『共同幻想論』を読み終えました。
1. 序 2. 禁制論 3. 憑人論 4. 巫覡論 5. 巫女論
6. 他界論 7. 祭儀論 8. 母制論 9. 対幻想論 10. 罪責論
11. 規範論 12. 起源論 13. 後記
読後感はやはり、「取り止めもない話」の一言に尽きます。
「一神教的か多神教的か、汎神教的かということは、」「それ自体は別に、宗教的風土の特質を表すものではない。」
氏は断定し、フロイト、ヤスパース、フォイエルバッハ、ニーチェや、カントの言葉をたくさん引用します。彼らの言葉に同調するというより、反論したり批判したりし、「幻想論」の妥当性の補強材として使っています。
しかし西欧の哲学者たちが「神」を語るとき、彼らの意識内にあるのは「キリスト教」です。日本の「八百万の神」が、思考の中にあるのではありません。
彼らが述べている「家族」、「共同体」、「国家」の概念は、一神教の風土と文化の中でのものです。同じ言葉だとしても、中身が異なっているのですから、彼らの主張をそのまま取り入れたり、援用したりすること自体が、論理の歪みと曖昧さをもたらしているのではないでしょうか。
例えばの「10.罪責論」の194ページで、次のように説明しています。
「ニーチェは『道徳の系譜』の中で、原始的な種族共同体の内部では、」「現存の世代は先行の世代に対し、とりわけ種族を草創した最初の世代に対して、」「不可解な義務を負うものとして考えられており、」「種族の社会は、徹頭徹尾祖先の犠牲と功業のおかげで、存立するという観念が支配するものである旨を、述べている。」
ここで氏は、ニーチェと同じことを述べている人物として、折口信夫氏の意見を紹介しています。
「日本の農民は、祖先から、尊い者に対する原罪を背負ってきているものと考え、」「これをあがなうために、務めてきたのである。」
多くのことを省略しますが、ここで吉本氏が言おうとしているのは、日本人の心の一部である「祖霊信仰」の否定です。つまり「祖先の犠牲と功業のおかげで、現在の自分たちが存立するという観念」、「感謝と尊敬の念」の否定です。
一神教の文化と風土の中で語るニーチェの言葉、「種族」「種族共同体」「世代」「犠牲」が、日本人とそっくり同じ概念であると、どうして氏は考えるのでしょう。まして「原罪」などというものは、とってつけてような概念でしかありません。原罪という思考は、元々日本になく、吉本氏が、自分の主張をもっともらしくするため使用したに過ぎないと、私は考えます。
「対幻想」としての家族を説明するときにも、フロイトやヘーゲルの難解な言葉が引用されます。氏の文章が「分かりにくい」のは、こうした哲学者の「難解な」意見を多用するから、自然と影響を受けたせいかもしれません。
206ページで、ヘーゲルの『精神現象学』の言葉を、氏が紹介しています。
「子供に対する両親の敬愛も、自己の現実を他者の中に持っており、」「他者のうちに、自立存在が生成していくのを見るだけで、」「それを取り戻し得ないという感動に、影響されている。」
私には、何のことなのかさっぱり分かりません。
「だがこれとは逆に、子供の両親に対する敬愛は、」「自分自身の生成、つまり、自体を、」「消えていく両親において持っており、自立存在や自己意識は、」「その本源である両親から別れることによってのみ、」「獲られるという感動に伴われているが、この分離のうちで、」「その本源は枯れていくのである。」
ヘーゲルの著作を何冊も読めば、彼の用語と思考回路が分かるのだと思いますが、分かったところで、私とは何の関係もありません。私は父や母に対し、そんな気持ちを抱いたことはなく、貧しいやりくりの中で、よくも大学まで行かせてくれたという、感謝しかありません。
親を超えるとか、自立自存が親から離れることによって達成されるなど、そんな不遜なことは思ったこともありません。それゆえ私には、氏が当然のようにヘーゲルを引用し、フロイトを紹介する行為が理解できません。
どうしてこのような著作を、息子は本気で読んだのか。企業戦士の一人として生き、月月火水木金金と休日無しで働いた、あの日々が息子たちを孤独にさせたのか。子に無関心な親として、諦めさせてしまったのか。
けれども当時は、誰もがそうして働き、日本の成長につながっていました。自分の両親の世代を思えば、もっと過酷な状況で仕事に精を出し、親子の会話どころか、顔を見ることもなく過ぎていく日々でした。
親たちの仕事や、子供に構ってやれない忙しさに原因があるのでなく、むしろ吉本氏のような思索家が、子供たちを惑わしたのではないかと、そんな気がしてなりません。敗戦後に跋扈した反日左翼学者、共産党に率いられる日教組や日弁連などなど、嫌悪する「日本の害虫勢力」の仲間に、氏も加えたくなる私です。
goo事務局のスタッフの方々から、「警告」を受けるのかもしれませんが、次回も「書評」を続けます。興味のない方は、スルーしていただければ幸いです。