅で繊細な香りの大吟醸、華やかな香りと淡麗な味わいの純米吟醸、なめらかな中にもコクのある純米コシヒカリ、そして飲み飽きしない澄んだ味わいの『越の白雁 黒松』、柔らかくきれいな飲み口の本醸造などがある。
 これらはどれも、贅沢なまでにコメを磨きに磨いて造られている。全量60%以上の精米歩合。日々飲む酒の美味しさを大事にしている。
 中でも圧巻は『越乃白雁 黒松』。蔵人たちも愛飲している晩酌酒だそうで、普通酒ながら精米歩合は60%。柔らかくてやや辛口タイプ、スッキリして飲み飽きしない。
 2020・2021 全国燗酒コンテストぬる燗部門にて2年連続で最高金賞を受賞した。
 経営方針については「地元に愛される酒造り」だという。
 本醸造系が主体で、出荷先は県内が80%。ほとんどが地元で消費されてしまうというが、それも納得の酒造りだ。

 中川酒造株式会社 新潟県長岡市脇野町2011番地

*https://www.niigata-sake.or.jp/kuramoto/nakagawa/ より

 代表銘柄

越乃白雁 純米大吟醸
こしのはくがん じゅんまいだいぎんじょう
分類 純米大吟醸
容量 1,800ml
度数 16度以上17度未満

*https://www.niigata-sake.or.jp/kuramoto/nakagawa/ より

 

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<日本の名水百選> 石川 藤瀬の水

2025-02-02 07:37:21 | 名水百選

 「藤瀬の水」

 水質・水量
 1日の湧水量:22トン
 由来・歴史
 元々「座主の水」ともいわれ、現在、住居が国の重文にも指定されている座主家の当主は、十年来重度の神経痛に悩まされていたが、昭和54年4月28日の深夜に霊夢により神経痛に効くという月光観音のお告げを受け、飲みつづけたところ治ったという伝承が残っている。
 水質保全活動
 地域住民が定期的に清掃等の保全活動を行っている。荒廃化が進んでいた周辺農地を「ふるさと農園」事業によって再開拓。高齢者や子供たちに利用され、地域の活性化にも大きな役割を果している。

 周辺の自然環境-藤瀬の水は、棚田の景観が美しいのどかな集落から、山間へ入った所にあり、年間数万人の利用者が訪れている。整備された藤瀬霊水公園は、里山の美しい景色とアクセスのしやすさを兼ね備えており、地域の活性化に貢献している。
 利用状況-病に効く水という言い伝えがあることから、多くの人が湧水を求めて訪れる。また、地元の洋菓子店や飲食店などでも調理に利用されている。

*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=33 より

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