山形県立図書館で、畑沢の江戸時代の生活を比較するために、東根市史の資料を見ていました。
「元禄五年 村山郡猪野沢組野川村覚書之帳」という資料でした。眺めていたところ、ふと、見たことがある漢字を含んだ、次の内容に興味を持ちました。
(元々は縦書きですが、横書きに表わします。)
一、寺退転之地 壱ケ所 (禅宗 正福寺、只今竹藪ニ而成候)
但 何年前ニ退轉申候哉不奉存候
現代語訳
一 寺がどこかへ行った場所が一ケ所 (禅宗の正福寺でした。今は竹藪になっています。)
ただし、何年前にいなくなったのかは分かりません。
この中の「正福寺」はどこかで見たような気がします。以前、このブログで畑沢村差出明細帳のことを取り上げたことがあります。その中にあった山伏の名前が「正福寺」でした。その時は、特段、その名前についての説明をしていませんでしたが、実はその名前に違和感を覚えていました。他の地区の山伏の名前を見ると、どこも「〇〇院」とか「〇〇坊」になっていました。山伏でありながら「〇〇寺」となっている者はいません。畑沢だけが何故、このような名前となっていたのかが不思議でした。でも、私のいい加減な性格が「まあ、いいか」で済ましてしまっていたのです。「どうせ私は素人ですから分かるはずがない」の調子です。
しかし、この野川村の資料に接することで、学術的ではないが「想像的」な発想が生じました。決して「創造的」ではありませんことをお断りしておきます。
全国的に見れば、「正福寺」という有名なお寺はありますが、それでもそんなに簡単に名乗れるものではないはずです。江戸時代においては、寺も幕府の支配体 制に組み込まれて、「お役所」的に役割さえも与えられています。すなわち、野川村の正福寺も畑沢の正福寺も好き勝手に名乗ったものではないと思います。とすると、この二つの「正福寺」は同一である可能性が出てきました。元禄五年は西暦1692年です。野川村とは、現在の東根市大字野川のことです。西暦1692年には、既に正福寺はなくなっており竹藪になっているほどに荒れ果てていました。寺がなくなってから10年以上は経っていたのでしょう。この野川村の覚書帳には、外に禅宗の「龍昌寺」があると書かれています。龍昌寺は正福寺がになくなってから建てられたのか、それとも正福寺と並存していて競争があったのかは分かりませんが、同じ村に二つの禅寺が共存することは難しかったでしょう。龍昌寺がいつ建てられたかを調べれば、このあたりが判明することと思います。さて、畑沢村の差出明細帳は正徳四年(西暦1711年)です。野川村から正福寺がなくなった時代よりも20年以上も後になります。そこからが私の想像的思索の世界に入ります。
事情があって野川村を出た若い正福寺は、背中炙り峠を越えて畑沢村に着きました。しかし、畑沢村は、既に禅宗の龍護寺の檀家になっていたので、寺を建てることができません。しかし、寺としての宗教知識と読み書きができるので、「山伏」として生きることにしました。
と言うのが、私の「想像的思索」の全部ですが、なんとも乏しい想像で申し訳ありません。