〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( アメリカの対日政策の変更 )
〈 ウィキペディアに追加された説明文 〉
・「文鮮明は、自由民主党の安倍晋三元総理大臣の祖父である岸信介と盟友であり、1950 ( 昭和25 ) 年代から日本の政界と協力していた。
・岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた。岸内閣時代の首相公邸は、統一教会本部として使用された。
この説明は前回紹介した遠藤氏の考察と、時系列的なズレがあります。昭和25年代といえば、文鮮明が韓国で布教活動を始め、警察に逮捕されたり拘束されたりして、CIAの力で釈放されていた頃です。CIAに恩義を感じた彼が布教のため日本を訪れたのは、昭和33年と遠藤氏は述べています。
その文鮮明が、昭和25年代に岸信介と盟友だったと言うウィキペディアの説明は、どう考えても無理があります。また次の説明は、遠藤氏の考察が正しいのなら、ウィキペディアの捏造になる可能性があります。
・1960 ( 昭和35 ) 年半ば頃、教団は、天照大神宮教(通称:踊る宗教)の教祖の北村サヨを介して、岸信介に接近。信者が渋谷の南平台町にある岸の私邸を訪れるようになり、教団との密接な関係が生まれた。
すでに昭和25年代に文鮮明と岸信介が盟友だったと説明しているのですから、 昭和35 年になり、北村サヨ氏の紹介で岸氏に接近という話は無意味であるだけでなく、読者を混乱させます。
この場合、遠藤氏の意見が正しいと考えれば、時系列が合います。CIAに恩義を感じた文が布教のため日本を訪れたのは、昭和33年でした。つまり教団はこの時点では岸氏と接点がなく、北村サヨ氏の仲介でやっと繋がったのではないでしょうか。
遠藤氏の考察を知らなかった2年前の私は、「ねこ庭」で次のように述べています。
・追加された説明文の時点 ( 昭和35年半ば )では、43年設立の国際勝共連合はまだ日本にありません。存在していない「国際勝共連合」の本部をどのようにして岸氏は訪れていたのでしょうか。それともこれは、台北の本部のことなのでしょうか。
・追加文には、辻褄が合わないところがまだあります。昭和25年代から文鮮明と岸氏が盟友であったとすれば、昭和35年に教団がわざわざ北村サヨ氏の紹介で岸氏に接近する必要があったのか、おかしな説明です。
松田氏が著書の中で問題となる岸氏の屋敷を語っているのは、「まえがき」の第1ページの7行目からの4行だけです。隣に「勝共連合」建物があるとか、岸氏が頻繁に出入りしていたとか、そういう説明は何もありません。参考までに問題の4行を紹介しておきます。
・都内でもひときわ高級住宅地として知られる渋谷区南平台。岸が自宅の邸宅に隣接する、往年の女優・高峰美枝子の500坪の土地と屋敷をそっくり借り受け、2軒合わせて自宅兼迎賓館として使い出したのは、昭和31 ( 1956 ) 年夏のことだ。
・ヨチヨチ歩きの二人の孫と岸が戯れる芝生は、高峰が映画人らを招き華やかなパーティーに酔いしれた場所でもあった。
二人の孫というのは、長女洋子氏と安倍晋太郎氏の長男寛信氏と次男晋三氏です。心の狭い私の思い込みなのか、松田氏の文章はどのように読んでも岸氏への批判として伝わります。息子たちや、「ねこ庭」を訪問される方はどう考えられるのか分かりませんが、どうせ批判するのなら、悪名高い旧統一教会のことをなぜ説明しないのかと、私には疑問が残ります。
ずいぶん回り道をしましたが、アメリカの対日政策の変更により、岸氏が巣鴨ブリズンから釈放された経緯を紹介しました。次回からは氏の著書へ戻り、戦後の大事件だった「60年安保騒動」までの動きを紹介いたします。前途遼遠、やっと59ページになります。
今日の天気は薄曇り、室内の温度は23度、ねこ庭の新緑があるか無しかの風に揺れています。花ずおうと姫りんごの花が終わり、アーチの白いモッコウバラが満開です。穏やかな春の庭を、珍しく朝方から野良猫が3匹横切って行きました。野良猫が姿を見せると、バードバスに小鳥たちが飛んで来なくなります。
「ねこ庭」を眺めながら、今日も穏やかな一日が過ぎていきます。ご先祖さまと現在の政府に感謝しながら、穏やかならぬ「ねこ庭」のシリーズを書いていることを、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に知って頂けたらと思います。
この世をば どりゃお暇と線香の
煙とともにハイ さようなら
十返舎一九の辞世の句を思い出します。生きている間の「ねこ庭」で、いつかその時が来たら、私も綺麗さっぱり、ハイさようならです。息子と孫たちが可愛いだけで、それを除けばこの世にあるのは感謝だけで、何の未練もありません。
岸信介氏は自分の子供や孫だけでなく、国の未来を考え、日本のアメリカからの独立回復を願い、「日米安保条約の改定」と「憲法改正」に終生を捧げています。氏は日本のリーダーだからそうするのであり、「皇室護持」と「憲法改正」の二つを除けば、私に見えるのは十返舎一九と似た姿です。
煙とともにハイ さようならと、垣間見えるのはそんな明るさです。松田氏には不本意でしょうが、私はそんな氏を証明できたらと思いながら作業をしています。
文鮮明が岸信介、児玉誉士夫らの協力を得て、反共政治団体「国際勝共連合」を日本に設立したのは昭和43年4月だったと、ウィキペディア自身が説明しています。つまり岸氏が頻繁に訪れていたと言う、「国際勝共連合の本部」は昭和35年半ばにはまだ存在していません。
辻褄が合わないのは、次の追加文も同じです。