ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『絶頂の一族』- 11 ( 十返舎一九の辞世の句 )

2024-04-27 16:28:09 | 徒然の記

  〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( アメリカの対日政策の変更 )

 〈 ウィキペディアに追加された説明文 〉

 ・「文鮮明は、自由民主党の安倍晋三元総理大臣の祖父である岸信介と盟友であり、1950 ( 昭和25  ) 年代から日本の政界と協力していた

 ・岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた。岸内閣時代の首相公邸は、統一教会本部として使用された。

 この説明は前回紹介した遠藤氏の考察と、時系列的なズレがあります。昭和25年代といえば、文鮮明が韓国で布教活動を始め、警察に逮捕されたり拘束されたりして、CIAの力で釈放されていた頃です。CIAに恩義を感じた彼が布教のため日本を訪れたのは、昭和33年と遠藤氏は述べています。

 その文鮮明が、昭和25年代に岸信介と盟友だったと言うウィキペディアの説明は、どう考えても無理があります。また次の説明は、遠藤氏の考察が正しいのなら、ウィキペディアの捏造になる可能性があります。

  ・昭和35年半ば頃、信者が渋谷の南平台町にある岸の私邸を訪れるようになり、岸は頻繁に統一教会や国際勝共連合の本部を訪れた。

 文鮮明が岸信介、児玉誉士夫らの協力を得て、反共政治団体「国際勝共連合」を日本に設立したのは昭和43年4月だったと、ウィキペディア自身が説明しています。つまり岸氏が頻繁に訪れていたと言う、「国際勝共連合の本部」は昭和35年半ばにはまだ存在していません。

 辻褄が合わないのは、次の追加文も同じです。

 ・1960 ( 昭和35  ) 年半ば頃、教団は、天照大神宮教(通称:踊る宗教)の教祖の北村サヨを介して、岸信介に接近。信者が渋谷の南平台町にある岸の私邸を訪れるようになり、教団との密接な関係が生まれた。

 すでに昭和25年代に文鮮明と岸信介が盟友だったと説明しているのですから、 昭和35 年になり、北村サヨ氏の紹介で岸氏に接近という話は無意味であるだけでなく、読者を混乱させます。

 この場合、遠藤氏の意見が正しいと考えれば、時系列が合います。CIAに恩義を感じた文が布教のため日本を訪れたのは、昭和33年でした。つまり教団はこの時点では岸氏と接点がなく、北村サヨ氏の仲介でやっと繋がったのではないでしょうか。

 遠藤氏の考察を知らなかった2年前の私は、「ねこ庭」で次のように述べています。

  ・追加された説明文の時点 ( 昭和35年半ば )では、43年設立の国際勝共連合はまだ日本にありません。存在していない「国際勝共連合」の本部をどのようにして岸氏は訪れていたのでしょうか。それともこれは、台北の本部のことなのでしょうか。

  ・追加文には、辻褄が合わないところがまだあります。昭和25年代から文鮮明と岸氏が盟友であったとすれば、昭和35年に教団がわざわざ北村サヨ氏の紹介で岸氏に接近する必要があったのか、おかしな説明です。

 松田氏が著書の中で問題となる岸氏の屋敷を語っているのは、「まえがき」の第1ページの7行目からの4行だけです。隣に「勝共連合」建物があるとか、岸氏が頻繁に出入りしていたとか、そういう説明は何もありません。参考までに問題の4行を紹介しておきます。

 ・都内でもひときわ高級住宅地として知られる渋谷区南平台。岸が自宅の邸宅に隣接する、往年の女優・高峰美枝子の500坪の土地と屋敷をそっくり借り受け、2軒合わせて自宅兼迎賓館として使い出したのは、昭和31 ( 1956 ) 年夏のことだ。

