「みのもんた」
みのもんた(1944年〈昭和19年〉8月22日 - 2025年〈令和7年〉3月1日)は 、日本のフリーアナウンサー、総合司会者、ニュースキャスター、タレント、実業家。本名、御法川 法男(みのりかわ のりお)。
実業家としては、自らの個人芸能事務所を兼ねる企業である株式会社ニッコクの代表取締役会長(1999年10月 - 2020年11月までは社長)。東京都世田谷区出身。晩年は神奈川県鎌倉市鎌倉山にある旧・山椒洞に在住。
2006年11月28日に「一週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者(記録:21時間42分)」という記録が、『ギネス・ワールド・レコーズ』に認定された。
幼少時、伯父が森繁久彌と一緒に芝居をしていた関係で、世田谷区の自宅の離れに森繁が下宿していた事があり、森繁の出演する映画のチケットを貰って、よく見に行っていたことから、小学校に入学した頃には既に映画や芝居に興味を持っていたという。『柔道一代』などの映画の撮影を御法川家で行っていたこともよくあった。
世田谷区立祖師谷小学校、立教中学校(現・立教池袋中学校 進学の理由は当時立教大学野球部で活躍していた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の「立教三羽烏」への憧れから)、立教高等学校(現・立教新座高等学校)、立教大学経済学部卒業。大学では放送研究会に所属し、ラジオドラマを製作した。みのは4年先輩で日本テレビに入社していた徳光和夫から「アナウンサーはいいよ」「これからはテレビの時代だよ」と言われ、スタジオ見学などに連れて行ってもらったと述べている。
文化放送時代
同社ではほとんどの期間をアナウンサーとして活動。同期には落合恵子がいる。最初の2年弱は研修として、同じフジサンケイグループの産業経済新聞社(産経新聞社)に通っていた。新聞原稿をラジオニュース用の原稿(読み原)に書き換える仕事をしたが全く駄目で「ニュースには向かない」と言われたとアナウンス部長(当時)の土屋恵が後に語っている。
同社での初めてのレギュラー番組は『ゲリラでいこう』(15分番組)。その後はニッポン放送の『オールナイトニッポン』、TBSラジオの『パックインミュージック』で深夜放送ブームに火が点き、遅れて始まった『セイ!ヤング』の初代パーソナリティ(1969年6月 - 1973年3月まで担当)に抜擢される。
ほぼ同じ頃、洋楽ランキング番組『オール・ジャパン・ポップ20』(『全国ポピュラーベストテン』の前身)では、オープニングで「♪みのみのー、もんた、みのもんた」と、独特の節回しでリスナーの関心を惹き付けた(高橋小枝子とともにDJを担当)。プロ野球中継でもベンチリポーターを務め、後楽園球場の読売ジャイアンツ戦とオールスターゲームなどを担当した。後に『みのもんたのワイドNo1』『ダイナミックレーダー〜歌謡曲でいこう!〜』等を担当。文化放送と同じく、フジサンケイグループに所属するフジテレビの番組に出演。『オールスター水泳大会』の司会などで人気を博したが、人事異動で営業部へ配転される。1979年9月に退社。
文化放送退社後
父親が経営する水道メーター製造・販売会社の日国工業(現・ニッコク)に入社。10年間、全国を営業で回った。その間、フジテレビに声をかけられ、『プロ野球ニュース』の週末版で雨が降って野球が中止になると、MLBのビデオを放送。「よっ、真っ黒に日焼けして」などとナレーションを入れた所、人気が出て『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に発展。2020年時点も不定期に放送されている。『なるほど!ザ・ワールド』の国内リポーター、『オールナイトフジ』でオールナイターズの実家を訪ねる「深夜の家庭訪問」などを担当。コミカル系サブ司会者(コメディ・リリーフ的存在)として認知されるようになる。1989年(4月、『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ)の司会を担当。番組が高視聴率を取るようになり、人気司会者の地位を築く。1999年10月、日国工業を受け継ぎ(のちに自身の個人事務所「オフィスモンタ」を合併し、現在の「ニッコク」に社名変更)、代表取締役社長に就任。
民放各社およびNHKでの活動
民放キー局5社 全てでレギュラー番組を持った一方、NHKではレギュラー番組を持った経験はない]。
