ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 共同幻想論 』 - 4 ( 観念的マルクス主義者 ? )

2022-01-05 19:26:07 | 徒然の記

 「昭和31年、初代全学連委員長の武井明夫との共著、『文学者の戦争責任』で、」「戦時中の坪井繁治・岡本潤らの行動を批判し、」「同時に、新日本文学会における、戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の、」「昭和25年代当時の行動の是非を、厳しく問うた。」

 前回は、左翼活動家としての氏を紹介し、昭和31年当時の氏が、どんな考えを持っていたのかを知りたいと述べました。本日ネットで『知の快楽』というブログを発見し、答えの一端がありましたので、紹介します。

 「吉本は見る。」「戦前の日本社会の現状とは、超絶対主義体制のもとで、庶民が積極的に戦争へと協力させられていくような、ゆがんだあり方である。」

 氏の考え方がこう言うものであるのなら、そもそも私の意見と一致しません。大東亜戦争に関する考え方が、元から違っています。私は大東亜百年戦争を、欧米列強の侵略から日本を守るための「自衛戦争」だった、と考えています。

 しかるに氏は、日本の戦争は「侵略戦争」であり、絶対主義的強権で庶民を犠牲にした・・・と言う考え方です。簡単に言えば、「日本だけが間違った戦争をした」と断罪した、東京裁判の復讐判決そのままの意見です。

 「吉本は、庶民が絶対主義的体制に組み込まれていくことは、」「ある意味避けられないことだと、諦念しながら、」「それを、手をこまねいて見ているだけの前衛には、厳しい目を向ける。」

 「庶民が全体主義体制に組み込まれるのは、絶対主義権力の狡知によるものであって、」「その狡知は、絶対主義権力の絶対的な要件として、権力が身につけようと努力するものである。」

 こうして普通の言葉で語り、私と同じ現状認識の土俵に上がれば、氏特有の難解さはなくなります。

 「その努力に見合うだけの努力を、前衛もしなければならないのに、前衛はそれを怠った。」「それゆえ戦時中には、庶民が積極的に戦争に協力したわけであり、」「戦後も、絶対主義権力を有効に制約できない状況が生じている。」

 「位相」「逆立」或いは、「自己幻想」「共同幻想」と、聞き慣れない言葉を使っていますが、結局氏が肯定しているのは「東京裁判史観」でした。侵略戦争に庶民が巻き込まれていくのを、共産党の前衛は止めることすらしなかったと、氏の批判はここにあります。

 「そうなったことの責任の大半は、前衛が担うべきだというのが、吉本の基本的な考え方だったように伝わって来る。」

 『知の快楽』の管理者は慎重で、「・・のように伝わって来る。」と曖昧に説明しています。著名な氏への忖度でしょうから、私はそのままに受け取ります。

 「当時、前衛という言葉で吉本が指していたのは、共産党とその周辺の勢力だったわけで、」「吉本の前衛批判は、共産党批判と言い換えてもよい。」

 当時の氏は、共産党よりもさらに過激な、「観念的マルクス主義者」だったことが分かりました。武井明夫氏との共著『文学者の戦争責任』を書いた当時、氏は32才です。私の記憶にある氏の姿は、好々爺になった優しい笑顔の老人ですが、新進気鋭の左翼詩人であり評論家だったと言うことになります。

 出版した詩集に、氏自身が「左翼的な詩」と解説していたと言いますから、私が「左翼詩人」と言っても間違いではなさそうです。

 日本は無残な敗戦国となりましたが、共産主義のソ連は大国として台頭し、マルキストの憧れの国となりました。東大総長だった大内兵衛氏が、ソ連を称賛した言葉が過去の「ねこ庭」にありました。

 [ 大内兵衛 ]

 「日本は、社会主義を否定したり、排斥したりすることは、」「決してできない筋と思われる。」「もともとマルクス主義又は、レーニン主義といっても、」「本来、個人の自由の要求に出発するものであり、到達点もそうであるから、」「階級的独裁を、人権の自由に優先させることでないのは、自明であるが、」「一定の条件の元では、そういう傾向をもつのも、又事実である。」 