 ・ヨチヨチ歩きの二人の孫と岸が戯れる芝生は、高峰が映画人らを招き華やかなパーティーに酔いしれた場所でもあった。

 二人の孫というのは、長女洋子氏と安倍晋太郎氏の長男寛信氏と次男晋三氏です。心の狭い私の思い込みなのか、松田氏の文章はどのように読んでも岸氏への批判として伝わります。息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方はどう考えられるのか分かりませんが、どうせ批判するのなら、悪名高い旧統一教会のことをなぜ説明しないのかと、私には疑問が残ります。

 ずいぶん回り道をしましたが、アメリカの対日政策の変更により、岸氏が巣鴨ブリズンから釈放された経緯を紹介しました。次回からは氏の著書へ戻り、戦後の大事件だった「60年安保騒動」までの動きを紹介いたします。前途遼遠、やっと59ページになります。

 今日の天気は薄曇り、室内の温度は23度、ねこ庭の新緑があるか無しかの風に揺れています。花ずおうと姫りんごの花が終わり、アーチの白いモッコウバラが満開です。穏やかな春の庭を、珍しく朝方から野良猫が3匹横切って行きました。野良猫が姿を見せると、バードバスに小鳥たちが飛んで来なくなります。

 「ねこ庭」を眺めながら、今日も穏やかな一日が過ぎていきます。ご先祖さまと現在の政府に感謝しながら、穏やかならぬ「ねこ庭」のシリーズを書いていることを、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に知って頂けたらと思います。

  この世をば どりゃお暇と線香の

    煙とともにハイ さようなら

 十返舎一九の辞世の句を思い出します。生きている間の「ねこ庭」で、いつかその時が来たら、私も綺麗さっぱり、ハイさようならです。息子と孫たちが可愛いだけで、それを除けばこの世にあるのは感謝だけで、何の未練もありません。

 岸信介氏は自分の子供や孫だけでなく、国の未来を考え、日本のアメリカからの独立回復を願い、「日米安保条約の改定」と「憲法改正」に終生を捧げています。氏は日本のリーダーだからそうするのであり、「皇室護持」と「憲法改正」の二つを除けば、私に見えるのは十返舎一九と似た姿です。

 煙とともにハイ さようならと、垣間見えるのはそんな明るさです。松田氏には不本意でしょうが、私はそんな氏を証明できたらと思いながら作業をしています。

コメント (2)
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『絶頂の一族』- 10 ( 保守政治家・岸氏 )

2024-04-27 09:45:56 | 徒然の記

  〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( アメリカの対日政策の変更 )

 〈 2.  令和4年7月29日  遠藤誉所長の考察 〉

 遠藤氏は香港メディアの一つである「超越新聞網」の記事を紹介することで、アメリカのCIAと旧統一教会について説明しています。

  ・文鮮明が1950 ( 昭和25 ) 年代初期に、韓国で世界基督教統一神霊協会(略称:統一教)を設立して活動していた時期、CIAは文鮮明を情報提供者として扱い、彼はCIAの保護下に置かれていた。
 
  ・1955 ( 昭和30 ) 年7月13日に、ソウルの警察が文鮮明を「集団姦淫罪」で逮捕したが、同年10月4日、CIAの干渉により文鮮明は無罪放免となった。
 
  ・韓国はアメリカの準植民地であるため、CIAは統一教会を反共主義の最前線組織として位置づけていた。
 
  ・1957 ( 昭和32 ) 年、韓国当局が文鮮明の農村における布教を、(淫乱な)邪教が農村の生産性に影響を与えるとして拘禁すると、再びCIAが干渉してきて釈放した。
 
  ・その恩義に報いるために、文鮮明は1958 ( 昭和33 ) 年に(アメリカのもう一つの準植民地である)日本を訪問し、布教に努めた。
 
 日本のマスコミは岸氏を旧統一教会を育てた張本人と説明し、教団の片棒を担ぐ悪人として報道していますが、遠藤氏の考察を読みますと、違った風景が見えて来ます。文鮮明の支援者は、岸氏より遥かに強大な力を持つCIAだったことが分かりました。文鮮明は、日本に来る前からCIAの保護を受け、韓国で教団の基礎を築いています。
 
