1. 序 2. 禁制論 3. 憑人論 4. 巫覡論 5. 巫女論
6. 他界論 7. 祭儀論 8. 母制論 9. 対幻想論 10. 罪責論
11. 規範論 12. 起源論 13. 後記
146ページの「7.祭儀論」を読み終え、これから「8.母制論」にかかろうとしています。「7.祭儀論」まできますと、神話につながる天皇が登場し、いわゆる国・・氏のいう「国家論」が語られ始めます。全学連のリーダーたちが、どうして『共同幻想論』に惹かされたのかが、ここまで来るとおぼろに見えてきます。
一口に「国家論」と言っても、私たちが教えられたものは、さまざまです。西欧の学者たちが、「野獣的国家」、「夜警国家」、「福祉国家」、「搾取的国家」、「人民的国家」、「多元的国家」、「国民的国家」など、自説を展開しています。
おそらくそれは、ルソーの社会契約説以来、「国家」の成り立ちを考えることが、時代の必然となったからだと思います。どの国家論にも、それなりの組織機構があり、堅固な体制があります。これらの権威ある諸説に対し、吉本氏は、「幻想」という特異な用語で自説を展開しました。
「ある種の ( 日本的な ) 作家や思想家は、よく西欧には一神教的な伝統があるが、」「日本には多神教的、或いは汎神教的な伝統しかないなどと、」「安っぽいことを流布しているが、もちろん、」「でたらめを言いふらしているだけである。」
前回の「巫女論」で氏はこのように述べ、日本的な作家と思想家を批判しました。「国家論」についても、氏のスタンスは同じです。確立された、世間の「国家論」を、氏は「幻想」という奇抜な言葉で説明し、権威を否定しました。個人の力ではどうにもならない強大な国家を、人間の「幻想」に過ぎないと語るのですから、過激派の学生たちが喜ぶはずです。
「幻想」に過ぎないのなら、「国家」は自分たちの力で変えられる。変えられるだけでなく、破壊し粉砕できると、力を得たに違いありません。氏自身は、おそらく自覚しているのだろうと思いますが、「幻想」という用語は、猪突猛進しがちな若者を惑わす、不安定な言葉です。
「幻想」という言葉を「常識」の世界で検討しますと、幻影や幻覚の意味が消え、次のようになります。
「考え」、「思考」、「思想」という言葉に置き換わり、「個人の考え」「個人の思考」、「個人の思想」となります。さらに検討すると、「個人が所属する共同体の考え」、「個人が所属する共同体の思考」、「個人が所属する共同体の思想」となり、最後には、「個人が所属する国家の考え」「個人が所属する国家の思考」「個人が所属する国家の思想」となります。
「幻想」という用語があやふやな印象を与えていますが、氏の使っている「幻想」は、学生たちが考えているような、手軽な言葉ではありません。この言葉は次第に「世論」、「民意」、「風潮」、「思潮」という概念に変化しますが、こうなりますと「簡単に変えられる」ものではなくなります。
過激派の学生たちが、60年安保の激しい闘争の中で、『毛沢東語録』を振りかざした紅衛兵のように、『共同幻想論』を小脇に抱えた気持ちが想像できます。しかし彼らの行動こそが、「幻想」でしかなかったという事実が、今の私には分かります。
「13.後記」の中で、氏は次のように述べていました。
「『遠野物語』にも『古事記』にも、編者たちの問題意識の自然な表れとして、」「それぞれの方法が貫かれている。」「そしてこれらの方法は、私の問題意識とは違っているため、」「記載された内容について、重点の置き方が当然違っている。」
「そのため引用に際しては、私の問題意識に沿って、」「要約や読解や、勝手な引用がなされた。」
「幻想」という言葉を、自分の問題意識に沿って、意味を変えたように、『遠野物語』も『古事記』も、私たちと違った読み方をし、解釈をしています。だからと言って、そのことで氏を批判しているのではありません。
どんな本を読むにも、惑いつつためらいつつ、難渋している私と比較すれば、氏の聡明さには脱帽します。自分なりの解釈をし、本にし、世間に公表する才覚は、私にはありません。難解な哲学書や経済学書を読みこなすだけでなく、自在に活用するのですから、凡庸な人間には真似のできない知の高さです。
それでもなお、なぜ氏の批判を続けるのかには、切実な訳があります。
『共同幻想論』を紹介してくれたのは、kiyasumeさんですが、本を見つけたのは、長男が私の家に預けている本棚の中でした。あちこちにされた書き込みと、引かれた棒線を見ますと、息子が時間をかけて読んでいるのが分かりました。
どうして惹かされていたのか、最初は軽い興味でしたが、読み進むうちに、魂のない思索家に惑わされている息子を知るのが、辛くなりました。
『遠野物語』の教えの核心の一つは、「祖霊信仰」にありますが、吉本氏はこれを無視しました。私たちのご先祖が素朴に信じ、大切にしていた信仰ですから、これを省略しますと、日本人の魂も消えます。
思想や信仰を個人の自由と考えていますから、私は、氏の思考について、批判はしても、反対や妨害はしません。ただ自分の息子が、氏の影響下にいるとしたら、心の平和が消えます。何かの機会があったら、『共同幻想論』について話をしてみたいと、思っていますから、私は、著作の書評を続けています。
「政治」と「神様」、或いは「思想」について、時々顔を合わせても、私と息子はそれとなく避け、別の会話で終わっています。私が死ぬまで、このような状態ではないかと思ったりします。
これらは、私個人の話ですが、kiyasumeさんと、「ねこ庭」を訪問される方々に、お伝えしたくなりました。