ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『絶頂の一族』- 7 ( 敗戦後の岸信介氏 )

2024-04-24 20:28:49 | 徒然の記

  〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( 敗戦後の岸氏 )

 敗戦後の岸氏について、松田氏の説明を駆け足で紹介します。

  ・岸信介は8月15日、郷里の田布施で病の床に身を横たえながら、敗戦を伝える天皇の玉音放送を聞いた。

  ・昭和20 ( 1945 ) 年 9月、GHQは39人の戦争犯罪人に逮捕命令を発した。この日以降翌年の4月29日までのA級戦犯容疑者は、総計100名を超えた。

  ・昭和20年9月12日に逮捕状の出た岸は、実家の田布施から横浜拘置所へ護送された。48才の時だった。

  ・東條が左腹部に銃弾を撃ち、自殺を図ったのは9月11日のことだ。事件を知った岸は、衝撃を受ける。

 松田氏は「左腹部」と書いていますが、軍人が自決するのに「左腹部」では話が通りません。私の記憶とも齟齬しています。調べてみると思った通り、ウィキペディアが別の説明をしていました。

  「東條は前もって隣家の医師に頼んで心臓の位置を教えてもらい、心臓部分に墨で黒い印をつけてもらっていた。」

  「東條は応接間の椅子に座り、右手に持った拳銃で自らの胸を撃ったとみられる状況で発見された

 つまり東條総理は、MPが逮捕に来た時、自決を急いだために失敗したのです。小さなことかもしれませんが、松田氏の捏造を指摘しておきます。

  ・檻房の囚人に対するアメリカ側の扱いは、劣悪なものだった。裸体の検査で下着を奪われた彼らは、タオルを用いて代用にした。裸体検査は頻繁に行われ、寝巻きや枕を奪われ、読みかけの本を取り上げられた。

  ・散歩中に室内の所持品を持ち去られ、便所の落とし紙の配給を停止された。岸らがたびたび命じられる使役に、室内の廊下の側壁と天井をブラシで落とす労働があった。明らかな虐待だった。

  ・とりわけ頻繁に行われる裸体検査は、屈辱的なものだった。岸が、アメリカへの敵愾心を抱いたとしても不思議はない。

 松田氏は、岸氏の「アメリカへの対抗心」をどうしても矮小化したいと見えます。言いたくはありませんが、週刊誌のトップ記事屋はたかだかこの程度の思考しかできないようです。岸氏が、監獄での仕打ちだけでアメリカに敵愾心を持ったのでなく、国の指導者だった人々を貶めるアメリカへの公憤だったと、私ならそう言います。

  ・昭和23 ( 1948 ) 年 11月12日、極東国際軍事裁判所はA級戦犯25名全員に有罪判決を言い渡した。東條ら7名は絞首刑、平沼麒一郎、賀屋興宣ら16名は終身禁固、東郷茂徳は禁固20年、重光葵は禁固7年だった。しかしここに、岸信介は入っていない。 

 岸氏は後年獄中のメモを元に、中央公論社から『岸信介巣鴨獄中日記』を出しています。この中から松田氏が、東京裁判の判決に関する岸氏の意見を紹介しています。

  ・今回の東京判決は、その理由において事実を曲げた一方的偏見に終始しているばかりでなく、各個人に対する刑の量定においても、極めて杜撰で乱暴極まるものと言わざるを得ない。

  ・満州事変にしても支那事変にしても、大東亜戦争にしても、これらの事実が起こるに至った国際関係や背景等は、すべて日本の侵略的意図という偏見をもって片付けている。

  ・東京裁判の判決を見ると、予らの起訴せられる日も遠くあるまい。キーナン検事の談として新聞に報ぜられてから、幾たびか釈放の希望を持たされたのであるが、今やその希望は全くない。

  ・今日の誕生日を、家族団欒で迎えられるだろうと考えていたことは、全く甘かったのである。

 これが後年洋子氏に氏が語ったという、2回目の死の覚悟だと思います。その氏がなぜ釈放されることになったのか。重要なことなので、松田氏の説明を次回に紹介します。さらに重要なことは、旧統一教会に関連する叙述があることです。氏は気づかずに、別の問題として説明していますが、「ねこ庭」のレーダーが感知しましたので合わせて紹介いたします。 

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『絶頂の一族』- 6 ( 東條総理との対立 )

2024-04-24 09:14:44 | 徒然の記

 実を言いますと、私は岸信介氏についてほとんど知りません。氏が日米安保条約を改定したのが、私の高校時代でしたから、激しい反対運動の中で改定を強行した首相として記憶があるだけです。

 アメリカに保護される代償として、国内各地に米軍基地を提供すると言う不平等な条約を、日米が対等な立場で相互に安全保障をする内容に変えたのですから、日本の自立を一歩前進させた政治家だと理解し、評価をしてきました。

 私が「憲法改正」を日本の最優先課題と考えるようになったのは、氏の影響ではありません。「ねこ庭」で温故知新の書に学び、試行錯誤した結果ですから、安倍元首相や洋子氏の感化もありません。今回松田氏の著作を読み、岸氏と洋子氏が強い「憲法改正論者」だと知り意外感に打たれたくらいです。

 今考えているのは、氏の著書から見つけた岸ファミリーの過去を、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へのどのように紹介するかです。幸い松田氏は洋子、信介、晋三氏の賛美者でなく批判者なので、返って偏らない事実が見つかるのではないかと期待します。目次に従うと、氏の著作は次の順番になっています。