しかしながら、当時61歳だった2005年には『第56回NHK紅白歌合戦』 で司会を担当、これがNHK地上波での初司会となったほか、『NHK紅白歌合戦』における男性司会者の最年長記録且つ史上初の60代男性による司会となった。しかし、リハーサル時からスタッフと進行の方針を巡って対立していたことが表沙汰となり、これらが原因で司会担当はこの1度限りとなっている。
1967年4月、文化放送入社。就職先の第一志望はTBS(東京放送)だったが、採用試験で不合格。
死去
2025年3月1日未明に死去した。80歳没。訃報は同日、自身が会長を務めるニッコクにより公表された。関係者の話によれば同年1月16日の17時頃、東京都港区の焼肉店で食事(肉)を喉に詰まらせて心肺停止状態に陥り、東京都内の病院に搬送されて入院治療を受けており、自宅に戻ることなく家族に看取られて息を引き取ったという。
みのの死去を受けて、古巣でもある文化放送社長の齋藤清人をはじめ、芸能界などから追悼するコメントが多く寄せられている。
経営活動
1999年(平成11年)10月から株式会社ニッコクの代表取締役社長を務め、2020年(令和2年)12月に退任し、代表取締役会長に就任している。過密スケジュールの合間を縫って毎日出社し、業務を行っているとされる。入社試験の面接でみのが現れると驚く人もいるという。世間では副業ではないかといわれているが、会社経営のほうが本業だと語っている。
同社は、父親から受け継いだ水道メーターの会社「日国工業株式会社」に、自分の事務所「オフィスモンタ」を吸収合併したものである。
自身経営の水道メーター会社のライバル社「愛知時計電機」の株式を本名の「御法川法男」個人名義として発行済株式総数1,542万株中、91万株(5.9%)を所有(2022年4月30日現在)する第3位の株主。
芸名の由来
芸名の名付け親は野末陳平。由来は当時、御法川を略して「みの」と呼ばれていて、申年生まれ(monkey)でかつ猿顔であることと、当時人気であった競走馬「モンタサン」に掛けて、「もんた」とした。
*Wikipedia より
みのもんたさん死去 80歳 テレビ情報番組の司会で活躍 2025年3月1日 16時32分 NHK NEWS
テレビの情報番組やバラエティー番組などで司会者として活躍し、明るく軽妙な語り口で人気を集めたタレントのみのもんたさんが、1日未明、亡くなりました。80歳でした。
みのもんたさんは、東京出身で大学を卒業後、1967年に文化放送に入社し、ラジオの深夜放送のパーソナリティーとして明るく軽妙な語り口で人気を博しました。
その後、フリーとなってテレビに活躍の場を広げ、1989年からおよそ20年、司会を務めた民放の昼の 情報番組「午後は○○おもいッきりテレビ」では、歯に衣着せぬ発言が話題となり、その人気を不動のものにしました。
その後も、巧みな司会ぶりで情報番組やバラエティー番組で多くのレギュラーを持ち、プロ野球の「珍プ レー好プレー」のナレーションや、クイズ番組での「ファイナルアンサー?」の決め台詞と、正解発表までの「ため」などでも人気を集めました。
また、2005年のNHK紅白歌合戦の司会を務めたほか、「1週間で最も多く生番組に出演する司会者」として、「ギネス世界記録」にも認定されました。
みのさんが会長を務める会社のホームページによりますと、みのさんは、1日未明に亡くなったということです。
80歳でした。
山田邦子さん「もう一回会いたかった」
みのもんたさんと、たびたび共演していたタレントの山田邦子さんは、自身のブログに「ご冥福をお祈りいたします。仕事もたくさんご一緒させていただいた。大雑把なようでもキレが良くて、番組の回しが上手く客いじりも適当のように見えてあたたかみがあった。お疲れ様でした。寂しいです。もう一回会いたかった」などとつづっています。
和田アキ子さん「ショックで言葉になりません」
みのもんたさんとテレビなどで共演し、プライベートでも親交が深かった歌手の和田アキ子さんは「昔は本当によく飲みに行きましたし、最近でもしょっちゅう電話で話をしてました。ことしの初めに、『近いうちに飲みに行こうね』って話してたのに、、、。あまりにショックで言葉になりません」というコメントを発表しました。
*https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250301/k10014737091000.html より
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