ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『憲法改正論争 あなたはどうする』 - 3 ( 「ねこ庭」が代弁する保守層の本音 )

2017-11-13 08:11:38 | 徒然の記

 現行憲法について、氏がどのような意見を持っているのかを紹介します。

  ・明治22年に発布された大日本帝國憲法は、天皇制を絶対視するもので、陸海軍は政府とは別に、天皇の統帥の下にあるというものでした。

  ・また人権規定はありましたが、法律を定めさえすれば、いくらでも制限することができることになっていました。

 明治憲法に関する、氏の意見です。現行憲法を信仰する左翼の学者なら、こういう意見が導かれます。字面 ( じづら ) を追った平面的解釈に過ぎませんので、反論はありますがここでは我慢することにします。

  ・現行憲法は、アメリカの押しつけ憲法であるとか、外国製の翻訳憲法」「植民地憲法などと唱える人も出てきました。

  ・確かに、国民の中から生まれたとは言えません。しかし、制定当時の一般国民の感覚を、最もぴったりした表現をすれば、押しつけでなく、「 押し頂いた憲法 」 ということになるのではないでしょうか。

   ・歴史の中で捉えるとするならば、戦争の廃絶と人権の確立を求める国際世論に合致していたという意味から、天皇制の規定以外については二十世紀的模範憲法と言っても差し支えなさそうです。

  ・また、以後国民の多数によって支持されたきた事実を重く見るならば、実質的には、自主憲法扱いをされてきたとも言えそうです。

  ・制定の背後にあった、アメリカによる 「 押しつけ 」を、国民感情の面では善意のものとして追認している、という意味です。

  前回の自由法曹団の書評でも述べましたが、 間違いの叙述ばかりでないところが、反日左翼学者の特徴です。所々に正しい意見が混じっているので、こういう本を読まされると、お花畑の人間がたちまち虜になります。「平和憲法を守れ」「戦争反対 ! 」と、声を上げます。

 長く苦しかった戦争が終わり、多くの国民が安堵の息をつき、もう戦争はいやだ、平和が一番とそういう気持ちになったのは事実です。
 
 私は母と満州から無事日本へ戻り、母の里で暮らしました。それからシベリアに抑留されていた父が戻り、親子三人で父の郷里の熊本へ行きました。
 
 以前のブログにも書きましたが、村人は戦地から戻る兵士を迎える時、村はずれの田んぼ道まで総出で迎えました。戦争を呪うとか、国を憎むとか、そんな空気はどこにもなく、村人はただ帰還した兵士の無事を喜び、祝っていました。
 
 氏はいつの時点をもって「憲法が国民に支持された。」と言っているのか、私は首をかしげます。

 私の記憶にあるのは家族を養うため、懸命に働いている大人たちの姿ばかりです。日々の暮らしに精一杯で、「憲法」など考える余地もなかったはずです。まして国民の多くが「押し頂いた」というのは、いったい誰の話なのでしょう。

 敗戦が昭和20年で、憲法の公布は翌21年です。焼け野原となった町や村では、暮らしを立て直すため、夜も昼も頑張る大人たちで溢れていました。

 氏は私より17歳年長ですから、戦後の記憶も明確だと思いますが、それでもこの時期に憲法の中身を知り、有り難がって「押し頂いた」人間が、果たして何人いたのでしょう。もしいたとすれば、政府関係者の一部か、左翼政党の活動家くらいでしょう。

 ましてアメリカの押しつけを、「国民が善意のものとして受け取っている。」という叙述は、どう考えても反日・左翼の彼らが、後からつけ加えた「作りごと」にしか思えません。

 周囲の大人たちからも、学校でも、氏の言う憲法肯定や賛美の声を聞いた覚えがありません。こうした意見は、左翼系の学者、評論家、政治家、マスコミが、寄ってたかってこしらえた「現行憲法の虚像」だと、認識しています。

  現行憲法の施行は、昭和22年の5月3日です。3年後の昭和25年6月に朝鮮戦争が始まり、マッカーサーが吉田首相に自衛隊の前身となる、警察予備隊を作らせています。世界の模範となる、素晴らしい平和憲法を作らせた張本人のマッカーサーが、たった3年後に再軍備の働きかけをしています。

