-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背中炙り峠古道の断面図を訂正します。

2015-10-06 17:29:05 | 歴史

 背中炙り峠を通る村山市側の古道について、一昨年の12月に「乳母木地蔵堂からの古道がた筋ありました」を投稿しましたが、大きな間違いがあることに気づきました。古道が一筋だけではなくて二筋になっているのは、自分なりに大きな発見で正しいのですが、それらの古道が楯の防護柵の一つである切岸に作られていたという認識が誤りでした。確かに古道の肩の部分が切岸の一端である部分もありますが、大部分は切岸とは全く別に作られたものでした。

 元々、一帯は約45度の急傾斜地で、防御用にあらためて崖を作る必要がない場所です。45度というと、大したことがないように思われる方もおられるかもしれませんが、実はとんでもない急斜面です。例えば、大倉山ジャンプ台の勾配は35度ぐらいと言われています。テレビ中継などでジャンプのスタート台から下を見ると、スビタレには奈落の底を覘くような恐ろしさです。ましてや45度となると、その場に立つと80度ぐらいに感じてしまいます。斜面を登るときは、這いつくばってさらに立木を掴まなければなりません。恐らく昔は、立木を刈り取っていたでしょうから、城攻めの際には地面に鋭利な刃物などを突き刺して登らなければならなかったでしょう。45度ならば、さらに防御のために斜面を削るなどということは必要ありません。そんな斜面ですから、切岸などはあるはずがないのですが、そこは「れっきとした素人」のなせる業です。覚えたての「切岸」にとらわれて、単なる道路の肩を切岸としてしまいました。

 さて、そうしますと古道は楯の防御施設に仮住まいをしているわけではなくて、あくまでも街道そのものを作るために、45度の急斜面の山腹をトラバースして砂岩層を削り取ったことになります。かなりの難事業だったでしょう。そこまでしても作るほどに大事な街道だったのです。しかも、一本だけでなく二本の道路を掘削しました。急斜面に幅約2mですので大変に危険にもかかわらず、金銀の運搬などで沢山の人馬が通ります。そこで、街道を2本して上り下りで使い分けしなければならなかったのでしょう。全国的に見ても珍しい街道のような気がしますがいかがなものでしょう。

 

コメント
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