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<経産大臣指定伝統的工芸品> 熊本 肥後象嵌

2021-08-23 11:16:25 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「肥後象嵌」

 Description / 特徴・産地

 肥後象がんとは?
 肥後象眼(ひごぞうがん)は熊本県熊本市で作られている金工品です。かつては銃身(じゅうしん)や刀鐔(かたなつば)などに施される装飾として発展してきましたが、今では装身具やインテリアなどの装飾品としてその技術が受け継がれています。
 肥後象眼の特徴は、武家文化を反映した「重厚感」と「上品な美しさ」です。深い黒地に金銀の意匠が映える象眼の美しさは派手さを抑えて品格を漂わせています。
 肥後象眼には「布目象眼(ぬのめぞうがん)」「彫り込み象眼(ほりこみぞうがん)」などの技法がありますが、現在行われているのはほとんどが布目象眼です。布目象眼は地金として使用する鉄の表面に細い切れ目(布目)を入れ、そうして出来た溝に金銀の金属を打ち込んでいく技法です。肥後象眼では地金に塗料等を使わず錆色だけで深い黒色に仕上げることで地金の美しさを引き出すことや、金銀の厚み、縦・横・斜めの4方向から切る布目の切り方、肥後独自に受け継がれる文様などにより特徴である「重厚感」や「上品な美しさ」を表現しています。

 History / 歴史
 肥後象がん - 歴史

 肥後象眼の始祖は江戸時代初頭の鉄砲鍛冶である林又七と言われています。林又七は元々加藤清正に仕えていましたが、1632年(寛永9年)加藤家改易の後、変わって肥後藩主となった細川忠利に仕職しました。
 林又七は京都で布目象眼の技術を習得すると銃身に九曜紋や桜紋などの象眼を施すようになります。その後も林又七によって施された象眼の優れた技術は数々の名品を生み、肥後象眼として受け継がれていきました。
 肥後象眼が発展した背景には忠利の父である細川忠興の存在もあります。風雅を好む忠興は鍛冶である平田彦三などの名匠をお抱え工とし、刀剣金具制作などの金工技術を競わせました。このようにして肥後象眼は細川家の庇護を受け、武家社会の隆盛と共に洗練された技術として発展していきます。特に幕末には林又七の再来と呼ばれる名人「神吉楽寿」が出現し、肥後象眼は不動の地位を築きます。
 しかし明治維新によって廃刀令が発布されると刀剣金具の需要が無くなり、肥後象眼も衰退の憂き目にあいます。しかしながら装身具や茶道具等に技術の転用を図ることで再び活路を見出し、その伝統の技術は現在に受け継がれています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/higozogan/ より

 武家の美学を現代の感性で表現する~肥後象がん~
 肥後象がんは、地金に刻んだ溝に金銀を埋め込んで文様を表現する工芸だ。その源は、細川藩時代の刀の鐔の装飾に遡る。加飾という、実用から離れた存在であるがゆえに、肥後象がんには武家文化の美学が凝縮されている。時代が変わり、象がんの対象が刀から装身具などに変っても、底に流れる美意識は変らない。 そして、それらを作り出す技と心も、今日まで脈々と受け継がれている。象がん師の家に生まれ、タガネの音を聞いて育ったという、象がん師白木光虎さんにお話をうかがった。

 
 オーダーメイドの工芸品
 白木さんの家は百年続く象がん師の家系である。三代目の光虎さん、息子であり四代目になる良明さんと、象がんの技は代々受け継がれている。しかし、白木家には、図案と呼べるようなものは伝えられていないという。 肥後象がんは、元々は「あつらえ」、今でいうところのオーダーメイドによって製作された工芸品だった。戦前までは、象がん師は注文主と共同で図案を練り上げ、注文主の好みや個性を存分に表現する作品に仕上げるために腕を振るったという。そのため資料が残らなかったのではないかと白木さんは推測する。 キセルや、羽織紐、懐中時計など、自分の個性を存分に表現した肥後象がんのあつらえものは、いわゆるステイタスシンボルだったという。 肥後象がんは、大変に手間のかかる仕事である。例えば、文鎮ひとつ仕上げるのにかかる時間は、およそ2ヶ月。そうした手間は価格に反映されてくる。 あつらえの肥後象がんは、注文主の感性だけでなく財力も表現していたのである。
  
