田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

エンタテイメント小説をめざす

2008-01-14 21:25:19 | Weblog
1月14日 月曜日 晴れ
●冬の日光の山林を散策してきた感動の余韻がまだのこっている。わたしには冬山の景観はじめてだった。景色の広がりにおどろいた。日頃、テレビのサイズで切り取られた風景にならされているので、白銀の世界の茫漠としたひろがりにまず感動した。

●そしてカミサンの撮ったピクチャの美しさにおどろいた。さらに考えた。わたしは小説のなかで自然描写をするのがすきだ。でも映像の美しさにはとてもかなわない。

●小説はストーリだな。青春の初めに考えていた原点にたちもどることになった。なにをいまさらと笑われるかもしれないが、わたしたちの世代は新しい文学を模索した。三田文学に掲載された「心変わり」を読まなければ、読んでも感動しなければいまのこのテイタラク、ぶざまな敗残の姿をさらさなくてすんだかもしれない。いまさら心変わりしてもおそいのかもしれない。わたしがストーリのあるおもしろい小説を書いてもビュトールはおこらないだろう。ロブ=グリエの「幻想都市のトホロジー」ともおわかれだ。ヌーボオロマンに陶酔した青春が彼方にとおざかっていく。悲しくてなみだがでる。

●官能コメディをあるところに発表できるかもしれない。むかしの文学の友がわたしのことを心配してくれている。ありがたいことだ。

●寒々とした日光の山林を歩きながら小説はやはりストーリなのだと寂しく反省していた。

●家に帰ってきてもその思いは深まるばかりだ。おもしろい小説を書いてやる。書いてみせる。乞うご期待。

 日光霧降

       

       




風花

2008-01-13 22:20:01 | Weblog
1月13日 日曜日 晴れ
●日光はみわたすかぎり雪。雪の日光ははじめてだった。霧降の「山のレストラン」で食事をして、娘家族がすべっている細尾のスケートリンクまで歩いた。

●歓声をあげながら、雪つぶてを投げあって家族づれがとおりすぎていく。雪はどうしてこうもわたしたち大人まで童心にかえらせてくれるのだろう。

●孫たちは三度目のスケートリンクなのでだいぶうまくすべれるようになった。

●周囲の山は雪におおわれている。吹く風はつめたい。はだをさすような風だ。

●カミサンはシャッターをたてつづけに切っている。リンクからはスケーターのあげる歓声がきこえる。二階の室内リンクではホッケーの試合がとりおこなわれている。どよめきがきこえる。

●白銀の世界のひろがりのなかでこころまで澄んでいく。この寒気のもたらす緊張感がすきだ。小説と真剣にとりくみ今年こそ成果をあげる。まいどのとだがそんなことばかり考えていた。

●繊枝に咲いた雪の花が風に吹かれて風花となる。さあっとまいあがる。きれいだ。なにもかもわすれて、ただみつめていた。

       

       

       


成人式

2008-01-13 21:20:41 | Weblog
1月13日 日曜日 晴れ
●成人式だった。塾の卒業生のF 君が遊びにきてくれる。うれしかった。5年ほど前の卒業生だ。すごくたくましい若者になった。成人式おめでとう。

●わたしは塾生とのつきあいは、一生と思っているのですごくうれしかった。卒業生がときおりおもいだしたように訪ねてきてくれる。うれしいものだ。卒業した後もずっと連絡がとだえず、交際がつづくというのはたのしいことだ。みんな大人になっていき、話し相手ができてこんなうれしいことはない。教育は学生たい教師、大人になってしまえばもう関係なし。そんなことはない。おとなになったらおたがいに切磋琢磨する同志として精進しつづけたいものだ。

●教育をその場限りの、受験のためだけにあると考える風潮がある。とんでもない。その子の生きざま、人生観にまでかかわってくる、やりがいはあるが、すごくむずかしいものだ。ともかくこれからまだいけそうだ。元気なうちはがんばって教壇にたちつづけたい。生涯現役をつらぬきたい。

●そして、わたしも成人式をすませた若者のつもりで、小説をかきつづけたい。精神は老いることはない。



ユニクロのフリースは暖かい

2008-01-12 22:46:23 | Weblog
1月12日 土曜日 雪まじりの小雨
●娘夫婦に乗せてもらって宇都宮のユニクロ細谷店にいった。正月には息子夫婦に連れて行ってもらった店だ。そのとき買ったフリースのパーカーがあまり暖かなのでもう一枚かうためだ。車を運転しないので息子か娘が帰省する正月とかお盆のときでもないと訪れることのできない郊外型店は、おりからの雪まじりの小雨にもかかわらずかなり混雑していた。買物は歩いていく習慣のわたしたちにとっては、こうした店舗で若い人と買い物をするのはすごくたのしい。

