永 六輔氏著『大往生』( 平成6年刊 岩波新書 )を、読みました。
「往生」の時が、身近になりつつある今なので、反日左翼や腰抜け自民党議員のことより、こっちの方が大事なのだと気づかされました。
氏は昭和8年に浅草に生まれ、本名は永高雄です。巻末の略歴を見ますと、早稲田大学在学中から、ラジオ番組や、始まったばかりのテレビの、番組構成に関わっていたということです。
放送作家、司会者、歌手など、多方面に活躍していた売れっ子でしたから、すぐに顔を浮かべることができます。ネットで調べなくても、「まえがき」で氏が語っている言葉の方が、ずっと簡潔で軽妙なので、紹介します。
「浄土真宗の寺に生まれ育って、坊主になり損なった私は、それなりに " 死 " を身近に考えてきた。」
「寺育ちということで友人の葬儀を手伝ってきたが、父を看取り、さらに1992 ( 平成4 ) 年、いずみたく、中村八大と立て続けに親友を失って、私なりに死をまとめてみようと思った。」
「その頃、出演していた子供電話相談室で、どうせ死ぬのにどうして生きてるの、という質問に絶句した。」
「父だったら、どう答えるだろう。この子の質問に答えるためにも、本にしたいと思う。」
真面目に最後まで読みましたが、死とはなんであるか、どのように向き合えば良いのか、結局は分からないままでした。推理小説でないから結論を述べても、岩波書店の営業妨害にならないでしょうから、遠慮なく言いましょう。
「死には様々なかたちがあり、人ぞれぞれであるから、前もって考えたって、どうしようもない。」
「それでも、考えないよりも、考える方がマシだろう。」
こんなことは書いてありませんが、勝手に解釈しました。本の前半分は、「無名人 名語録」という言葉の抜書きです。氏の父忠順氏が集め、「ノート」にまとめたものだといいます。
人生がぎゅっと凝縮されていて、面白おかしく、切なくもある言葉が並んでいました。
・人生は、紙おむつから紙おむつ。糖尿の、話ではずむクラス会。
・百薬を、飲み過ぎ万病で入院中。
こんな川柳みたいなものから、小話のようなものまであります。
・人様の前で、人の世話にならないという人がいますが、自分で、墓の穴を掘るのでしょうか。
・人間は、自分の言った通りになんか生きられません。そんなことしたら、死んじゃいます。
・富山の温泉で、湯治客の老人がこう言って涙ぐんだ。
「孫にさ、孫にだよ。」「おじいちゃんは、大きくなったら何になるのって、聞かれちゃった。」
・その孫に伝える言葉を考えて、老人に伝えた。
「おじいちゃんは、仏様になるんだ。」・・喜んでくれるかと思ったら、いやな顔をされた。
・九十を超えてから、考えるようになったんだけどね。「 長寿 」 って言うでしょう。長く生きりゃめでたいってのは、誰が決めたんですかね。
・寝たきり老人が多くなるだけでしょ。「 寿 」なんてものじゃないようねぇ。
長生きすれば良いというものでないことを、最近は考えさせられます。先日母の見舞いに北九州へ戻り、愕然としました。九十五才の母は、腰は曲がっていますが病気ひとつせず、口も達者で頭も冴えていました。妹と暮らしているのですが、なんでも自分でする気丈な母でした。
ところが認知症が始まり、何度も同じことを尋ねるようになりました。説明しても理解できなくなり、「ああ、もう面倒くさい。」と、不機嫌になる始末です。
認知症という表現は、どこの誰が考えたのか知りませんが、ふざけた言葉です。認知できなくなっているのですから、「不認知症」というのが正確なのに、まるで逆の言葉です。
言葉が残酷であるとしても、「痴呆」が正しい表現です。いつものとおり本題から遠く離れてしまいましたが、私みたいに何にでも八つ当たりする短気者は、この本によりますと、「往生際が悪い」という部類に入るらしいです。
母を見て実感したことは、
「人は何時なんどき、痴呆に襲われるのか分からない。」
「痴呆になった人間は、別世界に生きる宇宙人みたいになる。」
という厳しい現実でした。それだけに氏の著作を身近なものとして読みましたが、参考になったのかならなかったのか、もしかしますと、私も痴呆になっているのかと、不思議な感慨をもたらす本でした。
後半は氏自身の話で興味深く読みましたが、これもまた、何の参考にもなりませんでした。氏の交友する人々は、私には懐かしい人物ばかりで、著者である氏も含めほとんどが故人ですから、ぎっしりと死の詰まった本でもあります。