 高い理想も現実の前では無残に壊れると、こういう厳しい国際情勢を知りながら、どうして氏は、平和憲法の賛美にばかり力を注ぐのでしょう。

 立派な大人でも、氏の著作だけ読めば騙されますから、まして私の息子たちなど、「お花畑」に連れ込まれてしまいます。敗戦後の日本の一端を知る自分が、ここで黙っていたら、氏の作りごとがまるで事実でもあるように、伝わっていきます。

 次に現行憲法公布直後に、文部省が出した説明文を氏が紹介しています。

  ・この憲法では、日本の国が、決して二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。

  ・その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、およそ戦争をするものはいっさい持たないということです。

  ・もう一つは、よその国と争いごとが起こったとき、決して戦争によって相手を負かして、自分の言い分を通そうとしないことを決めたのです。

 続いて氏が説明します。

  ・この解説は憲法の九条を、子供たちに、分かりやすく言い直したものと言えるでしょう。

  ・しかし自衛隊が設置された今では、とてもこういう説明では子供たちを納得させることはできません。

 その通りですが、氏と私の考えはここから違った方向へ進みます。

 日本を愛する私は、「だからこそ、憲法は改正しなくてならない。」と言い、

 日本より空想を愛する氏は、「だからこそ、平和憲法を守らなくてならない。軍事力は要らない。」・・という寝言を主張します。

 氏は帝国議会で、共産党の野坂氏の質問に答えた、当時のワンマン・吉田首相の言葉を紹介しています。

  ・正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めるということは、侵略戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、正当防衛を認むるということそれ自身が、有害であると思うのであります。

 当時は共産党が自衛権を主張し、自民党が絶対非武装論を説いていました。だからら左翼学者の端くれである氏は、次のように説明します。

  ・武装集団である国家で満ちている国際社会で、自衛権を否定することが無理なことは誰にでも分かるはずです。

  ・ところが当時の日本では、自衛権を主張する共産党は時代の趨勢に反していると言われ、絶対非武装を言う自由党の方が正しいという風潮があり、だからこそこういう吉田答弁が行われました。

 つまり、ワンマンの吉田首相でさえ平和憲法を強く肯定していると、氏は言いたいのです。けれども私は、今年の6月に読んだ本の中で、吉田首相の隠された思いを知りました。「ねこ庭」の過去記事で書いていますが、大事なことなので再度紹介します。本は保坂正康氏が書いた『後藤田正晴』で、後藤田氏が警察予備隊を作っていた時の話です。そのまま紹介します。

  ・後藤田はこの期間に、吉田茂という首相の硬骨漢ぶりを、眼のあたりにした。

  ・吉田こそは、アメリカという支配者に対して巧妙な手を用いて、自らの信念や理念を崩さず、日本の主体を守り抜くことに成功した首相だと思った。

  ・その吉田が、後藤田や外務省、旧内務省など各省からの官僚が警察予備隊に関し、シビリアン・コントロールを模索している時、突然顔を出したことがあった。

  ・吉田は講堂にこれらのスタッフを集め、新聞記者の入室を拒んだ後、こう訓示した。

  ・私は表向き、警察予備隊は軍隊でないと言い続けている。だがはっきり言って、これは軍隊である。

  ・諸君も軍隊という認識をもって、しっかりと国土を防衛するつもりで努力してほしい。

 保守自民党の政治家が世界での孤立を恐れているとか、アメリカの圧力に負けているとか、そんな低次の理由で憲法改正を考えているのではないということです。氏のような馬鹿な人間が勢いづいているから、保守政治家は臥薪嘗胆していたのです。
 
 「愛国心は、国の基本だ。」「国家と国旗は、独立の象徴だ。」「自分の国を自分で守る国が独立国である。」「軍隊を認めない日本は、このままでは独立国になれない。」
 
 吉田氏らは本音が言いたくても、当時は言えなかったのです。氏のような反日・左翼たちが、見境のない平和論を国中で広めているため、保守政治家は無用の騒ぎを避け、建前でしか喋れなくなっていました。だから私のような庶民が、彼らの代わりに本音を語り、「ねこ庭」で拡散します。
 
 つまらない本でしたが、「左翼の愚論を知る」有意義な書です。反日・左翼の思考回路を知り、息子や孫たちは惑わされないようにしなさいと、そんな願いを込めてブログを終わることと致します。
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