 自分好みのものを作る喜びを知ってもらいたい
 「昔の人は、自分の目を信じていたし、自分自身の好みや個性を大事にしていました。それが、現代では『有名人が持っているから良い』というような思想で、自力で見極めようとしなくなりましたね」 闇雲にブランド物に走るよりも、あつらえの良さを知ってほしいと、白木さんはある企画を実施した。息子の良明さんと二人で開いた作品展の会場に『オリジナル肥後象がん制作コーナー』を設けたのである。 「来場者が自分でデザインした象がんを自分の手で作ることができる」そんな場所を設けることで、人々に自分でデザインしたものが形になる喜びを感じてもらえればと、白木さんは考えたのだ。さらには、実際に加工を体験することで、肥後象がんの技術に対しても理解を深めてもらえるのではないか、そんな思いも込められている。
  
 感性と技術
 昔は技術さえ身につければそれで良かった。しかし現代では、どんなに技術が素晴らしくても、デザインが悪ければ通用しない。考えることと技術の修得を平行していくことが大切なのだと、白木さんは説く。 肥後象がんでは、象がんを施す鉄生地は、装身具など以外は、象がん師が自ら鉄片から金鋸やヤスリで削って作りだす。そして、作業に使ういろいろな形や大きさのタガネも、ヤスリを使って自分の手で作るという。肥後象がんは一から十までをひとりでやる仕事である。だからこそ、作者の感性や技術、デザイン力があからさまに映し出される。 「感性のいい人ほど、いい作品をつくる」そう断言する白木さんは、自らも感性を磨くために、象がんに限らず日々さまざまな作品を見て回る。絵画、書、染、織などその興味の範囲は幅広い。良い作品は見ているうちに「何となく、いい」と感じるようになるという。 「なんとなく良さが分かるということは、すでに感性の積み重ねができてるということだと思うんです」 とにかく、いろいろなものに関心を持ち、いいものを見ることが、感性を磨く第一歩なのだと白木さんは力説する。
 熊本という風土に育まれて
 肥後象がんの地金の漆黒色は、金属が錆びることで作り出される。錆を使ったこの加工は、肥後象がんの仕上げの技法であり、その風合が作品に与える影響も大きい。象がん師の家では代々錆び出しのための液の作り方を大切に伝えている。 錆を出すには、適度な湿気と温度が欠かせない。乾燥地帯では錆はでないし、低温でも錆はでない。肥後象がんは、熊本の高温多湿な気候の中で作ることによって、その美しさを最大限に発揮する。 「よその土地でもできないことはないでしょうが、熊本の土地を基盤としたノウハウでここまできてますからね。土地と切っても切り離せない。工芸というのはそういうものだと思います」 肥後象がんの技は風土を、その造形は歴史に裏付けられた美意識を映す。白木さんは肥後象がんを守ることが、熊本の文化の伝承に繋がると信じている。
 
 職人プロフィール

 白木光虎 (しらきみつとら)

 昭和13年生。昭和42年に白木家三代目を継承。昭和49年、日本伝統工芸展西部工芸展に初出品入選。以後同展にて、昭和50年銅賞、昭和51年金賞、平成2年正会員賞などを受賞。九州各県および東京・大阪で精力的に個展を開催。 (社)日本工芸会正会員、(社)日本工芸会西部支部幹事。熊本県美術協会会員。


 こぼれ話

 肥後象がん講座

 熊本県伝統工芸館では、平成12年から「肥後象がん講座」が開講されている。講座では、第一線で活躍する象がん師が一般公募で集まった生徒に技術を教えている。 講座は月2回、午前10時から午後4時まで。家に帰っても復習・予習を行わないとついていけないほど濃密な内容で、体験教室や趣味の講座とは大きく異なっている。 この厳しいともいえる講座の背景には、「一度失われた技術を復活させるのは、容易なことではない」という危機感がある。たとえアマチュアでも、きちんとした肥後象がんの技術を受け継いでもらいたい。そんな、熱い思いに応えるように、生徒たちも力作を製作している。彼らの作品は、地元の工芸展にも並び「肥後象がん」のアピールに一役かっている。

*https://kougeihin.jp/craft/0714/ より


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