親友の中村八大、いずみたく氏はもちろんですが、坂本九、寺山修司、淡谷のり子、水の江滝子、淀川長治氏など、テレビで何時も見た馴染みの顔ばかりです。ジャンボ機事故で亡くなった九ちゃんの、「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」という歌は、高校生だった頃に流行った青春の歌です。作詞が永六輔氏だったとは、本を読むまで知りませんでした。
こういう人たちとの「往生談義」が、氏の司会で進められていました。ガン告知に関する、山崎章郎氏の話を読み、己の鈍感さを自覚しました。
「その場で泣き出す人もいますし、その場は淡々としていても、後で聞くと、どのように帰宅したか覚えていないという人が、結構います。」
「告知されて嘆き悲しむことを忘れていたら、何も先に進まない。そこが重要だと思います。」
「そこで勇気を持てなかったら、自殺でもするほかないですから、そこまで追い詰められると、逆に、もっと生き延びてみようという気持ちが、湧いてくる。」
患者をたくさん診てきた医者の話ですが、告知については、私の経験とまるで違っていました。
「やっぱりそうだったか。」・・、私は心の中で呟いただけでした。
祖父も父も伯母や叔父たちも、みんなガンで亡くなっていましたから、納得してしました。覚悟とか悟りとか、そんな高尚なものでなく、ただぼんやりとした得心でした。
生存率の高い大腸ガンだったことも幸いしたのですが、当時はそのようなことも知りませんでした。
「お父さんが平気な顔をしていたから、助かったよねえ。」
手術が成功し元気になった二年後でしたか、家内が打ち明けてくれましたが、ことさら元気を出していた訳でありません。
要するに肝心な時、自分は鈍感な人間になるという発見でした。医者の話が正しいとすれば、嘆き悲しまなかった私は、あれ以来、止まったままの人間だということになります。( 何を言うのか、ヤブ医者めと、心の中で思っています。)
「じゃあ、行ってくるぞ。」
赤紙の招集令状が来て軍隊へ行く日に、父はそう言って家を出たと母が話してくれました。
「そこいらに、魚釣りにでも行くみたいに、ほんとに、のんきなお父さんだったよ。」
この親にして、この子ありです。余計な覚悟をしたり、泣いたり悲しんだりせず、成り行き任せなのですから、有難い遺伝子だと感謝せねばなりません。
しかし誠に残念なことに、反日・左翼の影法師は、やはり執拗に追いかけてきました。
・ドイツの植民地だった、青島 ( チンタオ ) で生まれ育ち、クラシックからジャズの、トップピアニストになった中村八大さんは、軍国少年の中にいて、大きくなったら作曲家になると言って、教官に叱られました。
・左翼演劇から組合活動、そして歌声運動を経てきた下町っ子のいずみたくさん。幼年学校で軍人志望でしたが、戦後は反戦を意識しました。
とうとう、今年の2月に書いた「ねこ庭」の記事を思い出しました。反日活動をする辛淑玉 ( シン・スゴ ) 氏の動画です。
・当時は辛淑玉氏の顔も名前も知らず、知っていたのは、永六輔氏と中山千夏氏だけでした。
・一番喋っていたのは辛氏と中山氏で、永氏はほとんど会話に加わらず、笑って相槌を打つ程度だったと記憶しています。
・断片的にしか思い出せませんが、このようなものでした。
「日本は昔、中国や韓国でひどいことをしたね。」
「他所の国を勝手に侵略して、沢山人を殺したよね。」
「今じゃ平和憲法なんて言ってるけど、自衛隊なんか軍隊そのものじゃない。」
「でも、戦えなくなっている。武器も使えないよ。」
「この憲法があるから、二度と戦争ができなくなったわけか。」
「外国に攻められても、憲法があるから戦えない。」
「いいことじゃない。日本人は平和憲法を守って、外国の軍隊に殺されればいい。」
「そう日本人は、全部殺されればいいんだ。」
・どちらが中山氏か辛氏の言葉か忘れましたが、永氏がこうした会話の場所にいるというのがとても不思議でした。
・今でこそ永氏が、中国系の在日外国人の十七代目だと知っていますが、当時は日本人とばかり思っていました。・・・と、これが動画の一部です。
せっかく「往生」の本に向かいながら、いつもの偏見が頭をもたげ、激しい怒りはありませんが、不愉快な思いが消せなくなりました。今の私に「死」より大切なものは、やはりまだ自分の住む「日本」です。
「往生際が悪い」・・・と、そういうことなのでしょうか。