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<経産大臣指定伝統的工芸品> 広島 熊野筆

2021-08-22 05:51:35 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「熊野筆」

 Description / 特徴・産地

 熊野筆とは?
 熊野筆(くまのふで)は広島県安芸郡熊野町で作られている伝統工芸品です。熊野筆の特徴はヤギやウマ、シカ、タヌキ、イタチ、ネコなどの獣毛を原料としているところです。
 穂先の毛を切り揃えず、「コマ」という木型を使用し穂先を出します。自然毛を生かすことにより毛先が繊細で、適度なコシも持ち合わせた筆となります。籾殻(もみがら)の灰の使用による毛もみや麻糸を使用した糸締めといった伝統的製法を用い、穂首を熊野町内で製作されたもののみが熊野筆を名乗ることができます。
 熊野では国の「伝統的工芸品」の指定を受けた書筆をはじめ、画筆や化粧筆が作られています。一本の熊野筆が完成するまでには70以上の工程が必要ですが、そのほとんどが手作業で行われます。特に難しいとされる筆に使用する毛を選択する選毛(せんもう)・毛組み(けぐみ)という工程をはじめ、全ての工程において熟練した技術が必要です。
 熊野町では積極的に後継者の育成にも取り組んでいます。

 History / 歴史
 熊野筆 - 歴史

 熊野筆の歴史は江戸時代後期に遡ります。熊野町の主要産業は農業でしたが、盆地のため農地が狭く、農閑期には奈良や紀州での出稼ぎが行われていました。出稼ぎの道中に筆や墨を行商することが盛んでしたが、その関係から江戸末期の1835年(天保5年)には佐々木為次が有馬で、1846年(弘化3年)には井上治平が浅野藩(広島)の筆司(ふでし)から、乙丸常太が有馬でそれぞれ筆づくりを学び、技術を広めたことが始まりです。筆づくりは広島藩からも奨励されますます盛んとなります。
 明治時代に入ると教育制度の普及により毛筆の需要が高まったことから生産量が拡大していきますが、第二次大戦により一時生産ができなくなります。
 戦後は書道教育が中止されたことを契機に書筆だけでなく画筆や化粧筆の製作も始めます。その後1958年(昭和33年)に学校での書道教育が復活したため、熊野筆の需要は以前よりも増す結果となりました。
 熊野筆は1975年(昭和50年)には伝統工芸品の指定を受け、2004年(平成16年)には団体商標を取得し、現在では国内産の筆の生産量の80%を占めるほどにまで発展しています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kumanofude/ より

 静かな町の静かな伝統工芸と職人
 ここ熊野町の筆は、全国の生産量のうち8割を占める、文字通り日本一の筆の町である。現在約1500人の「筆司」と呼ばれる筆づくりの技術者がいる。中でも40~50年もの間、筆づくり一筋に取り組む「伝統工芸士」は、全国の書道家の特注品を手掛ける筆づくりの名人たちである。

 
 静かで厳しい筆司修行
 その伝統工芸士の一人である、中川 敏朗さんにお話をうかがった。「もともと熊野町は、盆地で、土地も広くないし、就職いうても仕事はないし、ひたすら筆づくりをしてきたという結果が日本一の産地になった理由じゃけ。」と訥々とした広島弁で、中川さんは語り始めてくれた。たまたま、母が家内で筆づくりをしていたということもあり、学校を出てすぐに近所の明治生まれの「名人」のところに弟子入りした。師匠は一通り仕事の段取りを教えるだけで、後は弟子たちが、見よう見まねで作業をしていくのである。毎日毎日、土曜も日曜日もなく、朝8時からただひたすら筆を作っていく。そして、一工程ずつ(筆づくりは約70工程ある)師匠に出来栄えを確認してもらうのだ。「そのたんびに、師匠に『だめじゃ』と言われるけーね。うまくなって次の工程にいかせてもらうには、そりゃ必死よね。当時、同期で四人がいっしょに弟子入りしたんじゃけど、しばらくして師匠が、その中の一人に『おまえは手がぬるいけん、やめじゃ』と。つまり、その手先じゃ、筆では生活ができんけん、違う仕事を探せということなんじゃね。次の日からその人は来んかったよね。今思えば、若い時に早めに才能がないことを教えてあげるのが、愛情やったとは思うけど。師匠にそないに言われんように、いつも緊張しながら筆つくっとったよね。」