  「ロシアの経済学は、二十世紀の後半において、」「進歩的な、特色のある学問として、」「世界の経済学界で、相当高い地位を要求するようになるだろう。」「こういう歴史の変革のうちに、経済学者として、いよいよ光彩を加える名は、」「レーニンと、スターリンでありましょう」

 左翼詩人の吉本氏が、ソ連を称賛しない訳がないと私が考えるのは、考えすぎなのでしょうか。

 『知の快楽』には、さらに氏に関する説明が続きます。

 「吉本が、その批判を展開するようになった時には、」「共産党は敗戦直後に誇っていた権威を、次第に失いつつあった。」「それどころか、人々のあいだには、共産党嫌いの現象も広まりつつあった。」「だから吉本の前衛・共産党批判は、そうした共産党嫌いの風潮に便乗したという見方もある。」

 聡明な氏は、理論的に完成したものに知的関心を奪われ、心を奪われたものは発表せずにおれない、実戦の知識人だったと私は考えます。氏の知力の柔軟性は、右でも左でも、縦でも横でも、およそ思想と名のつくものなら、なんでも取り組みの対象として分析・批判したのではないでしょうか。風潮に便乗したという言い方をするのは、少し酷な気がします。

 頭脳明晰な人物を、私は何人も知っています。どんな難問でも理解し、何にでも答えの出せる非凡な人物の欠点は、多くの場合、魂が欠けていることです。日本人であれば、日本人としての魂、ドイツ人であればドイツ人の魂です。簡単な言葉で言えば、「自分の国の文化や歴史を大切にする心」、もっと単純に言えば「愛国心」です。

 氏のように知識人を自認する人々は、「愛国心」をそのまま戦前と結びつけ、嫌悪し、口に出すのさえ嫌がります。世界にいくつの国があり、どのくらいの国民が住んでいるのか、正確な数字を知りませんが、自分の国を愛せない人間が、こんなにもいる戦後の日本の異常さについて、氏は考えません。右左ともに、日本の知識人の魂の欠落がここにあります。

 「ともあれ吉本自身は、戦時中には積極的な体制批判は行っていない。」「まだ年が若かったと言うこともあるが、その割には自分から兵役を逃れる動きをしたりして、」「政治的と見られる行動を、取ったりもした。」「そういう吉本が戦後になって、戦争責任の問題について、」「声高に発言するようになったことは、興味をそそれらるところである。」

 『知の快楽』の最後は、このような説明で終わっています。息子たちや「ねこ庭」を訪問される方々に、最後の説明文を紹介するのがためらわれますが、あえて転記しました。

 「ネットの情報」も、マスコミの記事や映像同様、正しい事実を伝えているとは限りません。あくまでも参考情報です。書評はまだ始まっていませんので、次回からの「ねこ庭」を楽しみにして下さい。

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『 共同幻想論 』 - 3 ( 社会人としての氏 )

2022-01-05 12:34:22 | 徒然の記

 クルミの固い殻を柔らかくするため、もう少し氏の経歴を追いましょう。 

 「昭和12年、12才で東京府立化学工業高校入学、」「昭和17年、米沢高等工業高校 ( 現山形大学 ) 工学部入学、」

 「昭和20年向島での勤労奉仕後、東京工業大学に進学。」「昭和22年、同大学電気化学科卒業。」

 予想していた通り、氏は理工系の大学で学び、電気化学科を卒業しています。だとすれば、「位相」・「逆立」は奇を衒った用語でなく、慣れ親しんだ言葉です。大正末期生まれとはいえ、あの時代に、高校・大学で学び、しかも大学を二つも出ると言うのは、凡庸の学生ではありません。

 家庭も裕福だったのでしょうが、それ以上に、頭脳の明晰さが要ります。平凡だった学生時代の自分と比較すれば、優秀さが理解できます。

 しかし、「天は二物を与えず」とはよく言ったもので、氏のように「頭脳明晰」な人物は、往々にして「凡人の常識」に欠けています。自分が知っていることは、誰にでも分かると早合点し、「位相」・「逆立」或いは、「全幻想領域」などと言う用語を、平気で使います。

