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<経産大臣指定伝統的工芸品> 熊本 山鹿灯籠

2021-08-23 11:27:22 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「山鹿灯籠」

 Description / 特徴・産地

 山鹿灯籠とは?
 山鹿灯籠(やまがとうろう)は、熊本県山鹿市周辺で作られている和紙です。熊本県の夏の風物詩、「山鹿灯籠まつり」で、優美に踊る浴衣姿の女性が頭に乗せている「金灯籠(かなとうろう)」もそのひとつですが、灯りをともす灯籠とは異なり、実在の建造物を1/20から1/30ほどの大きさにし、細部まで精巧に再現したものも灯籠と呼ばれています。神殿造り、座敷造り、城造りなどがあり、毎年、山鹿灯籠まつりに合わせ、灯籠師たちの手によって作られた壮大かつ繊細な作品が大宮神社に奉納されます。
 山鹿灯籠の特徴は、材料に和紙と糊だけを使い、留め具なども一切使わずに立体構造を作り上げる点です。定規や小刀、ハサミ、コテなどの道具を使用しますが、曲線部分は、のりしろを作らずに紙の厚み部分のみを使って貼り合わせるなど、すべての工程において繊細な作業が続きます。
 また、建造物を実際に目の前で眺めているかのような臨場感を出すために、縦横の比率も実際の縮尺に、独自の変化を加えるなど、灯籠師の熟練の技によって紙とは思えないほどの重厚さや豪華さを生み出しています。2013年(平成25年)には国の伝統的工芸品として指定されました。

 History / 歴史
 山鹿灯籠の歴史は諸説ありますが、最も語られる一説は第十二代天皇、景行天皇の時代まで遡ります。
 天皇一行が九州を巡幸中、山鹿を流れる菊池川で濃い霧に遭遇した際に、山鹿の里人が皆でたいまつをかかげてお迎えし、現在の大宮神社まで無事に導いたという伝説によるものです。それ以降、毎年大宮神社に灯火を献上していましたが、室町時代に入ってからは、灯火が紙で作られた金灯籠に代わったと言われています。
 さらに江戸時代には、富豪たちがより豪華な灯籠を灯籠師に作らせたことで、座敷造りや五重塔など現在のような灯籠が奉納されたという記録が残されています。
山鹿で紙づくりが行われたことも、山鹿灯篭が発展した理由の1つとされています。1592年(文禄元年)に始まった文禄・慶長の役の際に、加藤清正が高麗より連れ帰ったのが慶春・道慶の紙漉き職人でした。二人は和紙づくりの役職をあたえられ、のちに現在の山鹿市鹿北町芋生に移住した慶春が、山鹿に紙漉きの技術を伝授したと言われています。
 和紙作りは周辺の地域へと発展し、山鹿周辺は重要な紙の産地となってゆきました。これが山鹿灯篭に大きく影響していると考えられています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yamagatoro/ より

 山鹿灯籠とは
 和紙だけで作られる幻想的な明かりの正体

 山鹿灯籠まつりの様子
 写真の灯籠が和紙と糊だけで作られていると知ったら、きっと多くの人が驚くはず。

 「灯籠師」と呼ばれる職人の技術と、金属と見間違えるほど精巧に作られた山鹿灯籠は、いにしえの時代から人々を魅了してきた。

 今回はそんな山鹿灯籠の魅力を掘り下げる。

 山鹿灯籠とは?驚くほど軽い理由
 山鹿灯籠 (やまがとうろう) とは熊本県山鹿市のみに伝わる、手すき和紙と糊だけで作られる立体的な紙細工の工芸品。

 九州の夏の風物詩「山鹿灯籠祭り」で知られる、まるで金属の灯籠のような「金灯籠 (かなとうろう) 」のほか、神殿造り、座敷造り、城造りなどさまざまな様式がある。

 山鹿灯籠の中でも有名な金灯籠
 いずれも「灯籠師」と呼ばれる専門の職人が手がけており、すべて精巧な手作業によって表現されている。

 山鹿灯籠まつりとは?
 熊本県山鹿市では、毎年8月15・16日に「山鹿灯籠まつり」が行われる。2018年には来場者は16万人にものぼった。

 山鹿灯籠まつりの歴史は古い。深い霧が立ち込める中、第12代景行天皇が巡幸した際、山鹿の人々は松明を灯し土地を案内した。それ以来、山鹿の人々は天皇を祀り、松明の代わりに灯籠を用い始めるようになったのが山鹿灯籠祭りのきっかけである。