 『ええ具合いになっちょる、これならえかろう』
 厳しい修行時代の四年間を終え、一人立ちした中川さんの次の目標は「使い手に満足してもらう筆づくり」であった。その後十年間くらいは、そのことだけに集中した。しかし、自分で「よし」と納得のいった筆が、使い手である書道家の先生になかなか誉めてもらえない、試行錯誤の、悶々とした年月が過ぎていった。そしてある日、問屋さんが、こう言ってくれたのである。「中川さん、あの有名な先生が『ええ具合いになっちょる、これならえかろう』と言うちょったよ」と。「もう、嬉しかったな。筆づくりをやってきてよかった、と心から思った。今でもその一言を聞くために仕事をしちょるようなもんよ。」と中川さん。
 愛情と意志を持って、モノづくりに向かう一流の職人が作った筆が、一流の書道家に認められ、使われて、そして一流の書ができあがる。・・・そういうことなのである。

 「最近の毛はやおい」
 そんな中川さんは続ける。「最近の毛はやおいけ、負えんのんじゃ」つまり、そのほとんどを中国から輸入している原料である獣毛が、柔らかくなり、腰のある筆を希望する先生の注文に応じづらくなってきたということである。原因は、昔に比べて、獣毛の状態が変わるほど“えさ”が変わってしまった、という環境上の問題なのか、獣が成育してしまうまで待てない、という経済上の問題なのか・・・。原因は定かではないのだが、いずれにしろ、一流の職人の眼にかなう獣毛が減ってしまっている。また、海外産の安い筆の輸入にも、熊野筆は影響を受けている。「じゃけど・・」と中川さんは「わしは負けんで(負けないぞ)。最後は“腕”の勝負じゃけね。最高の原料を見極める眼力と、この熊野町の筆づくりの伝統、そして筆に対する愛情と技術。わしは頑張るけえね。」中川さんは、柔らかなまなざしで、庭の菜の花を見つめながら、そう語ってくれた。


 職人プロフィール

 中川 敏朗

 昭和11年1月11日生まれ。
 16才から筆づくりに携わり、今年で49年目を迎える。昭和56年12月、伝統工芸士に認定される。

 こぼれ話

 筆づくりの歴史

 筆づくりがはじまった正確な時期は、はっきりとわかっていませんが、殷時代(前1600年頃~前1028年)の甲骨片に筆を用いたと思われる文字が書き残されており、その時代には既に、筆があったとされています。また、新石器時代末期の彩陶にも既に筆で描いたと思われる文様が残っています。現存する世界最古の筆は、中国戦国時代の楚(?~前223年)の遺跡から発見された「長沙筆」です。約16センチの細い竹軸の先端を裂いてウサギの毛を挟み糸で縛り、漆で固められています。また、漢代の木簡とともに発見された「居延筆」は約21センチの木軸の一端を四つ割にして、1.4センチの穂首を差し込んだ完成度の高い筆です。

 日本では、大宝年間(701~714年)には、筆が作られたとされていますが、現存する最古の筆は、正倉院にあるウサギ、鹿、タヌキの毛で作られた17本の巻筆です。
 書の名人であった、空海は812年に筆匠、坂名井清川に唐の製筆法によって、狸毛筆4本(楷、行、草、写経用)を作らせ、天皇に献上したという記録があります。この頃には、関東から九州まで各地で、筆が作られるようになりました。江戸時代には、御家人の内職として、高品質の筆がさかんに作られるようになりました。

 熊野の筆づくりの始まりは、今から約170年前、江戸時代の末になってからです。当時、農地の少なかった熊野では、農業だけでは生活を支えきれず、農民たちの多くが農閑期には、出稼ぎに出ていました。行く先は、主に紀州(和歌山県)熊野地方や大和(奈良県)吉野地方。出稼ぎを終えると奈良に立ち寄り、筆や墨を仕入れて行商をしながら、熊野へ帰ることを常としていました。これがきっかけとなり、熊野と筆の結び付きが生まれたのです。
 ちょうどその頃、井上治平(井上弥助)という若者が、広島藩の御用筆司から、また佐々木為次や乙丸常太(音丸常太郎)は摂津の国(兵庫県)有馬で筆づくりを学んで帰り、村人に筆づくりを広めたと伝えられています。当時これといった産業のなかった熊野で筆づくりは新しい産業として取り入れられ、村人達の努力と情熱によって産地としての基礎をなし、その優れた技術は、170年を経た今もなお、連綿と受け継がれています。

*https://kougeihin.jp/craft/1007/ より


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