 説明する気もないし、分からない人はわからなくていいと、割り切っています。それが氏の著作で、そのうちの一冊が『共同幻想論』だったことを、経歴が教えてくれます。

 「なお吉本は、第二次世界大戦の〈 総力戦 〉のもと、」「最大の動員対象とされ、もっとも死傷者が多く、」「幼少期は皇国教育が激化し、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかった、」「いわゆる〈 戦中派 〉の世代である。」

 そんな氏が東京工業大学に進学したのは、敗戦後のことです。

 「昭和20年、在学中に数学者遠山啓 ( ひらく ) と出会っている。」「敗戦直後、遠山教授が開講した自主講座で、」「 〈 量子論 〉の数学的基礎を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。」

 それならばなおさら、「位相」・「逆立」の電気用語と氏の関連が分かります。複雑で捉え所のない、思考の世界を理解する手段として、〈 量子論 〉の数学的基礎の活用が閃いたのかも知れません。

 「大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、」「労働組合運動で職場を追われ、昭和24年、東京工業大学大学院特別研究生の試験に合格し、」「給与を受けながら、東京工業大学無機化学教室に戻り、稲村耕雄助教授に就く。」

 労働運動で職場を追われたら、普通の人間はそこから転落の人生が始まりますが、氏は再び実力で大学へ戻ります。しかも給与を受けながらの、特別研究生です。

 それだけでなく、氏は昭和18年から、宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、仏典の影響を受けながら、本格的な詩作を始めていると書かれています。

 電気、数学、哲学、仏典、詩作・・、氏はまさに探究心に満ちた青年です。目の前にあるものを、なんでも我が物にしようとする意欲の塊でもあります。影響を受けた詩人として挙げられている、宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一など、どんな繋がりがあるのか、不思議な選択です。詩作の関連事項に仏典が挙げられているのは、宮沢賢治の影響でしょうか。

 「昭和26年、当時インク会社として最大手の、東洋インキ製造株式会社に就職した。」

 「昭和27年、詩集『固有時との対話』を自家版として発行。翌28年、詩集『転位のための十篇』を自家版発行。」

 会社勤めの傍ら、氏は次々と詩集を発表しています。昭和29年に、「荒地新人賞」を授賞し、同人として参加していきます。『現代評論』に『マチウ書試論』を発表し、さらに注目されます。

 「昭和31年、初代全学連委員長の武井明夫との共著『文学者の戦争責任』で、」「戦時中の坪井繁治・岡本潤らの行動を批判し、」「同時に、新日本文学会における、」「戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の、昭和25年代当時の行動の是非を、厳しく問うた。」

 「また吉本は、昭和31年に、東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職。」

 詩作と同時期に、労働組合運動にも力を入れています。会社にとって、氏のような社員は厄介な人物だったであろうと思います。最初の就職でも、組合運動で職場を追われていますから、既に左翼活動家としての氏がいます。

 『文学者の戦争責任』を読めば、どのような思考経路で活動家になったのか分かると思いますが、今はそこまでする気がありません。

 「『遠野物語』にも『古事記』にも、編者たちの問題意識の自然な表れとして、」「それぞれの方法が貫かれている。」「そしてこれらの方法は、私の問題意識とは違っているため、」「記載された内容について、重点の置き方が当然違っている。」

 「そのため引用に際しては、私の問題意識に沿って、」「要約や読解や、勝手な引用がなされた。」

 後記 ( あとがき ) の中で氏が述べている通り、哲学であれ文学であれ、マルクス主義であれ、自分の問題意識に沿って取捨選択しています。思考回路が私と異なっていますので、余計なことに注意を向けないことにしました。

 『共同幻想論』の書評のためだけで、こんなに回り道をしています。これ以上の時間の消費は、人生の無駄になる気がします。

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