 室町時代を迎えると、現在も続く金灯籠を頭にのせた浴衣姿の女性が舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が生まれる。

 山鹿灯籠まつりの様子
 祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りは、優美で見る人を魅了し続けている。

 山鹿灯籠の基本
 ○素材は和紙と糊だけ

 山鹿灯籠は木や金具は一切用いず、手すき和紙と糊だけで作られる。

 「骨なし灯籠」ともいわれるように、手すき和紙を折り、糊付けし、内部を空洞化した柱や垂木 (たるき) などの部材を中心に組み上げることを特徴としている。


 山鹿灯籠の制作工程
 熊本県山鹿地方では、江戸時代初期より紙の原料である楮 (こうぞ) の栽培が行われていた。さらに肥後の紙すきの始祖といわれる、慶春 (けいしゅん) ・道慶 (どうけい)が川原谷 (現在の山鹿市) に移り住み、紙すきの技術が子孫にも受け継がれ、藩の保護を受けた。和紙づくりの原料と技術、二つが山鹿に揃ったことにより山鹿灯籠は発展した。

 このように優れた素材が確保されていたからこそ、紙灯籠が作られるようになったのである。

 ○代表作は「金灯籠」

 山鹿灯籠の代表的なものとして、山鹿灯籠祭りで用いられる「金灯籠」があげられる。

 山鹿灯籠
 この金灯籠は、まるで金属のように思える外観に反して、その全てが和紙で出来ているため、見た目からは想像もできないほど軽く、山鹿灯籠まつりではこの金灯籠を頭にのせて、浴衣姿の女性が「山鹿灯籠踊り」を舞い踊る。

 ○山鹿灯籠の伝統を伝える「灯籠師」とは

 山鹿灯籠を語るうえで、「灯籠師」の存在は欠かせない。

 山鹿灯籠の制作技術は、この灯籠師らによって長く受け継がれ、現在、9名の灯籠師 (2018年) がその伝統を守っている。

 一人前の灯籠師になるには、10年以上の修練が必要だと言われ、高度な技術と熟練を要する厳しい世界である。

 ○数字で見る現在の山鹿灯籠

 ・灯籠師の数 : 9名 (男性4名、女性5名)

 ・千人灯籠踊りがはじめて実現した年 : 1964年 (昭和39年)

 ・伝統工芸品指定 : 2013年に国の伝統的工芸品に指定される。

 山鹿灯籠といえばこの人・松本清記 技法を集大成させた伝説の灯籠師
 松本清記 (まつもと せいき) (1880~1972)は山鹿灯籠をめざましく発展させた人物として知られる。

 清記は、1880年 (明治13年) 5月5日、旧山本郡山本村字内村 (現在の熊本県熊本市植木町) に生まれた。

 幼い頃から折り紙や絵を描くことが好きで、絵画の修行に打ち込んだ。

 優れた山鹿灯籠師であり、清記の親戚でもあった木村仙太郎の家に泊まることも多々あり、時に仙太郎の灯籠作りを手伝わされることもあった。

 20歳のとき、清記は木村仙太郎の婿養子となる。清記はその目で仙太郎の技をしっかりと見て学び、創意工夫を重ねながら独力で灯籠制作の技法を習得した。

 仙太郎が他界したのちも熱心に制作活動を続け、ついに清記は生涯の大作とも言われる『熊本城全景』を完成させ、1958年 (昭和33年) 、松本清記は同じく灯籠師である山下辰次 (たつじ) 1905年生まれ) とともに、昭和天皇・皇后の前でその技を披露し、その功績を讃えられ、山鹿市名誉市民となった。

 清記は門外不出とされていた山鹿灯籠の製作法を10数名に及ぶ弟子に丁寧に指導を行い、後継者づくりにも力を入れた。

 このように松本をはじめとする灯籠師の活動によって、灯籠制作の伝統技術は現在まで受け継がれてきたのである。

 山鹿灯籠の豆知識 まつりを彩る「よへほ節」作詞は野口雨情
 「シャボン玉」や「赤い靴」など数々の名作を残した詩人・童謡・民謡作詞家で、北原白秋、西條八十とともに童謡界の三大詩人といわれている野口雨情 ( 1882~1945) 。

