(1) 延沢軍記に出て来る有路・豊島の姓
さて、ここで畑沢の姓に関わると思われる古文書を紹介します。延沢軍記の龍護寺本と片仮名本には、野辺沢満重(初代城主)が領内の重要な地点に武将を配置したことが記されています。
ところで、「延沢軍記」についての説明は、2017年2月16日の畑沢通信に[「延沢軍記」のつまみ食い(1)]として説明してありますので、御覧ください。
-龍護寺本-
依而奥刕境なれ者、武者附置へしと鎌田丹波に申付られ、添番として高橋勝之進申付られ、處々に楯岡越には笹田甚五右衛門・古瀬正太、添番として同心五人、小国越には切田作左衛門外三人、行沢には石山鉄之助、奥州越には菅野八左衛門、二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥
―片仮名本―
依而奥刕境ナレバ上野畑ニ武功ノ者附置ベシトシテ、鎌田丹波申付ラレケリ、添番トシテ高橋某申付ラレケリ、ケ様ニ處々ノ手遣悉ク定メ、‥‥二藤袋 元織田家臣細谷大學、丹生堀内傳内、猶倉番として折原戸田の進外二十人武功勝りし者共なり、‥‥
上の文章では見にくいので、次の表に野辺沢満重から命じられた場所と名を受けた家臣を整理しました。
守備場所 命を受けた家臣
上野畑 ‥‥‥ 鎌田丹波 添番‥高橋某
楯岡越 ‥‥‥ 笹田甚五右衛門・古瀬正太 添番‥同心五人
小国越 ‥‥‥ 切田作左衛門 外三人
行 沢 ‥‥‥ 石山鉄之助
奥州越 ‥‥‥ 菅野八左衛門
二藤袋 ‥‥‥ 細谷大學
丹 生 ‥‥‥ 堀内傳内 倉番‥折原戸田の進 外二十人
畑沢に関係するのは、「楯岡越」の部分です。野辺沢城の時代には、野辺沢領から楯岡へ行くには、畑沢村を通って背中炙り峠を越えていました。従って、「楯岡越」は直ぐに峠だけを意味するように見えますが、そうではなくて「楯岡越えの方向」と解すべきです。その道筋には、山楯山、おしぇど山、背中炙り峠の三か所に楯がありました。しかし、野辺沢満重(没1559年)の時代は、関ケ原の戦い(1600年)のために用意されたと見られる背中炙り峠の楯は、まだ築かれていなかったはずです。そして、5に既述したように山楯とおしぇど山の楯は新旧の違いだけで、別物ではなく一つの楯と考えるべきです。そうすると、おしぇど山の楯を含む山楯の大将格の人物がこの笹田甚五右衛門と古瀬正太のどちらかになります。
笹田姓と古瀬姓のうち、今も畑沢に残っているのは上畑沢の古瀬姓です。古瀬正太の一族とその近い位置関係にあった者たちが、明治以降に古瀬姓を正式に名乗ったと思われます。しかし、盾の大将格である古瀬正太の子孫が、山楯から遠くの上畑沢へ移ったとも考えにくいし、そのような言い伝えも全くありません。古瀬正太が山楯の守りに就いていたとは、とても考えにくいものです。
さて、この笹田姓と古瀬姓は、延沢軍記の塚田本の拾勇士にも、「野辺沢家と霧山城」(田村重右衛門著 1979年発行)で引用している「北村山郡史の所領判別帳」にも出てきません。笹田甚五右衛門と古瀬正太は所謂、直臣という者ではなくて、それぞれの地に暮らしている土豪的な家臣だったと考えられます。ただ、野辺沢家の領地が召し上げられてから、野辺沢(延沢)領に残った家臣たちの名前の中に、笹田家に関しての記述が、延沢軍記の塚田本にあります。
笹田 先祖大阪に召集され、八郎冬朝戰敗走す、其末延沢に臣たり
‥‥‥
此処に書きたるは、頭立ツたるものにして、尚多くあれ共畧す、家族あり、
名人あり、勇士あり、皆他家へ仕えず村々に住居、農業せしものなり
笹田は、単なる雑兵ではないらしく「頭立つる」程度ですので、配下の者を有している家臣だったようです。笹田は最上家改易後も暫くは野辺沢領に残ったようですが、今、尾花沢市及びその周辺にも笹田姓が残っていないことを見ると、その後に仕官などを求めて遠くへ移ったようです。荒屋敷の大戸正雄氏によると「当時、山楯を守っていた大将は荒屋敷に住んでいたが、どこかへ移ったそうだ」、「荒屋敷には一ケ所だけ石垣で築かれた屋敷の跡があり、その大将の屋敷があったかもしれない」と話されていました。山楯の大将は笹田甚五右衛門で、その配下の者たちは、荒屋敷にそのまま残ったものと思われます。もしも、笹田家がそのまま荒屋敷に残って明治を迎えていたとすれば、荒屋敷一帯の家々は、笹田姓を名乗っていたことでしょう。それでは、どうして笹田が去った荒屋敷地区の家々が大戸姓を名乗ることになったのかが問題ですが、そのことについては、もう少し後ろのところで考えます。
さて、それでは「楯岡越」の守りを申しつけられた、もう一人の家臣である古瀬正太は、何処の楯を守っていたのでしょうか。古瀬正太のいた時代に、まだ背中炙り峠の楯がなかったであろうことは、前述しました。また、背中炙り峠の楯は、「村人のための城」程度ではなく、その位置的な関係や構造を見ると、楯岡側からの攻撃に対処するための本格的な楯です。野辺沢軍が南へ出陣する時と、南からの侵攻に対する防御の要です。守りには直臣クラスの者が関わっているものと思われ、とても古瀬正太の子孫がその大将格を務めることも考えられません。ただ、古瀬姓が住んでいる上畑沢は背中炙り峠に最も近く、同地区には楯跡そのものと堀切に関する「ほっきり」というかなり専門的な言葉が残されています。背中炙り峠の築造とその守りに深く関わっていた人々だったことは間違いなさそうです。それでは、古瀬正太は上畑沢に別の根拠地とすべき「村の城」を持っていたと思われますが、上畑沢にそれらしき跡がまだ見つかっていません。しかし、何処かに必ずあったはずです。古瀬姓はこの古瀬正太が配下に置いていた村人たちを中心にして名乗られることになったことでしょう。
次に、延沢軍記の塚田本には、十勇士の一人として豊島姓の家臣も出ています。
延沢家拾勇士
有路但馬 弐百八拾石 笹原岩見 弐百五拾石
落合周防 百五拾石 豊島飛騨 百五拾石
松倉 五拾石 土屋 三十石 鎌田 五拾石
細谷 二十石 高橋 三拾石 石川 弐拾石
この中で、畑沢に関係する姓は、有路但馬と豊島飛騨です。有路但馬は笹原岩見とともに野辺沢家の家老なので、延沢軍記には厭というほど登場していますし、有路姓は別の資料のところで後述します。この家老たちとともに、豊島姓の者も十勇士として名を並べています。なお、延沢軍記では「豊島」も「豊嶋」も混在していますので、使い分けしていないようです。
豊嶋 先祖武蔵の士、豊島太郎とて弓の名人なり、小笠原基正の門、其族宝蔵院流槍の名人
なり、此地に来り、大學介の臣たり
大學介とは、野辺沢家の先祖、北条大學介平満定のことで、西暦1330年に紀州熊野からやってきたと伝えられていることから、この豊島家は大分、前から野辺沢家の家臣になっているということになります。そして、最上家改易後も野辺沢領に残った者がいたようです。