~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

卑近な喩えですみません(ハンマークラヴィーア練習記録 その6)

2017年09月27日 10時30分13秒 | ピアノ

9月もあとわずかとなりました。

ということは、

↑ まであと2か月を切った、ということです。

1月末から譜読みを始め、第1楽章を4月の「ベートーヴェン以外の曲を弾く会」で許可を得て弾き、

同じく第1楽章を6月のコンペで弾き、あえなく予選落ちしたので(笑)、すっきり第2楽章以降にとりかかり、

7月~8月と蝉の声に燻されつつ師匠宅に通って、第4楽章をみていただき、

9月残暑の中、第3楽章のレッスンに伺いました。

というわけで、とりあえず全楽章のレッスンが終了。

「2か月前までには、一通り弾けるようになる(楽譜見ながら)」という当初の計画はなんとかクリアしております。

あと2か月で、完全暗譜まで行けるのかどうか・・・・今年はたいしてほかの曲は弾いてないので、ほんとに10か月がかり。幸せなことです。

 

 さて昨日は、区民文化センターのピアノ開放デーで、友人3人とともに弾き合いをしてまいりました。

4人で2時間。ひとり30分(1000円)。

ずっと3楽章ばかり弾いていて、前日の夜4楽章を弾いてみたら、指がもつれまくってヤバいことになっていたので、

3楽章だけ弾くつもりでしたが、なんとなく3楽章がいい感じで終わったので、

さっと4楽章の楽譜コピーを広げて続きを。

4楽章の冒頭のLargoの部分、いつもこの絵本を思い出します。

少しずつ少しずつ自然が目覚め、人間が目覚めていく時間を、しぶく、ほのかに、でも印象深く描いた絵本です。

そのあとのフーガは、ここまでの過去の練習記録にも書いているように、私にとっては、「鵺(ヌエ)」のようにわけわからんものだったのですけれども、

少なくとも「フーガおもしろい」とか、

「関係なくせわしなく動いていように見えるもの(人)が、ふとしたことでクロスしたり、結びついたりする、不可思議さと因縁」とか、

まあ漠然としてますけど、そういう「なにか」は感じるようになってきました。

で、3楽章なんですけども、

途中2回(1回目は短調、2回目は長調)で、左がリズム刻むところがあるんですが、

ここは、もう以前から「酔っぱらって歩きながら己の影にブツブツしゃべりかけて、ときどきはチェッ・・とか言う自分自身」に思えて仕方がない(笑)。

3楽章については「ベートーヴェンの全作品のなかでも、深淵なる魂を表現した楽章」などなど、ほんとに崇高な表現が並んでいるのに、「お前のアタマはその程度か」と言われればそれまでなんですけれども、そうとしか思えないんだから赦してください。

ほかの曲だったら、あまりアタマの中身明かすと笑われそうなんで、しれっとして弾きますけども、

まあこの曲は、53のアマチュアのおばさんが手を出している以上、「深淵なる魂」もなにもないので、失礼を承知で、いろいろ書いてます。

また書きます。

 


「おもしろい」とはなにか

2017年09月06日 14時53分00秒 | 雑感

なんか知らんうちに8月が終わってました・・・おそろしい。

ひさびさアマオケ参加の夫のコンサートを聴きに横浜まで行ったり、

娘が前座合奏で参加のコンサートがあったり、

2日連日デイサービスで弾いたり、

尾道まで師匠夫妻他出演のコンサートを聴きに行ったり、

区民ホールでのリレーコンサートに出たり、

と、スケジュール帳を振り返ってみれば、なにかはしているのですけれども、記憶があまり薄い。

短期記憶も長期記憶も危機的です。不断の暗譜活動で、なんとか記憶の雪崩を防ぐしかありません。

 

 

いきなりですが、昨日、2008年放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」の柳家小三治さんの回の動画を見ました。

柳家小さん門弟でありながら、立川談志さんとは正反対の個性の方のように思いますが、どちらもとても魅力的。

放送当時は小三治さん、68歳。

〈落語家は、通常その日話す演目は、会場に入ってから決める。ネタ帳を見ながら、その会場で最近どんな演目が話されたかをチェックする。さらに、土地柄や客層、その日の天気を加味しながら演目を絞り込む〉

〈本番30分前、小三治はモニターから聞こえる客の笑い声に反応した。「なにがいいでしょうかねえ。子供の声がしてましたね、さっき」。出番直前、候補は絞った。最終的には客の前に座って話を決める。まくらを話しながら、客の反応を探る〉

 

小三治さんは、若きある日、師匠柳家小さんに呼び出され、ひとつ落語をやるように言われたそうだ。

終わったとき、小さん師匠、思いつめたような顔をして「お前の話はおもしろくねえなあ」と。

当時小三治さんは技巧に長け、将来ある新進落語家として期待されていた。そこに、師匠の「おもしろくねえなあ」発言。つらい。

以来、寝ても覚めても、「おもしろい」とはなにか、・・で頭がいっぱい。

おもしろいといわれるものがあると、すっとんでいって体験する。もう必死だ。

そのとき、こういう言葉に行きあたる。古今亭志ん生師匠の言葉・・・「落語をおもしろくするのは、おもしろくしようとしないことだ」。

長い時を経て残ってきた落語は、それ自体がすでにおもしろいものなのだ、なにも落語家がおもしろくしようとしなくても、話そのものがおもしろいはず。そこで、小三治さんの個性というかスタンスが決定した。

そして50過ぎても「素直に演じることの難しさ」と格闘している、と。

 

もうひとつ印象に残った話。

「いちばん下からものを見ることができないと、落語はできないんだなあ。そういう意味では、自分はリューマチを患い、ひとの有難さや痛みを知った。病気に感謝しています」

この放送からだいぶ月日が流れた2014年、小三治さんは、人間国宝となられた。

 

この放送時68歳のときに、「150いくつ落語を覚えたんですが、いますぐできるのは30くらいしかないんです。これを忘れないようにはどうしたらいいんでしょうか?」と語っておられた。

落語は本をみてやるわけにはいかない。生涯記憶との戦い。晩年の談志も、「あれ?どっかいっちゃった。どうだったっけな?」と高座で立ち往生する映像がけっこう残っている。

・・・・おもしろいとはなにか

・・・・下からものをみる

・・・・記憶

どれもどれも深く考えさせられることばかり。最近落語、というよりは、落語家から離れられない。