11月も末になり、毎日といっていいほど、ポストに喪中欠礼の葉書が入っている。喪中欠礼状は毎年くるものではあるのだけれど、年によって多い年と少ない年があるような気がする。そして、今年は(うちにとっては)多い年のような気がする。
だいたいは、知り合いの親にあたる方の訃報に接することになるのだけれど、今日目にしたものはそうではなかった。
といって、亡くなったことを即知るほどの関係には今はなかった方のものであった。
大学進学で上京した私は、ほんとに多くの方々のお世話になり、その結果今日があるわけなのだが、なかでも親代わりといっていいほど親密な関係にあった方が二人ほどあり、そのうちの一人が今日の訃報の方、寮職員のAさんであった。
寮職員といっても、大学自治寮であったため、寮母さんではなく、栄養士兼事務職で9~5時勤務の女性で当時50代だったと思う。
私の通っていた大学はふたつの寮を備えていたが、私のいた方は300人の大所帯で、それだけに、ほんとにいろいろな人間がおり、一見何年生だか不詳の「○○姐さん」とか、年中黒の服でいつもタバコを手にしている上級生とか、何時に起きて何時に帰寮しているのかナゾの人物とか、某思想の下に日々活動しているものとか、いちいち気にしていたら身がもたないほどの魑魅魍魎状態(?)だった。
自分は断じてそのなかの一人ではない、と言えないところが苦しいが、ともかくそれらの学生たち、なかでも規格外の学生であればあるほど、慕いなにかと頼りにしていたのがAさんだったのだ。
私にしても、寮長としてというよりもプライベートな領域で大変お世話になり、卒業してからも、飲みにいったり、ご自宅へ伺ったり、信州の方の別荘へもお邪魔して、一度などはご子息の婚約者と間違われたほどだった。
Aさんは信州のご出身だったのだが、どこか江戸っ子のようなところがあり、親身にいろいろな相談にのってくださりながらも「あなたねえ~、それはないでしょ」とバサっと斬られることもしょっちゅうで、そこがまた自意識ばかりが高くて常識が欠落している学生たちにはありがたいところでもあった。
Aさんは、まだ息子さんが小さいころ、ご主人を急性の白血病である日突然に、ご本人の言葉をかりると「泣く間もないくらいアッという間に」亡くされ、その後は女手ひとつでやってこられたのだった。
まだ学生の頃はそういう話を、なにか物語かドラマの話のようにきいていたのだが、今になって思うとそれがどれほど大変なことであったかがよくわかる。
そういう思いなども、ぜひいつか語り合いたいと思っていたのだが、それもかなわぬこととなってしまった。
お会いしようと思えば、ほんとにいくらでも機会はあったはずなのに、10年以上年賀状だけのおつきあいだったことが悔やまれてならない。
今となっては、ただご冥福をお祈りするのみ・・・・・。
Aさん、あんなこともこんなこともお世話になりすぎました。ありがとうございました。
だいたいは、知り合いの親にあたる方の訃報に接することになるのだけれど、今日目にしたものはそうではなかった。
といって、亡くなったことを即知るほどの関係には今はなかった方のものであった。
大学進学で上京した私は、ほんとに多くの方々のお世話になり、その結果今日があるわけなのだが、なかでも親代わりといっていいほど親密な関係にあった方が二人ほどあり、そのうちの一人が今日の訃報の方、寮職員のAさんであった。
寮職員といっても、大学自治寮であったため、寮母さんではなく、栄養士兼事務職で9~5時勤務の女性で当時50代だったと思う。
私の通っていた大学はふたつの寮を備えていたが、私のいた方は300人の大所帯で、それだけに、ほんとにいろいろな人間がおり、一見何年生だか不詳の「○○姐さん」とか、年中黒の服でいつもタバコを手にしている上級生とか、何時に起きて何時に帰寮しているのかナゾの人物とか、某思想の下に日々活動しているものとか、いちいち気にしていたら身がもたないほどの魑魅魍魎状態(?)だった。
自分は断じてそのなかの一人ではない、と言えないところが苦しいが、ともかくそれらの学生たち、なかでも規格外の学生であればあるほど、慕いなにかと頼りにしていたのがAさんだったのだ。
私にしても、寮長としてというよりもプライベートな領域で大変お世話になり、卒業してからも、飲みにいったり、ご自宅へ伺ったり、信州の方の別荘へもお邪魔して、一度などはご子息の婚約者と間違われたほどだった。
Aさんは信州のご出身だったのだが、どこか江戸っ子のようなところがあり、親身にいろいろな相談にのってくださりながらも「あなたねえ~、それはないでしょ」とバサっと斬られることもしょっちゅうで、そこがまた自意識ばかりが高くて常識が欠落している学生たちにはありがたいところでもあった。
Aさんは、まだ息子さんが小さいころ、ご主人を急性の白血病である日突然に、ご本人の言葉をかりると「泣く間もないくらいアッという間に」亡くされ、その後は女手ひとつでやってこられたのだった。
まだ学生の頃はそういう話を、なにか物語かドラマの話のようにきいていたのだが、今になって思うとそれがどれほど大変なことであったかがよくわかる。
そういう思いなども、ぜひいつか語り合いたいと思っていたのだが、それもかなわぬこととなってしまった。
お会いしようと思えば、ほんとにいくらでも機会はあったはずなのに、10年以上年賀状だけのおつきあいだったことが悔やまれてならない。
今となっては、ただご冥福をお祈りするのみ・・・・・。
Aさん、あんなこともこんなこともお世話になりすぎました。ありがとうございました。