●店の外、左側にトイレはあった。ふいに尿意をもよおしたので探しあてたそこは、ただトイレとドアに書いてあるきりだった。
「おいちょっときてくきれないか」カミサンを呼びにもどった。もし男女兼用だったらどうしたらいいかわからない。カミサンがノックをしてくれた。だれもはいつていない。おそるおそるドアをあけてみたら、やはり兼用だつた。カミサンが外でまっていてくれた。

●ぼんやり考えごとでもしていてドアをノックもせずにあける。ロックされていなかったらたいへんなことになる。危うくそうした失敗をしそうになったことがある。あれいらい神経質になっている。できれば男女別のトイレがあるといいのだが。それとも反対側に男性用があったのかもしれない。

●フリースは織物ではないのだろうな。よくわからないが、ともかくあまりに暖かで保温性もあるのでおどろいてしまった。年とともに厚着になった。着膨れしてみっともなかったのに「お父さんお腹ひっこんだじゃない」と娘にほめられた。厚着よさらば。フリースよこんにちは。というところだ。やわらかで、はだざせわりも抜群。

●今年の冬は暖かに過ごせそうだ。

●冷えてトイレがまめになる。冷えて腰が痛くなる。そんなことからも解放されそうだ。うれしいな。

俳句四句

2008-01-12 20:25:21 | Weblog
1月12日 土曜日 小雨
●冬の雨が降りだした。満目䔥条とした野を歩いた。見渡す限り枯れ草色の風景の中をひとりぼんやりと歩いた。このところ根をつめて原稿書きをしているので冷やかな雨をほほに感じながらの散策はたのしかった。寂しくもあった。

●このあたりは、母に死なれたとき茫然自失、ただただ涙を流しながらあるいた枯野だ。そのころ作った句を再録した。

●冬木立ち亡き人を呼ぶ声も枯れ
 物書きの一生落ちアユ黒き川
 おちば時雨かそけき音のきわまりて
 黒猫の影だけわれに慕い寄る


老人にドブロクの勧め

2008-01-12 12:21:24 | Weblog
1月12日 土曜日 小雨

●朝ブログを書いて昼にはサッソク反響があった。知り合いからだ。

●「いいことすすめてくれたな。あれは飲むのうまいものね。まいにちだっていいよ。いくらでも飲めるよな」
どうもおかしい。なにか勘違いされたらしい。
「もしもしお電話かわりました。●●の孫ですが、オジイチャンにブログを書くこと薦めたんです。そしたらいいことすすめてくれたからお礼に電話するってきかないんです」お孫さんの説明でわかった。

●「ドブロクを掻く」とハヤトチリシタラシイ。「老人にドブロクの勧め」とおもいこんでしまったらしい。電話口の若い彼と大笑いした。あんなに笑ったことはしばらくぶりだ。

●どこかでドブロクを探してそのうち遊びに行きますよ。ということで電話を切った。しかしこのブログはだれが読んでいるかわからない。思わぬ反応におどろくやら笑うやらたいへんだった。

●この地方ではドブロクを醸造するのを掻く。といいました。今ではどうなのだろう。掻く。という漢字でいいのだろうか。かきまぜる、という意味合なのだろうか。

老人にブログの薦め

2008-01-12 06:50:47 | Weblog
1月12日 土曜日 
●きのう「文章の勉強をするということは、じぶんの周囲をあらためて見直すことになる」とブログに書いた。人は文章で、言葉でものを考えるのだと思う。最近では映像でかなりのところまでこみいった思索や感情を表現できる。でも結局は言葉に翻訳して理解している。わたしは、言葉の伝達性を信じているからこそ、小説なぞに人生をかけてここまで生きてきたのだ。じぶんの感情を相手に伝えることはたいへんむずかしい。

●カミサンとは恋人であったころから長いつきあいだ。それでも、毎日がモッタイナイほど楽しくなったのは去年からである。いままでだって喧嘩一つしたことがない。ひともうらやむほど仲がいい。毎日24時間ほとんどいっしょに寝食をともにしている。「結婚とは長い会話である」といったフランスの作家がいた。まさにそのとおりだと思う。長い会話のはてに脳に共通の記憶が蓄積される。二人で同時に同じことを言おうとする。同じ行動をおこす。

