ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 共同幻想論 』 - 5 ( 氏が影響を受けた人々 )

2022-01-06 16:19:03 | 徒然の記

 吉本氏が、自分に影響を与えた人物として語っているのは、次の6人です。

   カール・マルクス ・・プロイセン出身の哲学者、思想家、革命家 

             『共産党宣言』 『資本論』 

   ジークムント・フロイト ・・オーストリアの心理学者、精神科医

             『精神分析入門』 『リビドー理論』 

   小林秀雄 ・・・文芸評論家、編集者、作家、( 保守文化人の代表者だった )

             『様々なる意匠』 『私小説論』 『ドストエフスキイの生活』

   親  鸞  ・・・鎌倉時代の仏教家、浄土真宗の宗祖、( 法然を師と仰いでいた )

             『教行信証』 

   保田与重郎 ・・・文芸評論家、( 戦争賛美者として、戦後に公職追放 )

             『文學の立場』『民族的優越感』『近代の終焉』 

   遠山 啓  ・・・数学者、東京工業大学名誉教授

             『数学教育論シリーズ』(全13巻)

 この6人を見ていますと、氏を「観念的マルクス主義者」と表現したのは間違っていなかったと、そんな気がします。マルクス以外は誰も共産主義者でなく、小林氏や保田  ( やすだ ) 氏はむしろ保守系の人物です。

 共通しているところを強いて探すと、これらの人物は生きている間、毀誉褒貶に晒されていたと言うところでしょうか。

 反対者がいても、自分の信じる思想や学説や意見を述べ、努力と研鑽を重ねた過酷な生涯を送った人々です。マルクスとフロイトの名前を見ますと、世間で言われる通り、ユダヤ人が優秀な民族であることを、改めて考えさせられます。

 親鸞はマルキストでありませんし、他の4人もそうですから、彼らを並べて見るだけで、氏の精神世界の複雑さが見えてきます。本人は反対するのでしょうが、私から見れば氏は、「観念的マルクス主義者」であり、「観念的フロイト主義者」であり、「観念的親鸞主義者」であり、「観念的遠山主義者」に見えてなりません。

 この中で一番影響を受けているのが、どうやらマルクスのようです。氏が批判しているのは、共産党とその親派の文化人たちで、マルクス主義ではありません。マルクスの天才的頭脳が生み出した精緻な理論の虜となった、氏の頭脳を発見します。

 平成3年にソ連が崩壊し、マルクシズムの失敗が世界に晒され、多くの社会主義者たちが挫折や転向をしました。平成24年に亡くなった氏は、その事実を見ているのに、「マルクシズムの失敗」に影響されていないようです。

 「ソ連という国家が失敗したのであり、マルクシズム理論は破綻していない。」

 おそらくこの頑固さが、「観念的マルクス主義者」である由縁だろうと思います。私の言う意味は、氏とよく似た人物の話をすれば分かります。マルキスト大内兵衛氏の、「ソ連評価」の談話です。

 「もともとマルクス主義又は、レーニン主義といっても、」「本来、個人の自由の要求に出発するものであり、到達点もそうであるから、」「階級的独裁を、人権の自由に優先させることでないのは、自明であるが、」「一定の条件の元では、そういう傾向をもつのも、又事実である。」 

 ソ連政府が国民の言論を封殺し、自由に意見を言わせないのは、社会主義国家建設の途上にあるからだ、という意見です。建設途上の時間が、百年かかろうと、彼らは構わないのです。こうした学者たちが見ているのは、現実の国際社会でもなく、現在の弾圧されている国民でもありません。

 頭脳明晰な知識人たちが見ているのは、「理論の正しさ」だけですから、私は氏のような人たちを「観念的マルクス主義者」と呼びます。

 ただ氏が、そこいらの「観念的マルクス主義者」と違うのは、同時に、異質の思想の人々に賛同しているところです。フロイト、小林秀雄、親鸞などなどと、その関連性のない無秩序さが、返って魅力になっているようです。理解できないややこしさに惑わされ、「知の巨人」などと誤解する人間が出てきます。

 「僕は詩を描き、批評文も書いて、文学理論上の問題をずっと扱ってきた訳です。」「そこで社会主義リアリズム論、スターリズムの芸術論に突き当たりました。」

 『共同幻想論』の「序」の部分の文章を転記していますが、元の文章は冗長で分かりにくいので、私が勝手に省略しています。『遠野物語』に関して、氏も同じことをしていますから、問題はないような気がします。

 「そういうものが、日本では、非常に支配的な一つの文学理論であり、」「同時に文学方法であり、文学から見た世界観である、」「という形で流通している。」

 ここで息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に報告したいのは、氏の芸術論ではありません。文学理論を考えていたら、どうして当然のように、社会主義リアリズム論やスターリズムの芸術論に突き当たるのかという点です。

 『源氏物語』『枕草子』『浮世床・浮世風呂』『東海道中膝栗毛』など、昔からの日本文学を考えていれば、当然のように、社会主義リアリズム論に行きあたるでしょうか。

 こういうところに、私は氏の偏狭さというか、「観念的マルクス主義者」の限界というのか、そういうものを感じます。

 批判ばかりしているように見えますが、見習うべき点も発見していますので、次回はそれについてご報告します。

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