もうひとつ頑張って書きます(笑)。
29日(土)夜のクリスチャン・ツィメルマンのリサイタル。
あらかじめチケットは入手していたものの、ここのところの用事の多さ、家族の都合かれこれから、いったんは行くのを断念していました。代わりに行けそうな人を探したものの、直前ではそういう奇特な方もおらず・・・、もうこれはなんとしてでも行けというなにかの思し召しであろうと決行。
倉敷市民会館、キャパの大きい会場でした。2000席はないような気がしますが(・・今、調べたところ定員1979名--車椅子5席含む--)。
それが満席。もちろん聴衆はこの地だけでなく、各地から来ているわけです。
ステージ上を眺めて・・・あれ?・・・椅子が(驚)。
これについてはこれから聴かれる方がおられると思いますので、今のところ、ちょっと内緒にしておきましょう。
プログラムは以下です(オールショパン)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ノクターン 嬰へ長調 作品15-2
ピアノソナタ第2番 変ロ短調 作品35
スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
(休憩)
ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
舟歌 嬰ヘ長調 作品60
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
作品番号、調性の並び・・・・おみごと。
ノクターンは弱音でスーっと始まり、私の席(1階22列ほぼ中央)からは耳を澄まさないと細部までしっかり聴こえないほどの音量。全身耳になった状態のところで・・・・
ソナタ2番第1楽章の冒頭。一回目はさほどの音量ではなかったのですが、リピート以降はけっこうきました。最初からかなり左手がアグレッシヴで、音量バランスから言っても逸脱しているのでは?と感じるほど。でもその左のしつこさが、全力でなにかにあらがっているような独特の緊張感を生み、さらに展開部からはバスが鳴り響き、終わりに向けては加速も手伝って息もつかせぬ怒涛の展開。
第3楽章(葬送行進曲)になったとき、急になにかこちらが遠ざけられたような気が・・・なんといいますか、ちょっと離れたところで粛々と葬列が進んでいるような感じ。そのときいきなり「ああ、彼はポーランドのひとだった」という思いがよぎりました。なにかこちらが立ち入ることのできない領域なのか・・と。非常につらいものを手をこまねいてただ見るしかないような感覚。第3楽章が「これ以上ない」という弱音で終わったところで・・・
第4楽章がかなりの弱音で始まり、うずまく風雲のなかに稲妻が走るような、混迷と疾走のうちに終結。
何年か前、同じ曲をツィメルマンで聴いたとき、非常に激怒した荒れた演奏であるように感じました。それがこの曲を表現してのことなのか、そのときの聴衆のマナーに対してなのか、当時の日本政府の対外的な態度に対してなのか、原因はわかりませんでした。
今でもわかるわけではありませんけれど、少なくとも今回は「荒れた」という印象の演奏ではなく、楽曲の表現として理解できたような気がします。
続くスケルツォ第2番。
もともと「ところてん」などと表現される冒頭なのですけど、どこかユーモラスでさえある演奏。「ショパンの<スケルツォ>は激しく険しい内容」というのは単なる私の誤解&先入観であったのかしら?
たしかに短調の曲なのですけど、おどけて即興的で・・・・・これってそれこそ<スケルツォ>?!付点リズムの絶妙さ、パッセージの軽妙さ。
コーダは超高速で、いくら巨匠ツィメルマンとわかっていても「・・・外さないか・・・かすらないか」とドキドキしてしまうようなスリル。・・はい、完璧でした。
こんなにのめりこむような演奏を最後まで聴かされたらモタナイかもしれない、と休憩時に変な心配をしてしまいましたが、そのあたりはさすがといいますか、後半は(私にとっては)聴きやすい演奏でした。
ソナタ3番は自分がまったく弾いたことがないせいもあると思うのですけど、わりにすんなり聴けたような気がします。内声の異常な強調などもなく、ひとことで表すと「言いようもなく美しい」。フィナーレの怒涛は圧巻。
「舟歌」も実に実に美しかったのですけど、途中でふっと気づきました・・・・「なんか陽射しが弱い・・」。
この曲、イタリアの陽射し(と私が勝手に思っているだけなのですけど)みたいにキラキラ~ときらめく演奏を聴くことがわりにあります。それも悪くないのですけど、ツィメルマンのこの演奏は、雲を通した陽が水に映っているような感じ?現実感が薄いとか現世的でない・・という言い方もできるかもしれませんが。
こういうものを聴くと、ますます自分では手を出す気が薄れるし、聴きたい演奏も選んでしまいますねえ・・・・・罪なものを聴いてしまいました。
プログラム終了後、拍手が鳴り止まず、スタンディングオベーションもあったのですが、このプログラム(ノクターンで始まりバルカローレで終わり、しかも嬰へ長調で完結)になにを足すのだろうか・・・・・やはりアンコールなしでした。こちらもそのほうが落ち着きます。
技術や音楽的なものは言う必要もないとして、プログラムの妙、演奏の緩急、すべてにおいて完璧なリサイタルであったと思います(楽章間の拍手はちょっと・・でしたが)。
ピアノも音楽もどこまで果てしないのか・・・という思いもまたさらに深まりましたけど・・・・