  第1章 祖父・岸信介       第4章 父・晋太郎の隠れた弟

  第2章 父・安倍晋太郎      第5章 妻・安倍昭恵

  第3章 叔父・西村正雄      第6章 母・安倍洋子

 氏が「あとがき」で述べていますように、『週刊現代』に執筆した記事をベースとし、全面的に書き下ろした本なので似たような記述が各章にあります。目次に沿って人物の紹介をするつもりですが、他の章からの抜書きも混じると思います。

 目次の人物は、本のカバーに写っている6人のファミリーです。重要人物と思われる佐藤栄作氏が省略されている所を見ますと、松田氏がテーマのため取捨選択をしていることが分かります。従って私も、自分のテーマのため中身を取捨選択します。既にシリーズが6回目になっていますから、全部の人物の紹介は困難になっています。

 長い前置きになりましたが、早速第1章から始めます。

 〈 第1章 祖父・岸信介 〉

  ・岸は大正4 ( 1920 ) 年に東京帝大を卒業し、農商務省 ( 後に農林省と商工省に分離  ) に入省

  ・省内きっての辛辣なエリート官僚として、出世の階段を駆け上がる

  ・当時の満州国で絶大な支配力を誇っていたのは、70万人の軍隊を持つ関東軍だった。岸が関東軍から乞われて満州へ渡ったのは、昭和11 ( 1936 ) 年40歳の時だった

  ・岸は満鉄と並ぶ大コンツェルン「満州重工業開発株式会社」を設立。満州総務庁次長に就き満州国首脳の一人として、石炭、鉄鋼などの生産力増強を図った

  ・4年近くで満州から帰国した岸は、商工省次官に就き、昭和16 ( 2041 ) 年に東條内閣の商工大臣になる。同年12月、日本軍が真珠湾を奇襲し太平洋戦争に突入した。

 これまで満州国にあった日本の巨大組織は、関東軍と満鉄 ( 南満州鉄道  ) の二つだと思っていましたが、もう一つ大コンツェルン「満州重工業開発株式会社」の存在を教えられました。

 温故知新の読書をしたのに、岸氏の関係した会社を知らなかった理由は、設立年を比較すると分かりました。

  関東軍の設立       ・・・明治39 ( 1906 ) 年 11月

  満鉄 ( 南満州鉄道  ) の設立 ・・・明治39 ( 1906 ) 年 11月

  満州重工業開発株式会社の設立 ・・・昭和12 ( 1937 ) 年 12月

 国内での反対論を押し切り、関東軍が清朝最後の皇帝溥儀を迎え満州国を設立したのが、昭和7 ( 1932 ) 年 9月ですから、関東軍と満鉄はその26年も前から満州に進出していたことになります。

 岸氏の経歴を語る上で、満州重工業開発株式会社は大きな位置を占めますが、満州の歴史全体を述べる時は小さな比重になります。したがって、過去に読んだ本の中で取り上げられなかった理由が分かりました。満州重工業開発株式会社と満鉄に関する詳しい説明がありますが、ここでは省略し、岸氏の経歴に戻ります。

  ・商工省の改編で軍需省が新設され、岸が国務大臣兼軍需次官に就くのは昭和18 ( 1943 ) 年。軍需大臣になったのは東條だった

  ・東條は総理だけでなく、外務大臣、陸軍大臣に加えて軍需大臣を兼務。翌年には参謀総長も兼務し、独裁的な巨大権力を掌握した。

 当時国民には隠されていましたが、ミッドウェーの海戦で空母4隻を失い、戦局は悪化の一途を辿っていました。岸氏が東條総理と決定的な対立に至ったのは、サイパン陥落だったそうです。『岸回顧録』の中の言葉を、松田氏が紹介しています。

  ・サイパンを失ったら、日本はもう戦争はできないという私の意見に対して、東條さんは反対で、そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何が分かるかというわけです。

  ・B29の本土への爆撃が頻繁に行われて、軍需生産が計画通りできなくなるし、私は軍需次官としての責任を全うできなくなった。

 独裁的な権力を持つ東條総理に異議を唱えることがどれほど恐ろしいことか、総理の強要する辞職勧告を拒絶する岸氏は、暗殺の標的にされたと言います。松田氏が洋子氏の回想『父岸信介の素顔』の中の一文を紹介しています。

  ・父が態度を崩さぬことに腹を立てた四方 ( しかた ) という憲兵隊長は大臣官邸へ押しかけてきて、軍刀を突きつけ、

   「東條閣下が右向け右、左向け左と言われたら、閣僚はそれに従うべきでないか。それを反対するとは何事か。」と言い、父は

   「黙れ、兵隊 !  お前みたいなのがいるから、この頃東條さんは評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力を持っているのは、天皇陛下だけではないか。下がれ ! 」と一喝して追い返したと言います。

      東條氏を怖れなかった岸氏の姿勢が、結局閣内不統一となり、内閣を総辞職に追い込みました。岸氏は生涯に3回死を覚悟したと、後年洋子氏に語ったと言います。

  1回目は、東條総理との対決の時

  2 回目は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された時

  3 回目は、安保国会の時

 松田氏は、娘として洋子氏が父の影響を強く受けたと説明しますが、紹介している私自身が、政治家としての岸氏を見直しています。父の姿を横で見ていた洋子氏が、尊敬の気持を抱いても不思議はありません。

 230ページの本で、岸氏に関する説明が105ページを占めていますから、松田氏が重要視していることが分かります。次回は敗戦後の日本で、岸氏が総理として何をしてきたかに関する松田氏の意見の紹介です。氏は私と違って、岸氏の安保改定を評価せず、失敗だったと語ります。

 興味のある方は、次回の「ねこ庭」へ足をお運びください。    

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