●まあそれはいいのだが、カミサンが妊娠したときは、わたしも仮想妊娠をした。ツワリがあった。ほんとですよ。お腹までおきくなった。食い過ぎだよ、と周囲の人には笑われた。でもカミサンの分娩がすんだらわたしのお腹もちいさくなった。


●比翼連理とはよくいったものだ。これらのことは、言葉の効用がもたらしたものだ。言葉のもたらした作用だ。思考パターンまでもが同じになってくる。

●小さな田舎町だとこれと似た現象があるような気がする。町のひとの言葉が同じ。したがって、同じようなことを考える。

●「どうして止まってくれないのだろう」F屋に大きなリックを背負って買い物に行く。その正面入り口にいくには横断歩道を渡らなければならない。東京であったら同じような条件でもすぐに両サイドの車がとまってくれる。年寄りにやさしい。歩行者にやさしい。
「そうなのよね。あたしも長いことそう思っていたのよ」きれいな東京弁で話しかけられた。わたしたち夫婦の会話が聞けたのだろう。老婆だった。わたしたちよりも年上だ。聞いてみると疎開でこの町に来て、この町の人と結婚して、ずっと住んでいるのだという。東京の言葉で、考えかたでこの町を見続けてきた人がここにもいた。カミサンも疎開児童だったので話が合い、しばし立ち話をしていた。
そのあいだも、歩行者が横断歩道をわたろうとしているのに止まる車はない。みな同じように考えているのだろう。止まるのは面倒だ。メンドクセエヤ。

●わたしは高校まではこの町でそれからは東京で学生生活をおくり、ずっといつも書くが二都物語だ。鄙と都会の間を行ったり来たりしている。貴重な体験をかさねている。その一端がこのブログとなって結実しいる。

●また昨日のブログの繰り返しになる。この町の老人は元気がない。気になる。栃木県は過日の統計によると、女性のほうが早死にするらしいですね。どうしてでしょうか。わたしにはわかりません。確実にわかっていることは、老人力を発揮する場所がなく無為に毎日を過ごしている人がおおいということだ。みんな年金をもらってのんびりとくらしていると健康にはよくないと思う。いかがなものなのでしょうか。

●もういちど言う。ものを書く勉強には時間だけが、努力することだけが必要なのだ。老人むきの趣味だ。パソコンでもはじめ、ブログに挑戦してはいかがなものでしょうか。きつと7掛けくらい若返りますよ。

●あなたの家のご老人にブログを薦めてください。


老人の文化活動

2008-01-11 17:53:51 | Weblog
1月11日 金曜日 晴れ
●わたしは長年東京と故郷の町を行き来して生活をしている。すると定住者には見えないものが見えてくる。どちらがいいとかわるいとかいう問題ではない。たとえば、東京の人はあまりに田舎のことを知らなさすぎる。親の代から東京に住んでいる人は別にして、田舎出身の人たちでも、じぶんが生まれ育った町が今どんなことになっているか無関心である。たまに正月に帰省して、親たちと過ごし、また都会の生活にもどっていく。町を歩いて、昔の友だちを訪ねてみる。彼らがどんなことによろこびをみいだして生きているか。どんなことを、悲しみ、苦悶しているか知る必要がある。

●わたしの町についていえば、経済的疲弊がはなはだしい。商店街はシャッター通りと化している。そして町を歩いている人をみかけない。ともかく町が町として機能しなくなってしまった。家の中に年寄りはひっそりと閉じこもっている。自分の町がこんなふうになるとは夢にも思わなかっただろう。とくに、建具屋さんなどは、先日も書いたが昔の栄華はない。

●いままでは、ただひたすら文学の勉強に打ち込んできたので周囲を見なかった。気づいてみると繁栄しているのは病院と葬儀屋。美容院ごく少数の飲食店だけになっているようだ。昔かなり流行っていた衣料品店の主人が街行く人を後ろに手を組み、ぼんやりと眺めているのを見るのは辛い。けっして、あなたたちの営業努力がたりなかつたわけではありませんよ。となぐさめの言葉をかけてあげたくなる。