 実は、山鹿灯籠まつりを彩る「よへほ節」で歌われている歌詞は、1933年 (昭和8年) に野口が元唄を改作したものである。

 この「よへほ節」の「よへほ」とは、「酔へ+ほ」からきたという説がある。

 「ほ」というのは、肥後弁特有の、他人に何か促すときや、相手の気を惹いたりする意味があり、「よへほ」は「あなたもお酔いよ、ほらっ」といった意味合いであるといわれている。

 山鹿灯籠の歴史
 ○始まりは第12代景行天皇のご巡幸から

 山鹿灯籠の歴史は、第12代景行 (けいこう) 天皇の時代に始まるといわれている。

 景行天皇が菊地川を遡り山鹿に着船するとき、濃い霧がかかっていたため、山鹿の人たちが松明を掲げて道案内し無事にお迎えしたという伝説が山鹿郡の地誌である『鹿郡旧語伝記 (かぐんきゅうごでんき) 』にのこされており、これがのちの山鹿灯籠の原始であったと言われる。

 ○史料が映す灯籠と人々の姿

 山鹿灯籠は室町時代にはすでに作られており、山鹿市にある金剛乗寺 (こんごうじょうじ) 所蔵の『當 (当) 町紙灯籠縁起由来略記』には

 「前年に逝去した宥明 (ゆうめい) 法院の供養のため、新たに住職となった宥恵 (ゆうけい) 法印が末寺の僧都 (そうず) を招集して、4月15日から7月15日に大法会を行った。その時町中が大いに喜び、組頭たちは法印のご恩に報いるため、紙細工で有名な山口兵衛に頼み紙灯籠数百を作らせた。この紙灯籠を7月15日の夜、献じたことに始まる」

 と紙灯籠の由来は1486年 (文明18年) と記録されている。

 山鹿灯籠の史料で確実なものは『嶋屋 (しまや) 日記』 (菊池市教育委員会蔵) の記事である。『嶋屋日記』には、1674年 (延宝2年) 7月16日に山鹿湯町で灯籠見物という記事があることから、少なくとも17世紀中頃には山鹿灯籠が制作され、それを人々が確かに見物していたということがわかる。

 ○江戸の頃には藩主のもてなしに

 『鹿郡旧語伝記』の「湯町灯籠ノ謂 (いわ) レ」によれば、1754年 (宝暦4年) 9月、

 「藩主細川重賢 (しげかた) より灯籠をご覧になりたいと仰せがあったので、細工人たちが制作し、熊本御花畑屋敷に納品し銀15枚を拝領した。この時、細工人13人は屋敷内の佐野の間に入ることを許され、灯籠を納め帰った」

 とある。その後、重賢は山鹿で狩りをする際、たびたび灯籠を見るようになった。

 天保年間末期から文久元年 (1843頃~1861) に作成された、肥後の名所や名物を相撲の番付形式で記した『名所名物東肥名寄 (めいしょめいぶつ とうひなよせ) 』 (個人蔵) では、山鹿灯籠は「幕内の五」とかなり上位に登場し、当時の評判がうかがえる。

 ○灯籠師、松本清記の登場

 明治に入ると、灯籠の種類も増えていく。

 1897年 (明治30年) 8月20日の『九州日日新聞』の記事には従来の宮造りや座敷造りの他に、軍艦や情景をモチーフにした作品が登場したことも書かれている。

 伝統を受け継いできた山鹿灯籠は、灯籠師・松本清記の登場により、その技法が集大成され、後継者の確保や育成がなされたことから、近代的な伝統工芸品として普及していったのであった。

 現在の山鹿灯籠
 2012年 (平成24年) には山鹿灯籠振興会が結成され、県・市・振興会が協力し合い、後継者の育成や販売拡張などに積極的に取り組み、現在では9名の灯籠師によって精巧で美しい山鹿灯籠作りが行われている。

 2013年 (平成25年) には、経済産業省の伝統的工芸品に指定された。

 また近年、山鹿灯籠の認知度をより上げるため、4名の女性灯籠師によって明治日本の産業革命遺産に登録された熊本県宇城市の「三角西港」が再現された。

*https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/116684 より


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