-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

徳良湖畔で尾花沢市のそば祭り

2018-10-14 19:04:34 | 近況報告

 平成30年10月14日(日)は尾花沢市のそば祭りでした。昨年、たまたま、そば祭りの存在を知って参加したところ、美味しいこと限りなし。そこで、今年も参加してきました。

 参加申し込みは、JAFのホームページで行いました。二口分をお願いしたので、二人分と思っていたのですが、なんと、一口が二人分でした。従って、合計四人分を申し込んでいたのです。妻と二人で四人分は無理かと思い、何方かに唯でお譲りしようかとも考えましたが、チケット販売場の前でそんなことをすれば、営業妨害してしうのではと思い、頑張って私が三人分を食べました。かなりの量でしたが、美味しいので、するするとお腹に収まりました。畑沢で採れたソバもあったはずです。

 

 会場では、花笠踊りなどのアトラクションとチェロの演奏がありました。この方の演奏は3回目ですが、今年も聞けるのではないかと期待ていただけに、嬉しい登場でした。

 

 徳良湖周辺も見物してきました。会場から東方向に翁山、双ツ森が見えます。どちらにも登ったことがありません。いつの日にか願いを叶えたい山です。

 

 徳良湖の南岸方向です。写真左の林は松林で、常盤中学校時代はここで芋煮会が行われました。

 

 逆に北岸です。かつてはここにお店があり、貸しボートもありました。

 

 北岸に釣り人の姿がポツンポツンと見えました。すべてヘラブナを狙っています。子どもたちの姿を全く見ることが出来なくなりました。ギンブナ、オイカワ、メダカなどがいなくなったからです。昨年、溜池の保守点検に合わせて、大規模なブラックバス駆除作業が行われました。その時に見た魚の大部分が大きなヘラブナと鯉でした。たまに在来種のナマズがいましたが、他のモツゴやムギツクは本来、山形県にいなかった魚種です。在来種は殆んどいませんでした。何度も釣り対象の魚が放流された際に、国内移入種が入って̪、在来種はほぼいなくなりました。もう子どもたちが釣り遊びする水面ではなくなりました。釣り道具などの釣り業界の儲けになる魚種が占めてしまいました。残念です。 


 沖に一本の棒が立っている船が見えましたので、望遠で撮りました。なんと、ヨットです。まるでヨットハーバーみたいな光景です。まさか徳良湖で見られるとは思いませんでした。ここまで運搬するのは大変だったでしょうし、お金もかかったことでしょう。ところで、ヨットは簡単に移動できないということは、いつも置きっぱなしということになります。はて、「私物をおきっぱなしするは、問題にならないのかなあ」と貧乏人は心配です。


畑沢に残る姓(名字・苗字)の考察 【その5】

2018-10-14 09:55:06 | 歴史

(5) 有路家系譜で見る有路姓

 楯岡高校社会部が発行した「郷土Ⅱ」には有路源右衛門家に残された「有路家系譜」が記載されています。

路家系譜

抑当家曩祖有路某平行昌延澤遠江守平康満祖長義之臣 長義者其先紀伊国乃産也英雄而其志於武者修行某先祖行昌同郷之勇士与長義倶学兵術相伴而出国矣往々陪従於諸国於相模川之渡長義忘草履行昌自得之奉 長義従是有君臣約数代忠勤家也然而長義為羽州延沢城主行昌相従而為股肱之臣天正年中役山形城主源義光公之因招属旗下到此而延沢氏最上氏共滅亡依之当家の先祖為漂泊号有路但馬男三四郎猶昌二歳而孤也外叉里見蔵人者養育之成長而有路治郎右衛門為養子然治郎右衛門実子出生故慶安元年中新造家宅而住居畑沢是以為当家中興之祖矣

昌昂撰之

 (以下を省略しました。)

―現代語訳―

 有路家系譜

 そもそも当家の先祖である有路何某の平行昌は、延澤遠江守平康満の先祖である長義の家臣であった。長義は、先祖を紀伊の国とし、英雄にして武者修行を志した。同郷の勇士である行昌も、長義とともに兵術を学びに相伴なって出国した。道々を諸国へ付き従い、相模川の渡しに差し掛かった時に、長義が草履を忘れたので、行昌は自分の物を長義へ差し出した。これ以来、君臣の約束をし、有路は数代にわたって忠勤した家である。こうして長義は羽州延沢城主となり、行昌は相従って股肱の臣となった。

 天正年間に、延澤氏は山形城主の源義光公(最上義光)からの招きによってその配下となった。ここに至って延沢家と最上家がともに滅亡したために、当家の先祖は漂泊となった。有路但馬の息子である三四郎猶昌は二歳の時に独り残され、外戚の里見蔵人が養育した。成長して有路治郎右衛門の養子となった。しかし、やがて治郎右衛門に実子が生まれたので、慶安元年(1648年)に家を新造して畑沢に住むことになった。これを以て当家の中興の祖とするものである。

昌昂がこれを書いた。


 この部分については、郷土Ⅱに印刷の乱れがあったので、最後の方の文言の順序を変えました。私の現代語訳はかなり怪しいのですが、大筋はこんなものでしょう。これは、有路家系譜は有路源右衛門家に残されていた古文書で、野辺沢家の筆頭家老であった有路但馬の息子が畑沢へ定着した経緯が書かれたものです。有路但馬は笹原岩見とともに、野辺沢能登守と野辺沢遠江守に従って活躍しました。その有路但馬の息子である有路猶昌が、畑沢の有路姓の元になったことを推測させる資料です。しかし、有路但馬の子孫については謎が多く、そのことは平成30年8月29日に投稿した「畑沢の謎を解くために堺田へ」に書いてありますので、参照してください。