 「ねこ庭」のレーダーが捉えた、旧統一教会とアメリカと日本の政界に関する映像を紹介いたします。」
 
 前々回オーバーな言い方をしましたのは、日本の新聞やテレビが、同教団の一面しか伝えていないのではないかと言いたかったからです。アメリカの対日政策の変更に従い、CIAが共産党を敵視する文鮮明を使い、日本での活動を後押ししていたとなれば、状況が変わります。
 
 遠藤氏はCIAと教団の関係を説明していますが、「安部派潰し」との関連については言及していません。情けない話ですが、アメリカの影が見えると誰もが口をつぐむ・・これが敗戦後の日本です。
 
 遠藤氏が考察を発表した令和4年7月29日は、安倍元首相が暗殺された年ですから、本棚のスクラップ帳を開くと、同年7月9日の千葉日報の大見出しが飛び込んできます。
 
 「安倍元首相 撃たれ死亡」「街頭演説中 元海自41才の男逮捕」 
 
 自由民主党内の反日リベラル議員を含む、反日左翼政党が反対する中で岸田首相は安倍氏の国葬をしましたが、暗殺事件の真相は今も解明されていません。CIAが保護する旧統一教会となれば、真相は結局もやもやの闇の中かも知れません。
 
 令和4年12月に「ねこ庭」で取り上げた「旧統一教会」の記事を読み返すと、松田氏の著書が文鮮明に全く触れていない不自然さが目立ってきました。
 
 実はこの12月時点で、ウィキペディアの説明におかしなことが生じていました。忘れた方が多いと思いますので、令和4年12月の「統一教会問題」シリーズの記事を以下に転記します。
 
  ・1968 ( 昭和43 ) 4月、文鮮明が岸信介、児玉誉士夫らの協力を得て、反共政治団体「国際勝共連合」を日本に設立した。

 ・12月の説明を読みますと、文鮮明氏と岸信介氏とが中心になり「国際勝共連合」を設立したとなっています。しかし11月5日の時点で読んだ時は、設立した関係者名が次のように書かれていました。

 ・昭和43年、朴正煕韓国大統領・文鮮明の働きかけで、蔣介石中国国民党總裁、岸信介内閣総理大臣、米国政府関係者、児玉誉士夫らの協力を得て、反共政治団体「国際勝共連合」を台北に設立した。

 ・11月の説明文が削除されてしまったらしく、探しても見つかりませんでした。削除された文では、設立場所が日本でなく台北と書かれ、緑色表示の人名がありました。

 ・「国際勝共連合」の内容が一部削除された代わりに、12月には「旧統一教会」の説明が詳しくなっています。ウィキペディアの説明が突然変わったことに驚きながら、詳しくなった説明文から追加された部分を紹介します。

 テーマを外れ、何のために2年前の「ねこ庭」の記事を紹介するのかと、疑問に思われる方がいるのかも知れません。その理由は、

 アメリカの大きな力に妥協する形で、ウイキペディアが「国際勝共連合」の説明文を書き換えたように、松田氏も反岸・反安倍の立場から、岸信介・安倍晋三・安倍洋子氏の姿を書き換えているのではないか、と推測するからです。

 ウィキペディアの書き換えと並べれば、松田氏の書き換え ( 誇張と極論  ) が証明できるのではないかと、こんな疑問が消せなくなりました。

 現在のところ「ねこ庭」では岸信介氏を「昭和の妖怪」でなく、「昭和の傑出した保守政治家」の一人と考えています。アメリカからの自立と皇室護持という強い意思を持つ人物は、誰であれ敬意すべき保守政治家と信じるからです。

 違った意見の方がおられると承知しつつ、次回も続きを書きたいと思います。

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