●人ごとでない。わたしどもの塾もカミサンと二人だけでやっているからなんとかつづけてこられた。宣伝費をかけられないところは、どんな商売でも消え行く運命にあるようだ。わたしたちは幸い塾なので、教師の資質とか専門知識がものをいう。なんとか生き残ってこられた。でも、これから先はどうなるかわからない。心細いかぎりだ。

●町の文化面も退化するいっぽうだ。江戸時代からあれほどさかんだった俳句はどうなっているのだろうか。

●老人はひっそりと家の中にとじこもっている。じつは彼らだって働きたいのだ。老人が働く仕事がないだけだ。まだまだ働ける。老人の経験や能力を生かしてくれる仕事がないだけだ。

●文化活動をするのにはお金はまったくかからない。俳句を楽しむ、短歌を楽しむ、つごうによつたら随筆くらい書けるようにいまからでも勉強してはどうだろうか。文章の勉強をするということは、じぶんの周囲をあらためて見直すことになる。

●じぶんたちの住む町を第二の夕張にしないためにもみんなで町をよく見守っていきませんか。


小説を書くのはたのしい

2008-01-10 22:33:17 | Weblog
1月10日 木曜日 晴れ
●昨日は24枚書いた。百枚の作品を投稿するつもりで精進した。いざ電子メールで送る段階になったら、手直ししなければならないところがでた。残念ながら応募するのは、あきらめた。

●あせるな。あせるなよ。じぶんで納得のいかないものは、なんどでも推敲することだ。推敲することによって、作品は品格を高めていく。書き上げたまま投稿しょうなんて思ったわたしがわるい。あせっているからだ。

●今日も暖かだった。ひさしぶりで外にでた。あれっ、街を歩くのは正月になってからはじめてだな。気づいてみると男体山が雪化粧をしている。真っ白になったらブログに載せようとカミサンと話しながら歩く。

●自費出版大手『新風舎』の倒産が報じられている。世の中、暗い話ばかりでうんざりする。わたしも新風舎からは自費出版のお誘いを受けた。いつも丁寧におことわりしてきた。わたしは、小説を書くのがすきだから書いている。小説をとおして現実を認識するのがたのしいから書いている。書くのがすきですきで、どうしょうもないほど、すきだから書いている。そしてあわよくば、昔のように原稿料がはいる。カミサンとささやかな生活ができるようになる。そんな思いで毎日小説を書きつづけている。精進している。自費で本を出したところで、この世界はどうなるものでもない。そう思っているから、おことわりしつづけてきたのだ。

●本を読む人が少なくなっている。読書家などという言葉は死語に近い。本を読む人は絶滅危惧種ではないか。読書会がこの町にはあるのだろうか。作文教室は宇都宮までいけば、どこかのカルチャセンターで開設しているのだろうか。

●ところで、本を出したい人は多いらしい。読む人は少ないのに、本を出したい人がおおいというのは、どういうことなのだろう。人生の記録として残したいのだろう。自己顕示欲からだ、としたり顔で批判してはいけない。

●でも、できれば文章の勉強を真摯な態度で継続させ、その結果出版してもらいたい。

●もちろん、VTでいいからどこかで、大人のための文章教室でも企画してくれないものだろうか。文章を書くたのしさをおぜいのひととわかちあいたいものだ。40数年前に「文芸サロン」を市の図書館でやったことがあった。30人くらい集まってくれて、あれはたのしかった。お母さんと子どもの作文教室なんてのもいいだろうな。


疲れたな

2008-01-09 21:45:32 | Weblog
1月9日 水曜日 晴れ
●暖かな一日だったらしい。らしいというのは、一日外に出なかった。だからわからない。カミサンは東京。わたしはブラッキーと留守番。一日小説を書いた。

●疲れて食欲がない。体重が減った。体重が減るのは大歓迎だ。疲れるのは困る。毎年いまごろ風邪を引く。

●一人きりだと家の中が空漠としてなんともやりきれない。来客もなかった。寂しい一日だった。こんなとき、胃の調子が良ければお酒でも飲んで昼間から寝てしまうのだが、それもだめ。

●塾の卒業生のだれかれを思いコタツでうとうとした。初めのころの卒業生は、すでに40代になっている。元気にがんばっていることだろう。いいお父さんやお母さんになっているのだろうな。

●寂しい。なにがどうといのではないが寂しい。こういうのが老いの寂しさというのかもしれない。カミサンが帰ってきて、塾がすんだら、風呂に入ってはやく寝ようと。

●寂しいブログでごめんなさい。でも、小説のほうは24枚書きました。それで疲れてしまったのだろう。