〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( 岸氏釈放の理由 )
岸氏が釈放された理由を松田氏は2つ挙げていますが、断定をしていません。氏が直接関係者に会って調べたのでなく、岸氏の回想記や他の人物の著作から得た話なので、確信が持てなかったのだと思います。
・いずれにせよ、岸がなぜ釈放されるに至ったのか、その決定的な理由は分からない。
1. 「日米開戦を決定した大本営政府連絡会議 ( 御前会議 ) 」への出席の有無
2. アメリカの対日政策の転換
氏が挙げる2つの理由は上記ですが、GHQに支配された敗戦後の日本で、アメリカが何を考えているのかを知る人間は誰もいなかったはずです。もしかすると語っている岸氏自身も、推測できることはあっても事実は分からなかったのではないかと思います。
〈 1. 「日米開戦を決定した大本営政府連絡会議 ( 御前会議 ) 」への出席の有無 〉『岸信介の回想記』より
・検事の取り調べで、岸が出席したかどうかが焦点になった。
・出席の有無が起訴するか否かの分かれ目になったと、岸が言う。
・岸は出席しなかったと答えたが、東條は「岸は出席していたような記憶がある」と答えていた。
・ところが岸が出席していないと言う物的証拠が出て来た。宮中の大手門を出入りする大臣の記録をした、『門番日誌』だった。
・そこには岸や農林大臣や通信大臣の名前がなく、この会議に出席した大臣だけが起訴された。だから文官でも大蔵大臣の賀屋君、外務大臣の東郷茂徳君、書記官長の星野直樹君などが起訴されたと、岸が言う。
戦後史を証明する重要な事実ですから、岸氏の回想記だけでは断定できなかった松田氏の考えが、分からないではありません。2つ目の理由について、氏は平成6年出版の岩見隆夫氏著『昭和の妖怪 - 岸信介』と、平成7年出版の原彬久 ( よしひさ ) 氏著『岸信介 - 権勢の政治家』から引用しています。
〈 2. アメリカの対日政策の転換 〉
・岸は当時、巣鴨プリズンに面会に来た弟の佐藤栄作に対し、次のように語っていた。
・オレがここを出られるかどうかと言うことは、国際情勢が反映しているようだ。
・米国とソ連が仲良くしている頃は、いつ首を刎ねられるかと心配していたが、米ソの仲が悪くなってからは、そんなことを心配する必要も無くなった。
・つまり米ソ冷戦が激化する中で、日本に反共産主義陣営の一翼を担わせ、反共の砦として復興させていくというアメリカの占領政策の転換を、岸は予見していた。
以上が岩見隆夫氏著『昭和の妖怪 - 岸信介』からで、次が原彬久 ( よしひさ ) 氏著『岸信介 - 権勢の政治家』からの引用です。
・一方、占領政策が転換していく中で、GHQ内部で戦犯容疑者の扱いに変化が見られた。
・民主化を進めるGS ( 民主局 ) と対立していたG2 ( 参謀第二部 ) は、昭和23年4月に、マッカーサー元帥に対し岸の巣鴨プリズンからの釈放を勧告していたのだった。
松田氏の著書のテーマは、岸家の司令塔洋子氏がいかにして、安倍晋三元首相の「憲法改正」に影響力を行使したかにあります。この時期の岸信介氏と、アメリカの占領政策転換は内容を複雑にするだけなので、省略したのかもしれません。
・さらに重要なことは、旧統一教会に関連する叙述があることです。氏は気づかずに別の問題として説明していますが、「ねこ庭」のレーダーが感知しましたので合わせて紹介いたします。
前回の終わりに、私はこのように述べました。予定が遅れましたが、次回は「ねこ庭」のレーダーが捉えた、旧統一教会とアメリカと日本の政界に関する映像を紹介いたします。