ディーゼル機関車 花の鉄路へ 貨車をひく
写真と俳句で分かると思うので、余計な説明はしない。
ただ、この写真がいいと思う理由を書かせていただく。
その前に、この写真は親しくしている友人から快くご提供いただいたものである。
友人氏には心より感謝申し上げます。
さて本題の私がこの写真が好きな理由を書かせてもらう。
一言で言うと、日常の中に「晴れ」があるからだ。
ディーゼル機関車は、毎日何両もの貨車を牽引して、始発駅から終着駅まで仕事を続ける。
しかし、誰も見ていてくれるわけではない。
この日もたまたま貨車を牽引して、ちょうど桜の花が満開の鉄路を走っただけである。
しかし、桜の花は、そのディーゼル機関車が走る鉄路で「花道」をつくるかのごとく咲き誇っている。
桜もディーゼル機関車も「晴れ」の舞台を踏んでいるのだ。
桜が散った後も、ディーゼル機関車はまた葉桜となった鉄路を黙々と貨車をひいて走って行くであろう。
誰からも賞賛されなくとも。
黙々と。
時には、吹雪く日もあるだろう。
雨が吹き付ける暴風の時もあるだろう。
そうした「ケ」の日々もまた黙々と、貨車を引いていく。
そこが、この写真のいいところなのだ。
誰にも賞賛されなくとも、自分のすべきことを黙々と続ける。
しかし、桜の花がそれら全てを見ていますと言うがごとく、ディーゼル機関車の花道をつくっている。
コロナ渦で耐えることを強いられる自分にとって、この写真こそ今何をすべきかを教えてくれる。
コロナ渦という「ケ」において、自分のすべきことを考えてただ黙々と続けることこそ、桜の花の咲く花道つまり、「晴れ」の舞台へとつながっているのだ。
ディーゼル機関車が貨車をひくように、今自分のすべきことは黙々と自分の「貨車」を引くだけである。
晴れの日もケの日も。