昨日、日帰りで東京に行って参りました。
いいお天気! 広島の方がたぶん寒い。
東京文化会館、最後に行ったのはいつだったのか・・・・たぶん30歳のときに行ったポリーニが最後くらい。
ということは、23年ぶり?
なのに、上野駅と文化会館のこの変わらなさはどうだ(笑)。
なにしにきたかというと、これ↓です。
実は、行きたいたい行きたいと思いつつも、日程やらなんやらで、「行く!」と決めたのは11月14日(火)。
23日は朝から晩までベートーヴェンの会、25日は夜お仕事、自分もですけど、家族は大丈夫なのか?(汗)
でもまあ東京にも家族いますし(・・・会うかどうかはわからんけど・・・)という言い訳にならない言い訳を引っ提げて決行。
盛況です。
開演時のざっとのつかみでは、9割入り?という感じ。小ホールといっても、広島では大ホールサイズですから、ええ。
で予想してきた通り、並びの席や会場内には、広島でのレッスンや呉のセミナーでご一緒した若い方々がたくさん。
<プログラム>
ラフマニノフ:前奏曲嬰ハ短調 Op.3-2「鐘」
チャイコフスキー:「四季」より 7月<刈り入れ人の歌>、11月<トロイカ>、4月<松雪草>
ラフマニノフ=コチシュ:ヴォカリーズ Op.34-14
ラフマニノフ:前奏曲嬰ト短調 Op.32-12
スクリャービン:練習曲嬰ハ短調 Op.2-1
スクリャービン:ピアノソナタ第5番 Op.53
~~~~休憩~~~~
ムソルグスキー:展覧会の絵
プロムナード 1.小人 2.古城 3.テュイルリー、遊んだあとの子供のけんか 4.ブイドロ(牛車)
5.卵の殻をつけたひな鳥のバレエ 6.ザムエル・ゴルデンベルクとシュムイル 7.リモージュの市場
8.カタコンブ ーローマ時代の墓 9.鶏の足の上に建っている小屋(バーバ・ヤーガ) 10.キエフの大門
<アンコール>
チャイコフスキー:「四季」より、6月<舟歌>
ラフマニノフ:Op.23-5
今日のピアノは、タカギクラヴィアさんからレンタルのニューヨーク・スタインウェイCD368(1912年製)とのこと。
これがね、もうどういう音がするのか、聴きたくて聴きたくて辛抱たまらず、遠路やってきたわけです。
一曲目の鐘、思ったより大きい音ではない気がするのですが、客入りで音吸い込んでる可能性もあり、様子見。
低音域は「ときたまダミ声にも聞こえるほどの野太い音」、中音域は「人懐こい音」、高音域は「閃光や宝石のようなきらめく音」と思ったのですが、
帰ってから読んだプログラムの楽器説明には「1800年代のロマン派独特の香りを残し、太い重低音と輝かしい高音、メロウな中音域、豊かな色彩を持つこの楽器は、多くの巨匠たちと過ごしてきたキャリアの余裕すら感じられる」と。・・・まさにその通り!
いきいきとした情景の浮かぶチャイコフスキーあたりから、楽器もどんどん鳴ってきて(といっても、耳障りなほどの音量とかそういうことではまったくなく)、
ヴォカリーズではもう会場が一体となって聴き入ってました。
今回のプログラム、実は私は、今年2月の倉敷でのコンサート、11月に某所での通し練習と、2週間前のかしわや入江さんでのコンサート、そしてこの東京文化会館と計4回聴いております。
ヴォカリーズの情感とか歌については、これまでレッスン等々でも身近に接してきて、存分に聴かせていただいてきているのですが、
「油のしみた木」「時代のついた石」「木綿の服の匂い」「ランプの明かりとぬくもり」といった私自身もこれまで経験したことのないような感覚的なものがおしよせてきたのは初めてで、異時代、異空間をさまようことしばし。うーん、53歳なんて、このピアノの年齢にしてみれば、赤ん坊のようなもんです。そのピアノを操り、引き出す、松本氏凄し。
スクリャービン14歳時にかかれたエチュード、私自身はなんと50を過ぎてから巡り合った曲ですけれども、曇りガラスを通して凍てついた戸外を眺めるような・・・こういう曲と演奏に12歳(なぜか限定)で出会っていたなら、人生はまた変わっていたかもしれないですけども、出会わなくて幸せだったかもしれず(笑)。
つづく、スクリャービンの5番ソナタ、この曲の印象は2週間前のかしわや入江さんでのコンサートとかなり違ってました。
かしわや入江さん<可部>
漆喰と木に囲まれた人肌のスペースで聴くスクリャービン、ことに中音域が官能的ともいえるようなピアノの音で、うちにうちに入り込まれる感覚があったのですが、
昨日の東京文化会館では、浮遊感とか、光の層、閃光が強く感じられました。
プログラムノートには「この5番ソナタを弾いていると僕にはいつも、銀河系の果てしない輝きと人間の体内に滑り込んでいくような感覚が同時に感じられる」とあるので、スペースや楽器、聴き手の状態で「宇宙と体内」のバランスが多少変わってくるのかもしれません。
・・・・そういうことがあるので、同じプログラム、何度でもどこででも聴きたい(笑)。
休憩後は、「展覧会の絵」。
この演奏は、11月の某所での通し練習のとき(この会場は残響時間が長く、ピアノはスタインウェイ)、「<カタコンベ>をぜひ本番のピアノで聴きたい」と思ったんですね。
現代の、スタイリッシュで清潔感あふれるピアノはそれでそれでいいのですが、
消臭・消音が進み、さまざまな逸脱が毛嫌いされる昨今、なにか土臭いとでもいうようなものが恋しい。
今年どういうわけか、「展覧会の絵」がほんとによくコンサートにかかり、なにかの記念年なんだろうか?と思うほどでしたけれども、
時代の空気を敏感に察知するアーティストたちになにか、そういう反動みたいな気が降りてきたのだろうか・・・と思わないでもないです。
そういう中で、「これだ」という楽器と演奏。
ふだん聴きなれた楽器と比べると「うなり」や「きしみ」みたいなものも感じるのですが、
理性では制御できないような感情が、ダミッた低音(たまに轟音)や切り裂くような高音とともに迫ってくる。
「汚れてもいいんだよ、見苦しくてもいいじゃないか」という声が聴こえる(←個人的妄想)。
全体的には楽しい曲ですし、タイトルを追うだけでも十分面白いのですが、
音っていうのは、人間の根っこを揺さぶりますね。
聴きながら湧きあがったものを文字にしてみると、こういうことだったのかな、と。
最後に東京まで行って聴き届けてよかった(笑)。
長文にお付き合いくださった方々、ありがとうございました。