29日(土)夜のクリスチャン・ツィメルマンのリサイタル。
あらかじめチケットは入手していたものの、ここのところの用事の多さ、家族の都合かれこれから、いったんは行くのを断念していました。代わりに行けそうな人を探したものの、直前ではそういう奇特な方もおらず・・・、もうこれはなんとしてでも行けというなにかの思し召しであろうと決行。
倉敷市民会館、キャパの大きい会場でした。2000席はないような気がしますが(・・今、調べたところ定員1979名--車椅子5席含む--)。
それが満席。もちろん聴衆はこの地だけでなく、各地から来ているわけです。
ステージ上を眺めて・・・あれ?・・・椅子が(驚)。
これについてはこれから聴かれる方がおられると思いますので、今のところ、ちょっと内緒にしておきましょう。
プログラムは以下です(オールショパン)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ノクターン 嬰へ長調 作品15-2
ピアノソナタ第2番 変ロ短調 作品35
スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
(休憩)
ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
舟歌 嬰ヘ長調 作品60
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作品番号、調性の並び・・・・おみごと。
ノクターンは弱音でスーっと始まり、私の席(1階22列ほぼ中央)からは耳を澄まさないと細部までしっかり聴こえないほどの音量。全身耳になった状態のところで・・・・
ソナタ2番第1楽章の冒頭。一回目はさほどの音量ではなかったのですが、リピート以降はけっこうきました。最初からかなり左手がアグレッシヴで、音量バランスから言っても逸脱しているのでは?と感じるほど。でもその左のしつこさが、全力でなにかにあらがっているような独特の緊張感を生み、さらに展開部からはバスが鳴り響き、終わりに向けては加速も手伝って息もつかせぬ怒涛の展開。
第3楽章(葬送行進曲)になったとき、急になにかこちらが遠ざけられたような気が・・・なんといいますか、ちょっと離れたところで粛々と葬列が進んでいるような感じ。そのときいきなり「ああ、彼はポーランドのひとだった」という思いがよぎりました。なにかこちらが立ち入ることのできない領域なのか・・と。非常につらいものを手をこまねいてただ見るしかないような感覚。第3楽章が「これ以上ない」という弱音で終わったところで・・・
第4楽章がかなりの弱音で始まり、うずまく風雲のなかに稲妻が走るような、混迷と疾走のうちに終結。
何年か前、同じ曲をツィメルマンで聴いたとき、非常に激怒した荒れた演奏であるように感じました。それがこの曲を表現してのことなのか、そのときの聴衆のマナーに対してなのか、当時の日本政府の対外的な態度に対してなのか、原因はわかりませんでした。
今でもわかるわけではありませんけれど、少なくとも今回は「荒れた」という印象の演奏ではなく、楽曲の表現として理解できたような気がします。
続くスケルツォ第2番。
もともと「ところてん」などと表現される冒頭なのですけど、どこかユーモラスでさえある演奏。「ショパンの<スケルツォ>は激しく険しい内容」というのは単なる私の誤解&先入観であったのかしら?
たしかに短調の曲なのですけど、おどけて即興的で・・・・・これってそれこそ<スケルツォ>?!付点リズムの絶妙さ、パッセージの軽妙さ。
コーダは超高速で、いくら巨匠ツィメルマンとわかっていても「・・・外さないか・・・かすらないか」とドキドキしてしまうようなスリル。・・はい、完璧でした。
こんなにのめりこむような演奏を最後まで聴かされたらモタナイかもしれない、と休憩時に変な心配をしてしまいましたが、そのあたりはさすがといいますか、後半は(私にとっては)聴きやすい演奏でした。
ソナタ3番は自分がまったく弾いたことがないせいもあると思うのですけど、わりにすんなり聴けたような気がします。内声の異常な強調などもなく、ひとことで表すと「言いようもなく美しい」。フィナーレの怒涛は圧巻。
「舟歌」も実に実に美しかったのですけど、途中でふっと気づきました・・・・「なんか陽射しが弱い・・」。
この曲、イタリアの陽射し(と私が勝手に思っているだけなのですけど)みたいにキラキラ~ときらめく演奏を聴くことがわりにあります。それも悪くないのですけど、ツィメルマンのこの演奏は、雲を通した陽が水に映っているような感じ?現実感が薄いとか現世的でない・・という言い方もできるかもしれませんが。
こういうものを聴くと、ますます自分では手を出す気が薄れるし、聴きたい演奏も選んでしまいますねえ・・・・・罪なものを聴いてしまいました。
プログラム終了後、拍手が鳴り止まず、スタンディングオベーションもあったのですが、このプログラム(ノクターンで始まりバルカローレで終わり、しかも嬰へ長調で完結)になにを足すのだろうか・・・・・やはりアンコールなしでした。こちらもそのほうが落ち着きます。
技術や音楽的なものは言う必要もないとして、プログラムの妙、演奏の緩急、すべてにおいて完璧なリサイタルであったと思います(楽章間の拍手はちょっと・・でしたが)。
ピアノも音楽もどこまで果てしないのか・・・という思いもまたさらに深まりましたけど・・・・