(2) 北村山郡史に出て来る大戸・古瀬の姓
田村重右衛門氏が1979年に著した「野辺沢家と霧山城」で北村山郡史上収文書を引用しており、その中に大戸姓の家臣名が次のように出ています。
三百五十刈 大戸内匠助 千百刈 大戸大学
しかし、この大戸姓2名は野辺沢家の直臣であり、笹田の家臣ではありませんので、荒屋敷の大戸姓とは異なると思われます。畑沢以外の尾花沢市内や鶴岡市内にも大戸姓がありますので、そちらの御先祖かもしれません。
「尾花沢市史の研究」で引用している「北村山郡史上所収文書」には古瀬姓の家臣も次のように記載されていました。
知行之判取之事
山検 柳渡戸 古瀬蔵人
千五百六十束刈 十壱俵七升八合所
田 北郷ニ有年貢ト一所
七十 刈 一俵四升所
……
元和四年閏三月十三日 光昌 花押
有路小兵衛 殿
元和四年(西暦1618年)は、最上家が改易され野辺沢家も領地召し上げとなる元和八年の4年前です。この時、古瀬蔵人は柳渡戸に住んでいて、北郷にも田を持っていたと見るのでしょうか。ただし、この資料にある「山検」が何を意味しているかが分かりません。
また、「山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集(村山地域)」の「畑沢楯」の説明書きには、次の記載がありました。
下畑沢の旧徳専寺南部の丘陵全体が、……。伝承では古瀬蔵人が楯主とされる。
畑沢楯(山楯)は下畑沢です。楯主なら楯の近くに住居があるように思えますが、古瀬一族は上畑沢に住んでいますし、先述のとおり山楯の主は笹田であると思われます。また、畑沢で山楯の主について聞いてみましたが、山楯の楯主が古瀬蔵人であるとの伝承はありませんでした。