〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( 敗戦後の岸氏 )
敗戦後の岸氏について、松田氏の説明を駆け足で紹介します。
・岸信介は8月15日、郷里の田布施で病の床に身を横たえながら、敗戦を伝える天皇の玉音放送を聞いた。
・昭和20 ( 1945 ) 年 9月、GHQは39人の戦争犯罪人に逮捕命令を発した。この日以降翌年の4月29日までのA級戦犯容疑者は、総計100名を超えた。
・昭和20年9月12日に逮捕状の出た岸は、実家の田布施から横浜拘置所へ護送された。48才の時だった。
・東條が左腹部に銃弾を撃ち、自殺を図ったのは9月11日のことだ。事件を知った岸は、衝撃を受ける。
松田氏は「左腹部」と書いていますが、軍人が自決するのに「左腹部」では話が通りません。私の記憶とも齟齬しています。調べてみると思った通り、ウィキペディアが別の説明をしていました。
「東條は前もって隣家の医師に頼んで心臓の位置を教えてもらい、心臓部分に墨で黒い印をつけてもらっていた。」
「東條は応接間の椅子に座り、右手に持った拳銃で自らの胸を撃ったとみられる状況で発見された。
つまり東條総理は、MPが逮捕に来た時、自決を急いだために失敗したのです。小さなことかもしれませんが、松田氏の捏造を指摘しておきます。
・檻房の囚人に対するアメリカ側の扱いは、劣悪なものだった。裸体の検査で下着を奪われた彼らは、タオルを用いて代用にした。裸体検査は頻繁に行われ、寝巻きや枕を奪われ、読みかけの本を取り上げられた。
・散歩中に室内の所持品を持ち去られ、便所の落とし紙の配給を停止された。岸らがたびたび命じられる使役に、室内の廊下の側壁と天井をブラシで落とす労働があった。明らかな虐待だった。
・とりわけ頻繁に行われる裸体検査は、屈辱的なものだった。岸が、アメリカへの敵愾心を抱いたとしても不思議はない。
松田氏は、岸氏の「アメリカへの対抗心」をどうしても矮小化したいと見えます。言いたくはありませんが、週刊誌のトップ記事屋はたかだかこの程度の思考しかできないようです。岸氏が、監獄での仕打ちだけでアメリカに敵愾心を持ったのでなく、国の指導者だった人々を貶めるアメリカへの公憤だったと、私ならそう言います。
・昭和23 ( 1948 ) 年 11月12日、極東国際軍事裁判所はA級戦犯25名全員に有罪判決を言い渡した。東條ら7名は絞首刑、平沼麒一郎、賀屋興宣ら16名は終身禁固、東郷茂徳は禁固20年、重光葵は禁固7年だった。しかしここに、岸信介は入っていない。
岸氏は後年獄中のメモを元に、中央公論社から『岸信介巣鴨獄中日記』を出しています。この中から松田氏が、東京裁判の判決に関する岸氏の意見を紹介しています。
・今回の東京判決は、その理由において事実を曲げた一方的偏見に終始しているばかりでなく、各個人に対する刑の量定においても、極めて杜撰で乱暴極まるものと言わざるを得ない。
・満州事変にしても支那事変にしても、大東亜戦争にしても、これらの事実が起こるに至った国際関係や背景等は、すべて日本の侵略的意図という偏見をもって片付けている。
・東京裁判の判決を見ると、予らの起訴せられる日も遠くあるまい。キーナン検事の談として新聞に報ぜられてから、幾たびか釈放の希望を持たされたのであるが、今やその希望は全くない。
・今日の誕生日を、家族団欒で迎えられるだろうと考えていたことは、全く甘かったのである。
これが後年洋子氏に氏が語ったという、2回目の死の覚悟だと思います。その氏がなぜ釈放されることになったのか。重要なことなので、松田氏の説明を次回に紹介します。さらに重要なことは、旧統一教会に関連する叙述があることです。氏は気づかずに、別の問題として説明していますが、「ねこ庭」のレーダーが感知しましたので合わせて紹介いたします。