涼しくなったのかと思うと暑くなるし、晴れかと思うと雨降るし、少しは痩せたかと思うとすぐ戻ってるし、ほんと落ち着きのない9月の日々です。
いや、でも2020年のオリンピック開催が東京に決まったというビッグニュースがあり、それに関連してテレビでは1964年(つまり私の生まれた年)東京オリンピック開催時の、裏話みたいな特集が連日放映されております。
たかが49年前じゃないかと思うのですけど、今みるとびっくりな話がけっこうあるんですね。
一番びっくりしたのは、当時「外国の女性選手は立って用をたす」ときいていて、女性用立位のトイレを作ったそうで、それがそのまま幻の遺産になったとか(驚)。世界は広いですから、そういうお国があっても別に驚きはしませんけど、結局使わなかったということはリサーチが不十分だったのでしょうか・・・
それから、当時の東京近辺の宿泊施設というと、ほぼ和風旅館だったので、「外国人のために、机と椅子を設置すること」というお達しがあり、それが今でも残っているらしい。あれですよね、畳の部屋の外側に付け足したように細い廊下状のスペースがあり、そこに机と椅子2客が置いてあるという。なんか不思議な空間だなあ・・といつも思っていたのですが、そういういきさつだったのですね。・・なるほど。
映像を見ても、沿道に割烹着のおばちゃんがすわっていたりして、さすがに時代を感じます。今ではあんな格好してるのは、サザエさんちのフネさんぐらいですけど、私が小学校の頃までは入学式に卒業式、お母さんたちはほぼ全員着物で、うえからカラスみたいな黒い羽織をきていたものでした。・・・・・と書くと、さすがに時代感ハンパないですね。やっぱり半世紀前のことだと思わざるを得ません。やれやれ。
そこまで過去のことではないのですけど、先日の「過去の自分の演奏を聴く」ドMシリーズの一環で、2002年夏の録音を聴いてみました、というか聴いてしまいました。
これはどういう状況のときの演奏かといいますと、ピアノを再開して3年目あたり、娘がお腹の中にいたころ(7か月くらい)のもので、こちらに転居してきて1年ちょっとで大人の発表会に出たときのものです。
ショパンのバラード3番なんですが、速く弾けないとか身体が重そうとか、そういうことは当然として、驚いたのは解釈というか鍵盤へのアプローチですね。
和音は平板に叩く、スラーの最後はブツッと切る、レガートとか関係なく細かい音も力いっぱい弾く、・・・・
要は超下手くそなんですけど、それにしても曲そのものは耳タコで聴いているはずなのに、聴くことと弾くことがあまりにもかけ離れているさまに驚きました。
逆にいうとこの演奏は「下手に聴こえるエキス満載」なので、反転していけば「それなりに」聴こえるはずでもあります。
再開したときの状態は自分でも覚えてますけど、楽器は電子ピアノ、楽譜は読むのがほんとに大変・・・調号、臨時記号、リズム、いちいち立ち止まって考えないとどんな曲になっているのかまるでわからない。しかも、もともとはあったはずの音感が壊滅状態。「どの音を聴いてもド」ということで、聴き取りなどはまったくできない。。
13歳でやめたあと、途中大学時代1年に1曲くらい仕上げてはいましたが、寮生活でしたから楽器は持たず。35歳で再開ということですから、再開3年目でバラード3番をなんとか譜読みして暗譜して人前で弾いたということは、まあ頑張ったといえばそうもいえます。おまけに、13歳でやめた時点では、ショパンはワルツを何曲かやったのみですから。
このバラードの録音を聴いて思ったことは、技術はやはり聴けてこそついてくるんだ、ということ。当時はおそらく、この録音を聴いても「ヒドイ」とは思わなかったはずなんです。当然どこをどのように直せばいいかもわからない。
もちろん「聴く」という行為そのものは、とくにピアノをやってない期間でも、CDやテレビ、あと生の演奏会でたくさん経験していたはずなんですが、「自分の演奏を聴ける」ということ、これはちょっとタチが違います。
「自分の演奏」そのものにしても、「録音を聴く」というのと、「弾きながら聴く」というのはまた違いがあるように思いますが、要は「耳をそらさない」ということかと。
若いころは知りませんけど、たとえば私くらいのトシになると、鏡や写真をじっくり見るのはあまりにも勇気のいることなので(汗)、知らず知らずのうちにどこか「目をそらして」いるところがあります。
毎回ツムジや分け目をチェックするでもなし、しわやシミを観察するでなし・・している方もいらっしゃるかもしれませんけど、まずは化粧だのなんだので、隠す方向に走ります。
自分の録音を聴くたびに、私はこういう行為を思い出すわけです。で、耐え難いので、最初は遠景から攻めるというか、まずは茶碗を洗いながら聴く、次に書類でも片付けながら聴く、・・そして楽譜を見ながらマジメに聴く。
それくらいの段階を経ないと自分の演奏に向き合えないヘタレです(汗)。でも、自分で嫌なものを人に聴かせて、かつ良い評価を得ようなどというのはムシが良すぎると、最終的には勇気を奮い起こして聴きます。
習慣になれば、そこまでのこともなく、「弾く→聴く」「聴く→弾く」みたいになりますけど、あまりに慣れてくると、今度は見慣れた自分の部屋の景色みたいになって、散らかっているところや汚いところにも平気になってしまったりします。そのあたりのバランスみたいなものも大事かもしれないですね。
ほんとひさびさに聴いた過去の演奏でしたけど、もともと自分の持っている傾向、うっかりすると今でも露出するクセ、トレ―ニングや指導によって変わってきたところ、・・・いろいろなものが見えて、勉強になりました。
演奏を記録するのは基本的に好きではないのですが、やはり無駄なことではないですね。懲りずにこれからもドMに聴き続けます。